nagajisの日不定記。
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早前期も半ばを過ぎんとし今から前期の総仕上なり。即ち正々堂々戦わん。
授業は久しくの休により以〔意〕外に要領を解し得ずして始の中は本気出でず。午後旅行携行品の検査・柔道あり。柔道の際又も腕はれ手の自由を奪わる。
平凡なる一日に過ぎず。一日一善を為さんと決心したり。
早や夏ともあんり前期も後半の緊張すべき時となりぬ。今日は誕生日会あり。体操は全身倦怠にてどうにも体の自由がきかずして十分なすこと能わず。随意運動は明日の練習用具検査の為に運動具箱及倉庫の掃除に用いたり。体操をなす能わずして残念なり。一般に近日は時間がうまく利用し得ず自習も運動もなし得ず困る。早く倦怠なおりて元気溌剌やりたきものなり。夕食の際に田代生徒監殿話あり。二ヶ年前の六月を思いソ連国境の有様、米国は左手の小指、支那は左腕、ソ連は両腕を陸軍に力を要すると。日本の陸軍の作戦・訓練の相手はソ連なり。然して今や日本は大攻勢に出ずべく準備中なり。今に面白い事が始まるかと思うと愉快なり。日朝点呼は校庭となる。
秋里は痔の手術の為入院し美作及び寝台学友の久保は共に黄疸にて入室す。
佐和山でボートを漕ぐOFFは廃道巡の延長なんだが(なぜ延長なのかは海田ッヶ?)、深く考えずに「せっかくだから扁額拓本をとろう」と思い付いたうえに前泊乗り込みを企図したのが自縛の縄だった。ボート+ラッペリング装備+テント一式+自転車を運ぶのは地味に大変だ。当たり前だ。
29日の昼前に出発。途中滋賀県立図書館に立ち寄る。以前見つけて忘れて思い出した近衛歩兵第一連隊史を読むことが第一の目的。しかし補充大隊附属第二中隊って何やねんというところがわからずじまい・・・核心部分と思われるものをコピーして、あとでじっくり読もうと思ってそのままになっている。これを終えたら読もう。
せっかくなので他も物色していたら、大正六年の陸軍大演習の記録が出てきた。連隊史よりもこっちばかり読んでいたような気がする。1000ページを超える大巻。
陸軍大演習は開催地にとって非常な名誉であると同時に天地がひっくり返るような大事件だった。この本を読むとそれがよくわかる。たった3日間の演習のために3月4月からわっさわっさして、あれこれ規則を設けたり必要な施設を新築したり改修したり。半年前に開催地を決める(それも事前通知なしで)というのも地方のそういう能力を試すためじゃなかったっけか。滋賀県の場合は正式な通知がある前に内示があったみたいだが。
大正六年の陸軍大演習に興味を持つ理由はまたいつか詳しく述べる(そればっかりだな最近)。要は撤去された家棟隧道が本当に陸軍大演習のために作られたものだったのかどうかの確証が欲しかったのだ。結論からいうと「表向きにはそうなっていない」。確かにこの時中山道が移動ルートに使われていて、隧道のあった場所(辻町−小堤間)が修築されていて、改修費用も他とは数倍−十数倍する5000円強の改修費用がかけられている。が、隧道を作ったとまでは書かれていない。5000円でアレが出来たのかどうかも検討しどころだ。
そもそも宮内庁が出した大演習の実施要項?には、華美を避け、道路修築も必要最小限にするように、ということが明記してある(汚らしいからといって沿道の建物を改築したり布で覆ったりするようなことをするな、ともある)。それからするとわざわざ天井川隧道を作るのは聖意に背く規定違反ということになる。大演習を意識して作ったものの、おおっぴらには書けなかったのかも知れない。状況証拠としては大演習に合わせて作ったことは間違いないのだが。そのために(そのためだけに)遠山呼んできたのは間違いないのだが。遠山でなければならなかった理由も。ネタは上がってるんだからな>博愛ッ
ひどく脱線した。それで夜7:30頃彦根着。その日の晩と翌日朝昼+αの買い出しを、駅前の平和堂でした。ちょっと奮発して「こんだけ買えば豪華極まる野宿だぜイェア!」というラインナップ計1310円分。そっくりそのまま店に置き忘れてきた。トイレに入る前に入口に置いて、そのまま出てきて、気づいたのは閉店時間後だったという。超のつく阿呆である。
閉店後、裏口の事務室に行って尋ねてみたのだけれど、こちらが申し訳なくなるくらいに親切に対応していただいて、さんざんお手間をかけた挙げ句、見つからないし届けもないということで、泣く泣く諦めた。どこまでも迷惑ないきものだ>nagajis。結局コンビニでレトルトボンカレーほかを買い直した。
泊地は佐和山隧道前の廃屋脇。野宿には最適な気温および湿度で、食事が寂しい以外は大変いい泊まり心地であつた。泣。
翌日は8時頃からあれこれ準備。ゴムボートを設営するのに時間がかかるだろうと踏んでいたのだが、パンクしているのを発見したうえ、タイヤ用のゴムのりでは補修できないことが発覚してしまい、相当慌てた。電車で合流する辰さんを駅に迎えに行くついでに何とかしようと思ったものの、当の辰さんとはすれ違いになってしまったうえ、接着剤が買えそうな場所が2kmほど離れたダイソーしかなく、そのうえ10時前から雨が降り出して、こんな時に限って折り畳み傘しかもって来ていず、歩いていったものだがら小一時間以上かかったりなどして。考えてみればこの辺りでもうツキが尽きていたのかも知れない。
佐和山に帰ってきたのが11時過ぎだったか。謎の自衛官氏、辰氏、multi氏がすでに集合。幸いなことにこの時点で雨が上がり、以降撤収するまで持ってくれた。そのお陰で扁額拓本をとることもできたのだった。
写真提供・謎の自衛官氏
写真提供・multii氏
米原口扁額は採りやすい高さにあり、multi氏がチャレンジされたのだが、思った以上に風化が進んでいたせいでうまくいかなかった。ラッペリング装備が必要な彦根口は自衛官氏の強力な協力のお陰で何とかモノになった。パンク修理したボートもうまくいった。しかし、それらが一段落して、nagajisが独りでボートに乗っている最中、ブシューという音を立ててパンク。なんでやねん(泣。経年劣化であちこち痛んでいるようだ・・・。
補修はしたものの乾くのに時間がかかりそうでもあり、またボートの片づけに時間がかかることもあって、4時過ぎに撤収を開始。終えた頃にみつさんが合流され、残念ながらボートにお乗りいただくことはできず。次回また別の何かを用意しますので...ごめんなさい。帰りは自衛官氏が大津まで送ってくださり、お陰でかなりの節約ができたものの(感謝ですぅ)、やはりあの荷物でJR山崎→阪急大山崎乗換などするべきではなかった(とはいえ大阪駅まで行ったところであの大階段登らないといけないんだし。どっちもどっちだろう)。帰り着いた頃には何もできない位に疲労し尽していた。
Mさんを柱本にご案内する約束があって、紀見峠駅10:00集合だったのだが、目を覚ますと9時20分だった。激しく動揺した。携帯番号を伺い損ねていたうえに紀見峠駅は無人駅。連絡の取りようがない。腹をくくって柱本へ向かった。電車の乗り継ぎは非常にスムーズに行ったものの、着いたのはやっぱり11時過ぎ。駅にはおられず、先に隧道へ向かわれたのだろうと考えて現地へ急いだ。そうして隧道前で追い付いた。つまりゃー案内になっていないnagajis。うえに塞がれていたという。やあやあ何かバチが当たるようなことしたっけか俺・・・。ここまでツイてないと笑うしかない。
しかしMさんと奥さんが寛容な方で良かった。いろいろ案内するなかで教わったことも多いし、少しはお役に立てたようだった。何かに生かさなければと思う。
総合すると、運不運のメーターが両極端に振り切れるような目まぐるしい3日間。考えてみれば5月末〜6月頭はいつもこんな感じのような気もする。梅雨を目前に控えて、今のうちにいろいろ片付けておこうと躍起になって、それが裏目に出るというパターンの。何もせずじっとしているのがいいのかも知れないが、何も起こらない人生というのも退屈だし、いちピエロとしての職務を全うせねばならないというのもあるので、そうもいかない。人様に迷惑をかけない程度に波風を立てて梅雨を乗り切ろうと思う(とかいいながらすでに立っている波風)
ひどく瑣末なことだが意外だったので貼っておく。モトコーの壁体には煉瓦が使われている。
どうやらアーケードを後付けした時に煉瓦を使ったらしい。もともとは素っ気ない鉄筋Cの連続Πラーメンだったようだ(完結)。
最初に目が覚めた時はマジで7時頃だと思ってた.余裕こきすぎ.万死に値する.
先代の千石橋(大淀町~下市町)は鋼トラスだったのだが,1960年代に架け替えられた余材が五條市の大昭橋(大正橋)に流用されていたらしい.その大昭橋も2002年,単径間のRCアーチに架け替えられた(写真).部材はどこへ行ったやら.
五條市の御蔵橋(吊橋)も同様の転変をしてる.1929年に吊り橋になり,戦後にトラスに架け替えられて,余材は相谷橋になったのだとか(1955竣工).相谷といえば真土トンネルのある辺り.ネットで画像を探してみたけれどもそれらしい写真は見つからず.そばを通っているはずなんだけど,写真撮ってないよなあ・・・
以上,「橋梁史年表」より.
明治40年、鉄道国有法によって大小様々な私鉄が国有化されたが、その結果として国鉄が管理しなければならない軌条の種類が馬鹿みたいに増えた。その結果布達されたのが明治42年7月12日逹第623号「軌条及付属品称 呼ノ件」。種々断面の軌条を整理して新しい呼称をつけたものである。それでも60ポンドレールなんかは9種類もの分類を必要とした。重量が同じくせに、なんて思っていたのだけれども、軌条を繋ぐ継目板は軌条断面毎に違うので異種軌条を連結することができない(そういう時には専用の異形継目板を必要とした)。また断面は同じでも継目板のボルト穴の位置が違ったりする場合もある。なので細かい分類が必要だった。
鉄道院が作成した「軌条及付属品図」にそんな軌条断面・継目板の形状が寸法つきで描かれている。古レール研究家はこの図に描かれた断面と逹623号の分類を信じてレールを調べている(はず)。
なのだが、どうも納得がいかないところがある。阪鶴鉄道で使われていた軌条は60ポンド第4種と同9種に分類されているのだけれども、福知山線柵には阪鶴発注の第9種断面の軌条というものが存在しない。60ポンド第9種には阪鶴線で使用されていたものだけが割り当てられているにも関わらずだ。
60ポンド第9種の断面は同第5種とほとんど同じで、軌条の「ノド」の角度がわずかに違うだけとされている。なので断面ゲージも第5種のを流用している。その第5種のゲージがフィットするものからして無いのである。 ただ2つだけ、
CARNEGIE 96 IIII STK
と
6007 ILLINOIS STEEL Co SOUTH WKS V 1897 STK
はフィットしたけれども、これは山陽鉄道の発注品であるので第5種に分類されるべきものだ(逹623号でも新山陽型→第5種と改名されている)。6007 ILLINOISには山陽鉄道マークが入っているものさえある。ともかく上記以外に第5種/第9種のゲージが入るものが存在しないのである。
そのくせ、明らかに阪鶴鉄道発注品だとわかるものは
CARNEGIE 1896 IIIIIIIII HANKAKU
と
6015 ILLINOIS STEEL Co SOUTH WKS X 1897 HANKAKU
の2系統がある(Illinoisのは1898年1月製造のもあり)。そうしてどちらも60ポンド第4種のゲージ がはまるーーー形状は60ポンド第1種即ちASCE断面と類似しているのでそれと共通のを使っているーーーそもそもIllinoisの6015番はこれがASCE規格の元になったという断面だーーー。ここでCARNEGIE 1896に第5種ゲージがはまれば全ては解決するのだが、現実にはそうなってはいないのである。
明らかに阪鶴発注品とわかる軌条が2種類あり、どちらも第4種であって、だのに第9種が見つからないという謎状況なわけである(ついでにいうと昭和5年『保線統計』の断面別統計の解説でも「この断面の軌条は現在見当たらない」と書かれている。60-9は80年以上前から行方知れずなのだ)。これは一体どういうわけなのか。
余りに瑣末なことなので、長いこと見て見ぬふりをしてきたけれども、調査が深まっていくにつれてモヤモヤの堆積を無視できなくなってきた。あれこれ考えた末、最終的に「『軌条及付属品図』が間違ってるい」という判断に至らざるを得なくなった。この図は意外とデタラメなところがあって、50ポンド軌条の一つも明らかに寸法が間違っているものがあるうである。60ポンド第9種も実はそうなのではないか。
改めて逹623号を読んで見ると、第4種に分類された阪鶴線軌条は、それ以前は「60封度(ウェブ厚31/64”)」と呼ばれていたことになっている。んで第9種に割り当てられた阪鶴軌条は 「60封度(ウェブ厚1/2”)」。ウェブというのは「工」の字型をした軌条の縦棒に相当する部分のことで、 旧呼称時代にはその厚さが31/64インチなのか1/2インチなのかで分けられていたということだ。
てことは、CARNEGIE 1896と6015 ILLINOISのウェブの厚さを測り比べたら、疑問が解決するんじゃないか。同じ断面のように見えて実は微妙に形状が違ってるんじゃないかーーー6015は後のASCE規格だから、CARNEGIE 1896が第9種相等の軌条なのではないか。
そう想像したところまでは良かった。問題は、どうやってウェブ厚を測るかだ。しかも相等精度良く。
31/64インチ=12.3mm
1/2インチ=12.7mm
わずか0.4mmの差、なのだから。
福知山線の柵なら、それができる。写真に掲げた如くである。
そうして想像通りの結果を得た。
自分の利益しか考えない、周りのことが見えてない人間は醜いものである。以て他山の石とすべし。とこの間黒姫駅で怒られたnagajisの口がいう。
一度その機会があると「この際だから」と方々に手を出すタイプである。毒を食らわばサラエボというやつだ(この部録”を検索したら多分3回くらいこれ書いている)。
仮にわかったとしてもどこにも出せないのなら意味がないかも知れないが、私は知りたい。それを踏まえた判断のほうを使えばよいだけで、もし書く必要が出てきたらその時に改めて許可を得ればよい。というか○✕△□のNDLの件も学術利用ができてないよな……頑張って煉瓦が増えただけではないか。
作成年度があっちこっちに行っているので読んでもどうも頭に入らない。山り日記は日記だったから古いものから順に読めばある程度は理解できた。今回はそれでは太刀打ちできない。よってExcelで整理してみることにしたが、今度は作成日のところが複製されていなかったり肝心の一行がページ間に跨る罫に書かれてあったりして読めぬ。困る。複製本を用意してくださるのは大変ありがたいのだがその複製本を作る時にもう少し配慮していただきたかったものである。
貸下金滞納についての督促は前々からやっていたみたいだが県議会で問題になり抵当を取ることが決議されたのを受けてやっと財産差し押さえに動いている。そのときにはもう瓦・煉化石製造は子会社化していて、東洋組の資産と呼べるものは斎藤自身が持つ瓦業の株券80数口しかなかった(悉皆抵当の達に対する斎藤の嘆願書・M18.5.25)あと製造した瓦・煉瓦(あれ、これは子会社のものではなく? 東洋組に上納した後だったのか)。年初の議会で問題になり始めた頃子会社化したのだろう→ビンゴ、M18.2.or4.に天工会社とおれは書いている。かなりの綱渡りで事業だけは存続したことになる。そんなことをしてまで士族授産の灯を消したくなかったと見るべきか否か。お陰で刈谷も西尾も東海道線工事に供給するチャンスが得られて少しだけ延命することができたわけだから無駄ではなかったと思いたい。
_ 藤本 [すごい!]
_ nagajis [まだ数本でしか確認できてないんですけどね・・・福知山線は奥深いですよ。]