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2021-02-10 [長年日記]

[煉瓦][] 大阪日報M20.1.15 大阪窯業、原口+青木+花岡

●煉瓦の注文 府下西成郡湊屋新田なる煉瓦石製造所にては此程東京なる仏国公使館より注文を受け至急許多の煉瓦石を製造なすが為め昨今頗る多忙を極め居るとのことなるが右は過日焼失したる同国公使館を新築するの用に供するものにして同館は従前の場所に於て今度は総煉瓦造にさるるより斯は多くの注文ありしなりと云えり
●堺煉瓦石製造所の祝筵 和泉国堺区大浜通二丁目煉化石製造所は近頃益々業事の盛大に赴くに付き製造人原口仲太郎氏は今度同業者なる青木、花岡の両氏と合併し尚一層の拡張を計らるる由にて一昨日は右披露[傍ーイ]々新年の宴会を兼ね祝筵を同地の丸万楼に開きしが来賓は京都府属兼疏水工事煉化製造所長片山正中外二氏其他堺区長銀行諸会社新聞社員等無慮八十余名にて席上祝文の朗読及び演説等あり終りて鄭重なる日本料理の饗応をなし同地龍神橋の紅■十数名が手踊をなして興を助くる抔中々の盛会なりしが午後八時頃何れも歓を尽して散会せり

前者「湊屋新田」。湊屋にあったのは大阪窯業だが、新田がつくんだっけか。50年史にはこの時期の記述が少なく貴重な活動情報だ。(この報が真実なら)大阪産煉瓦が関東まででかけていたことになる。大阪窯業はこの翌年だったかM24だったかにホフマン窯を作るが親会社の硫酸製造会社の拡張で追¥い出される。

同じ年の大阪日報には炭屋新田の大阪煉瓦の広告。

後者はずいぶん覚え違えてたな。原口+青木+花岡。花岡工場は確かにM20末で消えるが住吉橋通1丁目にはM21版から井上工場が現れるのだった。青木は青山の間違いのように思われるが、別に青木工場があったようなあいまいな記憶も(青山工場はM23末まで継続を確認)。疏水事務所工場の所長も参加しておるのは原口が工場立ち上げを協力したからで、翌日の記事にもそのことが書かれてある。呉鎮守府・佐世保鎮守府に煉瓦工場を建設するために協力という記事。にしても80人も招いて日本料理を振る舞うわ芸妓が手踊りするわで相当の饗応だったことがわかる。原口は大阪セメントの特約店をやってたりもし、後日には建野府知事が原口の所に逗留したりもしているのだった。どんだけ。


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