nagajisの日不定記。
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近日目ずらしき晴天なる故朝より諸々を乾したり。されど二十時二十分に至り大風となり。三十五分過大雨となれり。晴れたる故後日をあやしみ体力機能力検査あり。然し予は掌もうるし負の故参加せず。実に残念なり。此の快い日に残念なり。柔道は試合なりき。
考査もあと一週間に迫り緊張したる空気が充ち始めたり。工作にて、先日ビルマより復られし掛林教官殿の下に受信器組立を行えり。投擲四十七米行きたり。他の運動は今日は振わずして体が心にともなわざりき。今日は人に負けんとしたる日なりき。頑張れ。良好。
掲示板、どなたか投稿してくださらないとまた壊したのかと思ってドキドキする。ありがとう淑子さん(違
前回はUTF-8の判定をJcodeでさせてたんだが途中でサーバの設定が変わった(?)せいかうまく機能しなくなってしまった。一段階戻して、EUC-JPかどうかの判定に切替え。UTF-8数文字+英語だとEUCだと判断されてしまうことがあるようなので(当り前か)、こいつをすり抜けるSPAMだけ特別な正規表現を書いて弾いている。その結果・・・。
日本語のエロスパムだけが残った。どっとはらい。
エロスパムだけを通すスパムフィルターの完成だ。NGワードを打ち込むのもかったるいしなぁ。。。でもやらんといかんのだろうなあ。だいたい手入力のスパムなんてどうやって対処したらいいんだ。おーい、降参したからヤメレー>SPAMMERさめ
朝起きれないのはnagajisだけのようだ。フフフ。遅刻したら置いて先に登ってください>各位。
只今の参加予定者(アイウエオ順)
あきら氏(R173-net)、asamo氏(漂ヘド沈マズ)、tori氏(山さ行がねが)、謎の自衛官氏(デミオが行く)、張子の虎氏、multi氏(萬流智隧道)、ヨッキれん氏(山さ行がねが)。
おまけのナガジフ、。
霧の青山峠。旧道を辿らずに長野峠方面へ。この時に長野隧道(廃)下を通っている。後で知った時の悔しさと言ったら! おばあちゃんにバナナを頂いた蝙蝠峠。大山田の百年は未だ未見で、未だになぜ蝙蝠なのか解っていない。97年?に通った√25を下り。鈴鹿サーキット脇のキャンプ場に泊まる。タイヤがバースト寸前で、市街の自転車屋でタイヤを購入した。赤いサイドラインの入ったスリックタイヤ。2005年くらいまでは使っていたように記憶する。そうして蕁麻疹に悩まれる日々。それもまだ序章。
こうして書かなければ思い出せない記憶の数々。どんどん断片化していくのが辛い。霧の匂い。風力発電の風車のスピードと轟音。転がり落ちて行くあの道のブラインド・カーブの角度。全てを記憶できていたと豪語していたのは誰だ? あの道を、再び思い出すことはあるのか?思い出せるのか?
気がつけば過去ばかりを見ている。そうして将来設計はグダグダだ。そんなイキアタリバッタリズムはチャリ部仕込みだと思っていたが、チャリ部というより自転車そのものに由来するもののようだ。綿貫益弘「津軽から江差へ」を読んでそう思った。所詮自転車乗り、真っ当に生きられる訳がない。
廃道を読む(16)で町石に古いものが多いと書いたけれど、何げに「現存最古の町石」が箕面にあるらしい。1200何年、鎌倉時代の銘だったか。やはりこういうものはちゃんと調べられているのだな。今度機会を見つけて行ってみよう。
ピーナッツのカロリーの高さには瞠目せざるを得ない。
例えばいま手元にSHOP99で購入した「手むき味付けピー」・内容量約250gが存在するのだが、裏面の栄養表示成分によれば1袋で1520kcalものエネルギーを有しているという。恐るべき値である。成人男性が一日に必要とするカロリーは2000〜2500kcalと云われているからたった99円税込み105円でその3/4近くを補えることになる。単価当たりのカロリーで言えばカロリーメイトなど眼中にない、コンデンスミルクでさえ1ケタ及ばない至高の存在、ザ・ピーナッツ。マリー・アントワネットに托言して「ピーナッツを食べればいいじゃない」と言いたくなってしまうほどのポテンシャルを、ピーナッツは有している。(思わず定冠詞をつけてしまったが双子の歌姫を意図するものではない。念のため)
しかし、それを自ら実践してみた結果として、残念な報告をせねばならない。「ピーナッツのカロリーを余すことなく吸収するのは難しい」ことが判明したのだ。まず250gのピーナッツを一度に食べ切るのは大変だ。顎が疲れるし何より飽きる。そうしてどうも、人体がそれを消化吸収し切れないらしい。詳しく書くのは憚られるが、どんなに噛み砕いた積もりでも未消化のそれが下から出てくる。ピーナッツの芳香をふんぷんとさせて。一週間程試してみたがこの状況は変わることがなかった。まことに、残念な結果である。
ピーナッツを完膚なきまでに消化することのできる人類、あるいは消化酵素・腸内菌の類。来るべき食糧難の時代には彼等彼女等の出現が望まれる。
印刷広告・テレビ広告で最近とみに使われる「Web検索」が気に食わない。続きはwebで、というやつだ。
広告デザインたるもの、紙面・誌面という限られた媒体の中に如何に効果的な表現を盛り込み人の目を引き購買に結びつけるかが勝負、ではないだろうか。それ以外に情報源を委ねるのは広告として失格なのではないか。それならばまだ、QRコードのほうが、どう違和感無く取り込んでデザインするかが試されるだけインダスtoriアル・デザイン的であろうと思う。
などと偉そうなことを言うが、何のことはない、猫も杓子もな状況が気に入らないだけだ。何より「キーワードをうまく選ぶ」以外に発展のしようがないのがつまらない。そんな状況で「web検索」手法の未来は占えるだろうか。試みにいくつか試してみたい。
思い切って無関係な語を検索させてはどうか。その方が有益な情報が得られて企業好感度がupするかも知れない。例は満州事変の闇を知れ、という主旨である(それが有益かどうかは別として)。
あるいは難読語の羅列で検索させれば、検索エンジンからキーワードを購入する費用を節約できるうえに目標サイト一つだけをヒットさせることができるだろう。但しTRONコードでやろうものならごくごく限られた層にしか検索して貰えないので注意が必要だ。
&T219F65;は魚扁に遙の中身。超漢字ウェブブラウザなら正しく表示される(はず)。類似形としてアラビア語なども考えられる。
つねづね「リセット」ボタンの存在意義を疑っている。リロードすればいいだけの話ではないのか。
発想を変えて「Webに『Webで検索!』を置いてみる」とどうだろう。当然上の例は当サイトのトップページに置かなければならない。循環論法的で斬新かも知れぬ。
人の評価は他の人がするもの故にあらかじめ検索して知って貰おうという主旨もいいかも知れない。例はあまり良くないが(もちっと効果的なワードがあったはずだが思い出せず)。
結論。やっぱり発展しないのではないか。
大屋さんが育ててる植木にハチが巣を作っている。とても観察しやすい所にあるのでもうしばらく見てようと思う。
おそらくキイロスズメバチアシナガバチの大きいやつだった。昨年に神岡鉱山軌道で刺されたやつだ。巣は大径4cmほどでまだまだ作り始めといった感じ。しかしもうすでに卵が産みつけられていた。
超マクロで接写。いかつい面構えだ!
毎度のことながらドキドキする・・・。そのうえ流れで2回目に挑戦することに。うーん。
来る7月5日(日)午後1時〜5時 、大阪中央郵便局の文化財的価値や設計者・吉田鉄郎の事蹟について学べる集会「中央郵便局を重要文化財にする集い」が開かれます。会場は大阪歴史博物館講堂(入場無料)。下記Pにグッときた方はぜひ。
それより、前号修正ERRATAを発行したのに修正版をあげていなかったという体たらくを何とかしたほうがいいのではないか>nagajis。しかし今まで苦情が来ていなかったってことは必要とする人がいなかったということか。
縦書きの三点リーダーが検索できないので手間取ったが「プロローグ」と「第一章」の両方の三点リーダー修正。ついでに人名を間違えていたのを修正。チェックのしようがないのだからもっと丁寧に見るべき>nagajis
成立しない編集会議でTUKAさんと歓談しつつ寝落ちしてしまった。ひどいやつだ>nagajis
起きて旧橋を書きすすめる。構想は前からあったがいざ書き出すと中途で投げ出してしまいたくなる。文字を書くのがたいそうめんどい。一度書くと書き直しが大変だし。
そうそう、今日はパレットへ行ってみよう。月に2日だけの店鋪営業日だ。
ロベルトがキモい。
ジスオもキモ化が進行している。
写真撮影が終了し、精査と背景調査の段階にin。この橋も大阪市の第二次都市計画街路で計画されてたそうなので、安治トンの件も踏まえて「都市計画とはなんじゃらホイ」から調べてみた。市立図書館によい資料があって感謝!だったのだが時間切れで不完全習得。以下覚書。そして水が高きに流れるような不自然さで安治トンの話になる。
大阪市の都市計画は関市長が大正時代から始めたもの(「大阪市市区改正設計」=第一次都市計画、大正8年12月23日内閣認可)が最初でよく知られてる。御堂筋作ったりとか大川に立派な橋架けたりとか。第二次都市計画というのは大正14年に西成区などが合流していわゆる“大大阪”が誕生したことをうけて立てられたもので、まず昭和3年に「総合大阪都市計画事業」という名目の計画ができ、可決・内閣府の認可を得て告示された。これは街路だけでなく港湾や公園、下水道などの整備などを包括的に行なう計画。して、昭和七年にそのなかで特に着手を急ぐ街路・運河を告示してて、これを「第二次都市計画事業」と呼ぶのが厳密な言い方らしい。しかし「総合大阪都市計画」を「大阪市区改正設計」に比して第二次計画と呼ぶ場合もあるらしくて非常に混乱する。
S3の「総合大阪都市計画事業」で新設する都計街路に認定され、S7の第二次都市計画の実施対象のなかに盛り込まれた目玉街路に、一等大路第三類第四十号線=北野豊津線があった。幅員36〜27mの立派な道で、当初から新淀川に新橋を架ける計画があった。我らが安治川市岡線は二等道路第一類・第八十号でずいぶん後ろで出てくる。しかもS3の告示のなかでは「南安治川通二丁目三十八番地より九条通四丁目に至り・・・境川運河新架橋を経て石田布屋町一丁目九十二番地の一に至り二等大路第一類第二十二号線に接続」となっていて、要するに安治川は越えるつもりじゃなかったらしい。
それが、昭和7年に告示された第二次都市計画事業計画「第二次大阪都市計画事業並年度割決定の件」のなかで二等大路第一類第八十号安治川市岡線の一部(起点北安治川通・終点南安治川通)が実施対象になってる。つまるところこの時に安治トン建設(安治トンだけの建設)が確定したわけだ。
なので、このへんの経緯を厳密に言おうとするととてもややこしい。昭和3年に建設が決まったわけではないし、当初から安治トン込みの安治川市岡線であったわけでもないことになる。建設が正式に決まったのは昭和7年の第二次大阪都市計画実施計画のなかでということになる(?)。ちなみにこの告示では実施年度割も決まってて、全体で昭和7年〜14年に実施ということになっていた。
たしかに、「大阪市会史」を斜め読みすると、昭和4年昭和3年と5年に安治川架橋の速成建議がなされてる(原文不明)。昭和10年11月の「概略」でも昭和2年にトランスポーテーション・ブリッジを考えた人があり云々という書き方であり昭和5年に関市長が土木学会に検討依頼とか何とかいう流れになっていた。だから、昭和3年の「大阪総合都市計画」認可後にずいぶん運動があって、それで安治川架橋が実現することになり、昭和5年に検討依頼、昭和6年に土木学会答申、昭和7年に正式な告示という流れかと思う。んで、昭和8年頃には新聞や雑誌で隧道計画が紹介されるまでになる、と。
ひとつ気がかりなのが・・・昭和12年に「第三次都市計画」ができたようで、そこで路線に修正が入ったらしいのだが、第三次都計については今回ノーチェックで帰ってきてしまった。次回行った頃には忘れてるような気がする。忘れないようにしたい。
なお、第二次都計は実施率60%、第三次に至っては15%ほどだったらしい(「新修大阪市史第7巻」)。かろうじて完成した安治トンと、完成しなかった新淀川新橋との明暗の差は、やっぱり鉄材使用量の違いと、作りかけと今後本体を造るのとという違いからだろう。
ついでに大阪市立図書館で米軍撮影の航空写真(しかも4倍引き伸ばし!)を閲覧できることを発見しGETしてきた。いえい。
肝心の写真撮影は1時間弱で終わってしまった&後半にこれといった大発見はなし。例の主塔を再撮できたのは結果論的に良かったが。前回前々回に少し気合を入れてたら終わってたよな。うん。あんまりホールドしておくといろいろ迷惑かけちゃいそうなんでこまめに&迅速に撮るべし。
安治トン前の道路が疎開道路と呼ばれている件。これは戦局の激化にともなって「政府が」疎開を勧めた結果であるらしい。「新修大阪市史」第7巻によると、昭和18年12月21日に「都市疎開実施要項」が閣議決定され、東京都区部、横浜市、川崎市、名古屋市、大阪市、神戸市、尼崎市、門司市、小倉市、戸畑市、若松市、八幡市に対して人員や施設・建物疎開が実施されるようになった。「建物疎開は『疎開空地』を造成して、防火区画を作り、それに相当数の疎開空地を配して、防空都市の形を整えるというものであった。」(新修大阪市史第7巻P673)とあって、空地を結んで空地帯としたところの多くは都市計画路線に組入れられたという。
こんなのも書いてある。「内務大臣が防空法の規定によって一定の区画を指定し、知事がその地区の家屋所有者または管理者に対して、一定の期日までに建物除却を命令することになっていた」(同P674)。大阪市の場合は昭和19年2月4日の内務省告示で初めて指定があり、3月中旬の最初の大阪空襲までに5回の指定があった。空襲後は緊急疎開事業として実施され、6月7日からは勅令によって知事が地区指定の権限を持つようになった。最初の頃は1カ月猶予があったり疎開者懇談会を開いたりしていたようだが、第一回空襲以降は有無を言わせず“除却”された例が多くあるらしい。あと、「市会史」では最初は補助金を出して疎開を促したことが書かれてあったはず。
だから、直接的に軍部の要請によって疎開道路ができたわけではないことになる。末期は行政≒軍部的だったとはいえ関与は間接的なものであって、防火が第一義にあったとみるべきだろう。
上記の告示を調べていったら安治トン前の疎開が行なわれた時期がわかるはず。というより安治トン完成の翌年に第2回空襲で被災しているのだから、完成時には疎開が始まっていたか完了してた可能性が高いと思われる。
閲覧したき書類出てくる。また迷惑をかける。。。でも1橋1簿冊だから。それほど誰得じゃないはずだから。
そこに古い橋があることは知っていたけれども、大したものじゃないだろうと鷹を括っていた。近くを通るからついでに寄ってみよう、程度の気分で行ってみたのだ。
工場地帯の真ん中を流れる人口河川にその橋は架かっていて、川の両岸は高い防潮堤が築かれている。その壁づたいにつけられた無機質なアスファルト舗装を歩いていく。やがて道は護岸を離れて右へ曲がっていき、そのカーブの端から、工場裏へ入っていくような気配の細い路地が分かれて、なお壁伝いに伸びていく場面になる。橋にゆくなら後者を行かねばならないだろうことは地図を見なくてもわかる。
小路に入って幾らも行かないうちに橋が見えてきた。意外なことに和風高欄の人道橋だった。朱に塗られた高欄が若干弓なりになって架かっている姿は場の雰囲気にそぐわないが、ずいぶん色褪せて下地のクリーム色が浮き出ていたり、 床板の一部が朽ちて垂れ下がっていたりするところは、場末な感じに似合っていなくもない。
橋は防潮堤の壁よりもさら高いところに架かっていて ・・・ ・ ・ ・プールのスタート台を橋台にして、その上に桁を渡してあるのを、プールサイドの床視点で眺めているような感じだ。高さばかりが妙に目立つ。けれどもそのせいで橋全体を見渡すことができる。廃橋なのだろうか。登れるだろうか。登っても渡れないんじゃないか。そんなことを思いながら階段をあがった。あがって、驚いた。
欄干の色の掠れがはっきり見て取れるほど明るかったはずなのに、いつのまにか夜になっていて、対岸でネオンサインが点いたり消えたりしていた。その点滅が川面に映っていた。ゆらりともしない川面に映し取られたネオンサインは、まるで川自体にネオンを仕掛けてあるかのような鮮明さだ。赤青黄の三原色にネオン特有のはしたなさが感じられないのは、反射というワンクッションを挟んでいるせいだろうか、それとも絶対量が少ないせいか。賑わしさの中に一抹の寂しさが紛れ込んでいるように見え、その理由を考えるために暫く眺めていたくなるような輝きをしている。
何より背景の色が美しくてはっとさせられた。真っ青に晴れ上がった五月の空の天頂を、限りなく彩度を落として黒に近づけ、液体にして流し込んだかのような、 澄み渡った黒と紺と碧のグラデーションだ。もし飛び込めば、水に触れることもなく、そのままどこまでも果てしなく落ちていきそうだ。 そういう空とも闇とも見分けのつかない水面を背景にして、色とりどりのネオンが咲いている。返照で橋がぽっかり浮かびあがって見える。こんなに美しい色の取り合わせは現実でも見たことがない。今思い返してもそう断言できる。
現実にはないが・・・・・・似たような美しい紺色の夜を、 以前にも夢で見たことがある。その後に取った行動も全く一緒だった。この鮮やかさを写真に撮りたいと思った。 ただちに撮らなければならないと思った。急がなければ、夜の帳が閉じ切って、濃淡の組み合わせを崩してしまうだろう。
S200EXRを取り出して構えた。何枚か撮った。が、感度がISO100のままじゃなかったか? 100ではこの色は出てくれないはずだ。せめて200、あるいは400でないと。EXRを効かせないと。
そう考えて、慌ててダイヤルを回したところまでは覚えている。
今日は胸が痛くなるような夢ばかり見た。静かに眠りたい。
煉瓦を探して路地裏を歩いていると、ごく希に、こんな落書きに出会うことがある。家の前の道路にチョークで落書きをしたもの。昭和の子供的所業であり絶滅危惧種といってもよいと思う。そのようなものだから出会うとちょっとほっこりする。が、川島で見かけたこの落書きは、ちょっと考えさせられた。
この線より左が自由であるらしかった。何でも書いていい範囲として線引されたのかも知れないが、その区画には何も書かれていなかった。むしろこれは抽象的概念としての自由の区切りと見たほうが味わい深い。自由を限定する線であり自由の果てである。「ここから先、自由始まる」と読んでも良い。悲惨な最期を遂げる自由、路頭に迷って飢えて死ぬ自由、人様に迷惑をかける自由がこの先から認められている---但し認められているのは自由だけであってそれに対する制裁とか社会的責任とかは勿論ある---。じゃあ自由のないエリアではどうなのだろうか。自由がない即ち制限もないというわけではあるまい、自由もなく制限ばかりであるかも知れない。
前々回の亀岡で。カラーコーンとトラバーで作り得る最小の結界。
トラバーを使わなければここまで小さくできる。が、どう頑張っても立ち入るのは無理だろうと思った。そうしてこの隙間に無理やり立って「立入禁止に入ってみました」とかいう動画をアップするYouTuberを想像して哀れの涙を流したことだった。
後者は何で結界られているのか理解し難い。車止めが倒れそうだからだろうかと思ってみたがそうでもない様子だ。もし倒れそうであったらコーンともども倒れているような気がする。またこの車止めにぶつからないようにという注意喚起であることも考えられたがそもそも車止め自体がそういう注意喚起のための存在でありぶつかられる可能性は蓋然的に有しているわけでわざわざカラーコーンや黄色テープで結界しなくても良いように思う。ちなみにこの車止めの向こうは幅の広い歩道で、それに面してパーキングがある。パーキングを出た車は車止めの向こうを左から右に走って出て行くことになる。手前は完全な歩道。2人並んで歩いたら塞がってしまうようなそれだ。ゆえにこの車止めを突き破って車が突っ込んでくるようなことはかなり稀だと思われる。
のに幾らかかるだろうか、と考えている。
まず、大阪-京都間は26マイル46チェーン。約27マイルと考える。んで、明治31年『鉄道貨物運送便覧』東海道線の貸切貨物賃金の表によると、煉瓦を貸切で運ぶ場合、50マイル以下なら1銭5厘/mile・ton。
当時の貨車の積載可能荷重は前掲書に4噸or6720斤とある。また日本鉄道車両工業会の『日本の貨車-技術発達史-』第一章には5トンとある。
作業局形煉瓦のサンプルの重さを測ってみると2.6kgだった。仮に貨車一台に5トン積めたとして、煉瓦の個数は1923個。キリが悪いので2000個としておこう。
んで、1銭5厘=1.5*10^-2円、1.5*10^-2*27mile*5ton=2.025円の運賃。2000個運ぶのにこれだけかかるわけだから、1000個につき約1円、運賃がかかることになる。
M30年1月には、大阪市場の卸売価格、10.70円/千個。これが年末には7.4円/千個まで下がってしまう。ていうことは輸送量よりも市場価格の変動のほうが大きく、+1円くらいの輸送費はあんまり重要じゃなかったろうと言える。
問題はそれよりも貨車一台で2000個しか送れないということだ。大規模な建築なんかで、例えば100万個の煉瓦が必要だったとしたら、鉄道で送ると貨車500台分必要ということになる。一日5台を貸し切って100日かかる。不可能ではないにしても結構な量。
でも前掲『日本の貨車-技術発達史-』表によると明治30年に官設鉄道全体の貨物輸送量は158.3万トン。明治9年でも6万トン。500台で2.5万トンだから、まあ無理ではないか。
工場から大阪駅まで運ぶのが大変かも知れないが、大阪駅の入堀を利用すれば水運で大阪駅に直結できる。
義勇財団海防義会十五年史
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1461890?keyword=%E5%A2%9C%E9%81%93&page=144
行啓記念事業
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/780659?keyword=%E5%A2%9C%E9%81%93&page=9
模範自治町村 下
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/784785?keyword=%E5%A2%9C%E9%81%93&page=85
明治二十四年濃尾大震災写真帖
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452687/61
石川県通常県会決議録 明治24年,明治25年
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/784834?keyword=%E5%A2%9C%E9%81%93&page=120
大野池田郡地誌
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/764856?keyword=%E5%A2%9C%E9%81%93&page=36
コンビニでは100円単位の収入印紙を売っていない→ゆうゆう窓口で買えばいいと出かけたらさっくり閉まっていた。20:00直前のこと。案内を見ると19:00までになっておる。逆上しかけたが
http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20201120
一昨年には18:00だったのだ。長くなっただけ有難いと思え。
http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20130518
そして9年前には22:00であった。