nagajisの日不定記。
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朝に霧かゝりしが昼は晴天なりしが持久駈歩の際〔最〕中約十五分に至り雷鳴と共に雨を見る。未だ露〔梅雨〕は過ぎざるか。
取締を終う。午後は体力機能力検査あり
懸垂 十八回
投擲 四十米突
二千米 七分二十秒
二千米は訓育班にて一番にて生徒監殿より褒められ恐縮したり。
うるしは九十%まではからびたり。最も喜とす。腕の不自由亦知るべし。昨日よりエビオスをのむ。今日は愉快なる日なりき。
化学の実験は愉快にしてなすが待遠しきなり。今日は半田を作りたり。代数が不解となりぬ。午後は機能力検査にして前回に比し大部悪くなれり。幅跳を除く
運搬 九秒五 百米 十五秒〇
走幅跳 五米一〇
実に予想以外に悪かりき。柔道にては未だ捨身攻勢に欠くるなり。特に感ずる所なし。良好。手島が自宅療養より帰り三ヶ月ぶりに隣の机に活気をおぶ。
しまった、asamo氏から御連絡いただいていたグロメク氏の参加を加え損ねてた。大変失礼いたしました。ホハレ峠を踏破したお二方であります、私に代わって東京組を迎え打って下さるでせう(だから煽るなと
只今の参加予定
あきら氏(R173-net)、asamo氏(漂ヘド沈マズ)、グロメク氏(漂ヘド沈マズ)、tori氏(山さ行がねが)、謎の自衛官氏(デミオが行く)、張子の虎氏、multi氏(萬流智隧道)、ヨッキれん氏(山さ行がねが)。
おまけのナガジソ。
multi氏やtori氏ヨッキ氏は前日から京都入りされているとの事なので、開催時間が早めになると予想されます。あとは雨が降らないようお祈りするだけです。
だいたい上記のようなことを昨日最後に書いた積もりだったんだが。反映せずに寝てしまったか。ということは一穀橋のこともか。うーん。
水沢峠を担いで越えた日。水沢峠は国道477号武平トンネルの南方にある地形図破線道の峠。全くの山道だ。
西側からのアプローチは風化したての花崗岩の白い砂が印象に残っている。小さな沢渡りを何度も繰り返す道で、使い古された道というよりも登山のためにつけられた新道のように感じる。峠もあまり峠らしくない、尾根の一角を無理矢理乗り越えるような感じの峠であった。それでも後に登る鞍掛峠も似たような道・峠だったから実際には往来があったのかも知れない。写真は峠直下の最後の登り。
水沢峠は峠から伊勢方面の眺めがよいことが特筆される。峠のある谷が真っ直に開けているせいですこぶる見通しがいい。道は東西とも谷底を辿ってゆくものであった(この日も目の前の谷を延々と担ぎ下った。よくもまああんな所通ったものだと思う)。
柳田國男の「峠の表裏」に照らし合わせるならばどちらも表。これだけ見通しが良いのだから尾根を伝わずとも街を目印に下って行くことができたのだろうか。それともどちらの側も「鈴鹿山脈に登るため」の登山道として生まれたのか。先日登った白髪峠も峠付近から集落を見渡すことができたけれども、あちらは尾根をたどってその集落へ下っていった「裏」の道だった(東征伝説でも南から北へ、大和目指して越えている)。ここの場合、古えのモチベーションはどちらを向いていたのだろう。名前は東向きにつけられているが、西側に目だった集落がないことも関係しているかも知れない。
毎度毎度すみません。上記の期間編集部の機能が停止します。ご協力をお願いいたします・・・(HEADLINEは改めて書きます)。
今回は新アイテムを導入する。片足600gは決して軽くないしスパイクソールは良くないってmasaさんに教わったのだけど・・・(今の靴の破れ具合に)我慢できなくなった。哀れ永遠のヒトバシラー。
書いたところでどうなる訳でもないのだが体調不良が続いている。蕁麻疹の原因は判明したのだが根本的に直すことはできず、また今でも少しずつそちこちに出てきて悩まされている。特に腿の裏側に出たやつは椅子に座って汗をかきはじめるとチクチク痛んできていらいらする。やがて座ってられなくなる。いろんなことが捗らない。少なくとももう2、3日はこのような状態が続きそうな塩梅で、たぶん全治はしない。
気分転換にどこかへ出かけるのがいいんだろうな・・・。
どうもあれが完成型のようだ。あれから巣は大きくなっていないようだし、蓋をされた巣穴が多い。2匹じゃどうにもならんのだろう。昨晩今晩と雨が降って素作りが進められないのかも知れない。
やっと思い出しつつある。一度に2、3の原稿にかかったほうがよい。できるだけテイストのちがうものを。詰まった時や気乗りしないとき、そっちにかかることで気分転換できる気がする。
月ヶ瀬橋というと真っ先に4連RCアーチだった頃の姿を思い浮かべてしまうが(それはおかしいという説は甘んじて受ける),その一世代前?には木製ボーストリング曲弦トラスだった.まったく役に立たない豆知識である.ちなみに木製ハウ平行弦トラスだった頃もある.
昭和6年にRCアーチへ架替,戦後に高山ダムができ湖中に沈んだ.奈良県には沈んだRCアーチが多いような気がする...下北山村の前鬼橋とか.
量的にはこの程度でいいんじゃなかろうか.あとは前振りと再建の件を整理,と.
日射しが燦々で暑いこと此の上無し。風があるのがせめてもの救い。そのお陰でクーラーが要らない(というか付けるタイミングを逸している)。これが真夏になったらそよりともしないんだろうな・・・。
電話了。waitに入る。
あれー、崩し字辞典がどっかいっちゃってる。。。
もう少し空気が抜けてくれると暮らしやすいんだがなあ.この部屋は.
そのせいではないと思うが原稿があつくるしくなった.もっとさっと終わらせるつもりだったのだが.要するにこの記事は碑文と高解像度瓦版画像がすべてだ.ぐだぐだ書く必要はない.
PCによって句読点の設定が違ってるのでどちらでさぎょうしているかがバレバレだ.
今日も公務員の横領のニュース.大阪どないなっとんねん,と憤慨する.
上級官吏は別として,戦前は基本的に異動が少なかったと聞いている.同じところに長く居るから知識が蓄積される.それが同時に官民癒着の原因にもなった.だから戦後は2,3年で強制的に入れ替えるように改められた.と聞いた覚えがある.どっちがいいんだろう.入れ替わりが激しいとかえって横領とかチョロマカシとかし易いんじゃないだろうか.入れ替わりが激しいから誰がどのように処理したか追いかけづらいので.
担当の入れ替わりが激しいといろいろ不便.あと数年も経てばまた安治トンも担当さん変わるんだろうな.
kINIAS見学会に出席した足で川上村へ行ってきた。おもに聞き取り調査のため。ついでに東吉野村まで足を伸ばし、また行きがけに小島煉瓦跡地を探してきた。今回出会った方々はみな親切な方ばかりで有難かった。これもまた運也。
道連れの書は柳田国男全集26。明治大正世相史編をじっくり読んだ。昭和初期に明治大正それ以前を振り返って書いた世相変遷史。そこからさらにどう変わったか照らしながら読むと興味深い。さらなる変化を遂げた事象もあれば、もっと転じて元に戻ってしまったこともある。「プロペラ船は写真が伝えるものになる」という翁の予言は見事的中。
中村組@中奥。鍛冶屋は白川渡?の青垣氏。S18生まれで小学生時分にはまだ伐採してた。
目星も何もないまま現地に行って、最初に出会った方に尋ねたら、そのお宅の目の前がそうだった。現・中本ゴム工業工場。
刻印のことはご存知でなかったが、JR線の西側の在所のなかをうろついて、例の野球ボールをいくつも発見した。
いくら言っても/誰も見に行ってくれないので自分で見てきた。単純桁×3ではなく三径間の連続桁。見た目はアーチっぽいけれども左岸側は岩盤ではないからアーチとしての支持力を期待していないはず。単に桁高さを節約するためのものだろう(けどそんなに例があるわけじゃない。一番近いのは乙栗子橋、もしくは石の本橋)。
意匠的に成功してるかというと、そうでもないような。快な感じはあまりしない。あと右岸上流側に工事銘板が残っている。
現在補修工事中。高欄を撤去して新しい鉄筋を埋め込んであった。 オリジナルが失われるのは残念だけれども、外側に張り出す格好で街灯を取り付けるようで、それで安全になってくれればいいと思う。親柱は残すみたいだしね。「オリジナル高欄が貴重」というのは半世紀以上の時を経てなお実用を足しているところにあるわけで、それだけ持たせることができた施工技術の高さや丁寧さが貴いわけだから、残っていてもボロボロになってしまっていては及第点しかあげられない。
桁のほうも手を加えるのかな。側面から橋型を目視できないほど大々的に足場を組んで何かしてはった。
教育委員会さんの情報で大正11年架設(の主塔のみ残存)と知る。裏に書いてあるのかと思ったらそうじゃなかった。ちゃんと見える側にそう書いてある。
対岸に残っているのも見に行こうと思ったのだが、釣り人の人がいて断念した。釣ってるところをわさわさ渡ってったらドヤされるだろうからなあ……
速攻で建て替えられてこの通り。吉野郡林業基幹センターだったか、そのような建物になっていた。以前より階が低くなっているのは身の丈なのかも知れぬ。せっかく取り壊したのだから新しい歴史を永く刻んでいってほしい。
初めて吉野に触れた場所。石本先生がここへ連れていって下さった。とても懐かしい場所だ。
その後何度も近くを通ったけれども、掘割までゆくことはなかった。全行程を終えて帰ってきて、「ついで」のつもりで足を伸ばしてみたのだが、あにはからんや、以前来た時には気づかなかった新発見が。「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれているだけじゃないのだな。以前はどうして気が付かなかったのだろう。H23年の大雨で苔が洗われて現れたのだろうか。いや、石本先生が教えてくださったのに自分が忘れてしまっただけかも知れない。
東吉野村に「原裕句碑」なるものがあって、その案内看板を見た時に「はらひろし句碑」と読んでしまい、あれ違うかなと思いつつ「はらひろしはらひろし」と呟きながら走った。そうして口を突いて出た一句。
はらひろし。はらひろし。はらほろひれはれはらひろし。
謝れ。全国の原宏さん原博さん原浩さん原莫さんに両手を付いて謝れ。左記以外のはらひれほろひろしさんにも誤れ。
仕事が一息ついたので拓本を取りまくる。久しぶりにやると精神集中ができて宜しいが目の悪くなったことを実感する。もうちょっと近くに焦点が合ってほしい。夏になって蚊取り線香を点けて寝るようになったらますます目がしょぼしょぼする。顔を洗っても同様だ。困ったものだ。
最近爪楊枝を使うという技術を習得した。爪楊枝に布を巻かずにそのままチクチクするというもの。細部がくっきり出て宜しい。
政府が「日本遺産」の選定を始めるというニュースがあった。ようは世界遺産の日本版のような文化財制度を創出したいらしい。設立の目的が「観光資源にするため」って明記されているのは、世界遺産認定が観光客誘致を第一義に考えてる感じな風潮と重なるところがあって、ちょっとどうかと思った。
保存・継承にはとてもお金がかかること、エネルギーを要することだということは理解しているので、そういうものの一助とするために「遺構を利用してお金を得る」というのは良いことだと思うんだけど、なんだろうこの割り切れないもやもやは。原理主義的感情的忌避感でしかないのかしらん。
大峯奥馳道や熊野街道小辺路が世界遺産になったからといって地域が潤っているようには見えない。盛んに利用してイベントをしたりしている和歌山県とは対照的に思われる。定するための調査研究は分厚い報告書になって出ているけれどもその後遺産の価値をさらに高めるような調査研究がなり発見なりされているようでもない気がする(少なくともそれが一般レベルまで降りてきてな新聞紙面を連日賑わすなんてことは起こってい)。石見銀山なんて世界遺産になったことを覚えてない人のほうが多いんじゃないか。
いや、違うのか。表立った動きがないということは則ち活用することか考えてないわけじゃないということか。見えないところで保全継承の動きがあって、教育なり研究なりが盛んになされていて、地元の人々の誇りになっているのを私が知らないだけかも知らぬ。世の中には世界遺産みたいなお墨付きを求めずに立派な伝承をしているところも多い。和歌山の島精機さんとかさ。そういうの応援する優遇税制とか固定資産税の減免とかしてあげたほうが文化の保存には有効なんでないの。化財と定めると大なり小なり箍を嵌めることになるしな、 どうせこれといったアフターケアしてくれないんでしょ、指定されたって。
で、うちは近畿産業遺産研究会でなくて近畿産業考古学会だ。名前くらい間違えないでほしい。そんな大事な書類で。と偉そうに文句言えるのは小規模団体ゆえ&その代表でもない単なるいち会員ゆえの余裕である。ふはは。
煉瓦製造業の歴史を調べることなんかはとくにあてはまることだと思うのだが、廃れてしまった産業の歴史を今さら調べてまとめ上げたところで、それだけでは日本経済に寄与するコトなんてこれっぽっちもない。「こういう理由で衰退しました」がわかったとしても、では次そうしないようにしましょうっていう反面教師にする機会もないだろう。また煉瓦造りすることなんてないだろうし、煉瓦類似の産業も(耐火煉瓦製造とか植木鉢製造とか以外は)ないんだし。そういう過去の考究は、ひょっとしたら何かの役に立つかも知れない、今すぐには何にもならんかも知れんけど今やっとかないとますます埋もれる、という予測とも不安とも言える思いがあるからやっているのであって、例えばの話日本最古の煉瓦が見つかったとか何とかいうことがあっても世間の耳目を集めるくらいが関の山だ。そしてその注目も一過性で終わってしまうに違いない。見つかった煉瓦が金の塊に変化するわけでもなし。だったらそれ使って人を呼べる何かをするのが最も手っ取り早い活用手段だ、ということで観光への結びつけが発生するのは自然な流れと思う。もし発見が(もしくは調査研究が)それだけで価値があるんだったら日本全国の博物館は経営に苦心したりしない。辣腕市長に解散させられたりするような事態など起こらない。
企業が過去に不熱心なのはしかたないことだし、どこもおんなじだと思う。好況不況の経済状態で如何様にも転ぶ。合併で消滅することもあるだろう。住友銅吹所も徐々に皮肉的な存在になっている。せっかく遺構を残してビル建てたのに見学もできないなら存在しないも同様なんじゃ。まあここは祖先へ敬意を払うためでもあるのだから内部で活用すればそれで大義を果たしており部外者に公開しなければならない義理はないっちゃあない。せいぜい顧客とか株主とかの意向に反してるっていうだけで。そういうの公に開放してくれるだけで企業イメージもずいぶん変わると思うのだけどなー。
あと、見学したがっている方のスタンスももう少し変わる必要がある。興味本位、というのは物事の取り掛かりとしては有効だけれども、いつまでも好奇心ドリブンであっていいものか。見学して「めったに見られないもの見られてよかった」「得した」で満足して終わりだったら、いろんな制約をかいくぐり保存・継承し人員を割いて見学させてくれている相手方が納得しないんじゃね。損じゃね。苦労に見合わないというか費用対効果というか。その企業・産業---もっと広く言えば自分以外の人の営みとかそれらが寄せ集められて成り立っている社会とか−−−への理解を深めることとか、なんか企業が得になること。一般市民と直結していない職種ほどそういうの要るよね。
トライ&エラーがないと進歩しない。というときにエラーが許されなかったらトライがやりにくくなるのは当たり前だ。絶対に成功することしかしないか、石橋を10tハンマーで叩きながら渡るような慎重作業しかできない。めんどくさいと思って尻込みするよりやってみて面倒さを実感したほうが改善策は思い浮かぶんじゃないかね>nagajis。
本来の目的はこちら。夜中に撮ったんじゃ目盛りさえ読めんからな。
件の地震で傷んでるんじゃないかと心配していたが、微塵もそんなことはなかった。
生瀬方(右岸側)は固定のピン支承、武田尾方にローラーを挟んだピン支承。後者の支承を確認すると1cmほどズレた痕跡がある。まるっきり腐っているように見えて実はちゃんと機能してくれていたようだ。
右下に大きく見えるのはローラー支承を左右から挟んで浮き上がりを防止する金具。その下にあるのがピン支承の沓(その下にローラーが挟んである)。上に積もった土がめくれているから、沓がいちど右にズレてまた戻ったことがわかる。
(ということを、撮影して歩道に復帰しようとした時に驚かしてしまった人に教え込むnagajis。RDF健在とわかってよかったものの何とも非道い話である。)
考えてみれば阪神大震災のときも落ちなかったんだ、この橋は。偉いもんだ。
帰りに宝塚駅で切符を買ったらお釣りと一緒に虫ゴムっぽい何かが出てきた。なんだこりゃ?
食い物だったらイブツコンニュ-とか何とか騒ぎ立てられるかも知らんがお釣りと一緒にじゃハナシにもならんよな。せいぜいTwitterネタにするくらか。と思った時点で何だかつまらなくなった。ネタにするために奇跡を待ちわびるようじゃ無駄遣いも甚だしいしそういうのを上げて喜ぶお年頃でもあるまいに。
などと言いつつここに上げる外道である。
意外と収穫の多かった一日。別件で寄った大阪城本丸で新規の刻印を採取。添字“ロ”のトメハネから丸に横一だとわかる。こういう屋号をどっかで見た気もするんだが。
中本では英数字刻印をひとつ採取。この、妙に洒落ぶった書体は、荷揚門下で採取した英数字刻印によく似ている。
大今里では岸和田煉瓦の✕ばかり使われている建物基礎に一つだけ○が混じっていた。煉瓦のサイズや仕上げの質感は岸和田✕にそっくりで、桜ノ宮駅の淀川橋梁に見られる“○”と根が同じらしい。
意外と収穫の多かった一日。別件で寄った大阪城本丸で新規の刻印を採取。添字“ロ”のトメハネから丸に横一だとわかる。こういう屋号をどっかで見た気もするんだが。
中本では英数字刻印をひとつ採取。この、妙に洒落ぶった書体は、荷揚門下で採取した英数字刻印によく似ている。
大今里では岸和田煉瓦の✕ばかり使われている建物基礎に一つだけ○が混じっていた。煉瓦のサイズや仕上げの質感は岸和田✕にそっくりで、桜ノ宮駅の淀川橋梁に見られる“○”と根が同じらしい。
_ okamoto [NHKの熱中時間に、分水嶺の堀さんが出てますな。 ただいま放送中。]