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2011-06-22 [長年日記]

[] になるかどうか:大阪市都市計画に関するメモ

写真撮影が終了し、精査と背景調査の段階にin。この橋も大阪市の第二次都市計画街路で計画されてたそうなので、安治トンの件も踏まえて「都市計画とはなんじゃらホイ」から調べてみた。市立図書館によい資料があって感謝!だったのだが時間切れで不完全習得。以下覚書。そして水が高きに流れるような不自然さで安治トンの話になる。

大阪市の都市計画は関市長が大正時代から始めたもの(「大阪市市区改正設計」=第一次都市計画、大正8年12月23日内閣認可)が最初でよく知られてる。御堂筋作ったりとか大川に立派な橋架けたりとか。第二次都市計画というのは大正14年に西成区などが合流していわゆる“大大阪”が誕生したことをうけて立てられたもので、まず昭和3年に「総合大阪都市計画事業」という名目の計画ができ、可決・内閣府の認可を得て告示された。これは街路だけでなく港湾や公園、下水道などの整備などを包括的に行なう計画。して、昭和七年にそのなかで特に着手を急ぐ街路・運河を告示してて、これを「第二次都市計画事業」と呼ぶのが厳密な言い方らしい。しかし「総合大阪都市計画」を「大阪市区改正設計」に比して第二次計画と呼ぶ場合もあるらしくて非常に混乱する。

S3の「総合大阪都市計画事業」で新設する都計街路に認定され、S7の第二次都市計画の実施対象のなかに盛り込まれた目玉街路に、一等大路第三類第四十号線=北野豊津線があった。幅員36〜27mの立派な道で、当初から新淀川に新橋を架ける計画があった。我らが安治川市岡線は二等道路第一類・第八十号でずいぶん後ろで出てくる。しかもS3の告示のなかでは「南安治川通二丁目三十八番地より九条通四丁目に至り・・・境川運河新架橋を経て石田布屋町一丁目九十二番地の一に至り二等大路第一類第二十二号線に接続」となっていて、要するに安治川は越えるつもりじゃなかったらしい。

それが、昭和7年に告示された第二次都市計画事業計画「第二次大阪都市計画事業並年度割決定の件」のなかで二等大路第一類第八十号安治川市岡線の一部(起点北安治川通・終点南安治川通)が実施対象になってる。つまるところこの時に安治トン建設(安治トンだけの建設)が確定したわけだ。

なので、このへんの経緯を厳密に言おうとするととてもややこしい。昭和3年に建設が決まったわけではないし、当初から安治トン込みの安治川市岡線であったわけでもないことになる。建設が正式に決まったのは昭和7年の第二次大阪都市計画実施計画のなかでということになる(?)。ちなみにこの告示では実施年度割も決まってて、全体で昭和7年〜14年に実施ということになっていた。

たしかに、「大阪市会史」を斜め読みすると、昭和4年昭和3年と5年に安治川架橋の速成建議がなされてる(原文不明)。昭和10年11月の「概略」でも昭和2年にトランスポーテーション・ブリッジを考えた人があり云々という書き方であり昭和5年に関市長が土木学会に検討依頼とか何とかいう流れになっていた。だから、昭和3年の「大阪総合都市計画」認可後にずいぶん運動があって、それで安治川架橋が実現することになり、昭和5年に検討依頼、昭和6年に土木学会答申、昭和7年に正式な告示という流れかと思う。んで、昭和8年頃には新聞や雑誌で隧道計画が紹介されるまでになる、と。

ひとつ気がかりなのが・・・昭和12年に「第三次都市計画」ができたようで、そこで路線に修正が入ったらしいのだが、第三次都計については今回ノーチェックで帰ってきてしまった。次回行った頃には忘れてるような気がする。忘れないようにしたい。

なお、第二次都計は実施率60%、第三次に至っては15%ほどだったらしい(「新修大阪市史第7巻」)。かろうじて完成した安治トンと、完成しなかった新淀川新橋との明暗の差は、やっぱり鉄材使用量の違いと、作りかけと今後本体を造るのとという違いからだろう。

ついでに大阪市立図書館で米軍撮影の航空写真(しかも4倍引き伸ばし!)を閲覧できることを発見しGETしてきた。いえい。

肝心の写真撮影は1時間弱で終わってしまった&後半にこれといった大発見はなし。例の主塔を再撮できたのは結果論的に良かったが。前回前々回に少し気合を入れてたら終わってたよな。うん。あんまりホールドしておくといろいろ迷惑かけちゃいそうなんでこまめに&迅速に撮るべし。

[] 疎開道路につき

安治トン前の道路が疎開道路と呼ばれている件。これは戦局の激化にともなって「政府が」疎開を勧めた結果であるらしい。「新修大阪市史」第7巻によると、昭和18年12月21日に「都市疎開実施要項」が閣議決定され、東京都区部、横浜市、川崎市、名古屋市、大阪市、神戸市、尼崎市、門司市、小倉市、戸畑市、若松市、八幡市に対して人員や施設・建物疎開が実施されるようになった。「建物疎開は『疎開空地』を造成して、防火区画を作り、それに相当数の疎開空地を配して、防空都市の形を整えるというものであった。」(新修大阪市史第7巻P673)とあって、空地を結んで空地帯としたところの多くは都市計画路線に組入れられたという。

こんなのも書いてある。「内務大臣が防空法の規定によって一定の区画を指定し、知事がその地区の家屋所有者または管理者に対して、一定の期日までに建物除却を命令することになっていた」(同P674)。大阪市の場合は昭和19年2月4日の内務省告示で初めて指定があり、3月中旬の最初の大阪空襲までに5回の指定があった。空襲後は緊急疎開事業として実施され、6月7日からは勅令によって知事が地区指定の権限を持つようになった。最初の頃は1カ月猶予があったり疎開者懇談会を開いたりしていたようだが、第一回空襲以降は有無を言わせず“除却”された例が多くあるらしい。あと、「市会史」では最初は補助金を出して疎開を促したことが書かれてあったはず。

だから、直接的に軍部の要請によって疎開道路ができたわけではないことになる。末期は行政≒軍部的だったとはいえ関与は間接的なものであって、防火が第一義にあったとみるべきだろう。

上記の告示を調べていったら安治トン前の疎開が行なわれた時期がわかるはず。というより安治トン完成の翌年に第2回空襲で被災しているのだから、完成時には疎開が始まっていたか完了してた可能性が高いと思われる。

[ネタ] でまた

閲覧したき書類出てくる。また迷惑をかける。。。でも1橋1簿冊だから。それほど誰得じゃないはずだから。


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