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2013-06-24 [長年日記]

[きたく] 貴宅

kINIAS見学会に出席した足で川上村へ行ってきた。おもに聞き取り調査のため。ついでに東吉野村まで足を伸ばし、また行きがけに小島煉瓦跡地を探してきた。今回出会った方々はみな親切な方ばかりで有難かった。これもまた運也。

道連れの書は柳田国男全集26。明治大正世相史編をじっくり読んだ。昭和初期に明治大正それ以前を振り返って書いた世相変遷史。そこからさらにどう変わったか照らしながら読むと興味深い。さらなる変化を遂げた事象もあれば、もっと転じて元に戻ってしまったこともある。「プロペラ船は写真が伝えるものになる」という翁の予言は見事的中。

[奈良近遺調] メモ

中村組@中奥。鍛冶屋は白川渡?の青垣氏。S18生まれで小学生時分にはまだ伐採してた。

[煉瓦工場] 小島煉瓦@奈良県御所市柏原

画像の説明

目星も何もないまま現地に行って、最初に出会った方に尋ねたら、そのお宅の目の前がそうだった。現・中本ゴム工業工場。

刻印のことはご存知でなかったが、JR線の西側の在所のなかをうろついて、例の野球ボールをいくつも発見した。

[橋梁] 蟻通橋

画像の説明

いくら言っても/誰も見に行ってくれないので自分で見てきた。単純桁×3ではなく三径間の連続桁。見た目はアーチっぽいけれども左岸側は岩盤ではないからアーチとしての支持力を期待していないはず。単に桁高さを節約するためのものだろう(けどそんなに例があるわけじゃない。一番近いのは乙栗子橋、もしくは石の本橋)。

意匠的に成功してるかというと、そうでもないような。快な感じはあまりしない。あと右岸上流側に工事銘板が残っている。

[橋梁] 翁橋

画像の説明

現在補修工事中。高欄を撤去して新しい鉄筋を埋め込んであった。 オリジナルが失われるのは残念だけれども、外側に張り出す格好で街灯を取り付けるようで、それで安全になってくれればいいと思う。親柱は残すみたいだしね。「オリジナル高欄が貴重」というのは半世紀以上の時を経てなお実用を足しているところにあるわけで、それだけ持たせることができた施工技術の高さや丁寧さが貴いわけだから、残っていてもボロボロになってしまっていては及第点しかあげられない。

桁のほうも手を加えるのかな。側面から橋型を目視できないほど大々的に足場を組んで何かしてはった。

[橋梁] 中奥橋

画像の説明

教育委員会さんの情報で大正11年架設(の主塔のみ残存)と知る。裏に書いてあるのかと思ったらそうじゃなかった。ちゃんと見える側にそう書いてある。

対岸に残っているのも見に行こうと思ったのだが、釣り人の人がいて断念した。釣ってるところをわさわさ渡ってったらドヤされるだろうからなあ……

[奈良近遺調] 吉野水電事務所

画像の説明

速攻で建て替えられてこの通り。吉野郡林業基幹センターだったか、そのような建物になっていた。以前より階が低くなっているのは身の丈なのかも知れぬ。せっかく取り壊したのだから新しい歴史を永く刻んでいってほしい。

[奈良近遺調] 宮滝筏水路掘割

画像の説明

初めて吉野に触れた場所。石本先生がここへ連れていって下さった。とても懐かしい場所だ。

その後何度も近くを通ったけれども、掘割までゆくことはなかった。全行程を終えて帰ってきて、「ついで」のつもりで足を伸ばしてみたのだが、あにはからんや、以前来た時には気づかなかった新発見が。「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれているだけじゃないのだな。以前はどうして気が付かなかったのだろう。H23年の大雨で苔が洗われて現れたのだろうか。いや、石本先生が教えてくださったのに自分が忘れてしまっただけかも知れない。

[奇妙なポテンシャル] #

東吉野村に「原裕句碑」なるものがあって、その案内看板を見た時に「はらひろし句碑」と読んでしまい、あれ違うかなと思いつつ「はらひろしはらひろし」と呟きながら走った。そうして口を突いて出た一句。

はらひろし。はらひろし。はらほろひれはれはらひろし。

謝れ。全国の原宏さん原博さん原浩さん原莫さんに両手を付いて謝れ。左記以外のはらひれほろひろしさんにも誤れ。


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