nagajisの日不定記。
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明治天皇崩御あらせられてより三十年にあたりての所感
あさみどり澄みわたりたる大空の
尋木をおのが心とぎかな
さし昇る朝日の如くさわやかに
もたまほしきは心なりけり
我等敬仰の的は何ぞ。一に 明治天皇にあられるなり。幼年学校に関しては最も御心を留めさせられたり。
今日皇室の御殊過深かゝりしも我々を将来立派なる将校となさんがための大いなる思召なり。我々は斯くの如き国に生をうけ、尚且つ将校生徒として学ぶ、誠に光栄の至りならん。我々は克く意を体し直ちに実行せん。
最初述べたるが如き日なる故四時半非常呼集にて起き雄叫神社前ににて部長殿 聖旨を奉読せられたり。内務検査 昨日より努めたる結果室非常に整いたり。九時より十二時までの間に検査ありたれど、生徒監殿等の質問に対し一般に答解不良なるは遺憾となす所なり。一層訓育学科に努むべきを感ず。
夕食後台上にて照屋さん外二名の予科生徒の話を聞く、(本校四十三期生三訓の方)克く我等を思わるゝ彼の言は実に尚ぶべきものありき。
〔nagajis:「末」→「未」〕
ひととおりpdfを仕上げたところで、8日に聞いて来た「近世以前土木構造物調査」の件を書き始める。ごく簡単な文字文字したのになるだろう(間に合えば)。つうかヨッキ氏原稿クレ。
奇妙なポテンシャルに分類しようかとも思ったが明らかに発展しそうにないトリビアレベルの詰まらぬことなので独言扱い。硬貨についてちょっとした発見があった。
50円玉と100円玉だけ、年号表記がアラビア数字だ
だから何なんだと言われても仕方がないが。1円、5円、10円、500円玉は漢数字で作られている。1〜10円は作られ始めた時期が早い(筈だ)から漢数字でも不思議でないが、昭和57年に製造開始の500円玉が漢数字なのはなぜなのか。一国の貨幣制度という秩序の見本みたような体系の中にこっそりと潜む綻び。おそるべしニッケル硬貨。それ言い出したら10円玉だけ建築物が描かれているぞ、という言い方もできるのだが。
ん。次回は大使いする写真がほとんどないでおじゃるよ。
疲れているはずだが何か書いておきたいような気がするのはなぜだ。目がしょぼしょぼする。眼圧が不安定なんだろうか。寝れ寝れ。寝てばかりのような気もするが気にしちゃいけない。こうするしかないのだ。
で書いてみたところで中身はないのだ。無駄だなあ。
ガス缶2本・・・99がなくなってこういう時に苦労する。明日は雨、明後日も雨か...
比較対象つき。
大正中期に別所村に興った播陽窯業株式会社は、所在地が別所村北宿860ということになっている。しかし現在北宿には860番地が存在しないらしい。最も近いのは859-1の播州倉庫(株)。敷地も広いので、ここがかつての廉価工場なんじゃ?と思い、出かけてみた。のだが……。
現地には天川中学校跡の碑が建っていた。昭和25年にここに阿弥陀村・別所村共用の中学校が作られた由。その前が煉瓦工場だった可能性はなきにしもあらずだが、中学校になり工場になりしていたらますます跡が残ってないわな。周囲を一周してみたけれどもやはり収穫はなかった。
念のためにと思って国道2号の南側も歩いてみた(こちらはいま別所町小林という地名になっている)。いかにも新興らしい住宅地があるばかりで、煉瓦がありそうな雰囲気ではなかったのだが、区画割の一角に空き地があり、古煉瓦の屑がいっぱい落ちているのを発見した。煉瓦だけでなく赤褐色の土も散乱していたのが意味深だ。煉瓦の一つにはモルタル目地ではなく粘土(おそらく煉瓦の素材になるやつ)を塗って積んだ痕跡もあった。
煉瓦で窯を築く時には、モルタルでなく粘土を目地にして積んだ節がある(by堺市の住宅街を歩いた時の経験。もと関西窯業という土管製造会社があった辺りに溶けた煉瓦=窯に使ってたやつと思われる煉瓦が落ちていて、それには赤土が塗られていた。モルタル目地だと火に弱いだろうし、赤土目地で積んどいて焼けば窯全体が一体構造になるにちまいない)。そういうわけでこちらが工場跡であったのかも知れない。厳密に追求するなら法務局だな。
そうしてこの屑煉瓦の中に、楷書の「ハ」の字の刻印を発見したのだった。
「ハ」。セオリー通り会社の頭文字だとすると、播磨煉瓦>原田煉瓦工場(>弘栄煉瓦)になるのだが、その跡地や周辺では「ハ」刻印は見つからなかった。以前「ハ」を見かけたのは阿弥陀一丁目の付近。播磨倉庫の東方だ。して後で北宿の旧市街地を歩き回り、見つけた煉瓦壁にも「ハ」があった。
この壁に使われていたのは直線的な棒二本による「ハ」。さきほど見た楷書の「ハ」 も畑のシートの重石に使われているのを目撃した。北宿周辺では「ハ」が優勢で、なおかつ幾つかのバリエーションが存在していたけである。
となると、「バンヨウ」の「バ」の濁点抜きであると考えたほうがよいだろう。推測を弾ませれば中播のバでもよいかも知らぬが、他所の中播の工場跡地では見つかっていない。もし中播=「ハ」なら印南郡のそこここで見かけているはずだ。あと、中播が興った時には他に煉瓦工場がなかった。刻印のレゾンデートルは自社製品を他社のと区別するためというのが先ずあるわけだから、競合他社がいなければ刻印の必要もなかろう。実際印南郡では無刻印の手成形煉瓦も結構な量分布している。全てがそうだとは言わないが中播のがずいぶん混じっていることだろうと想像する。
北宿を歩き回った足で見野へ向かった。北宿から見野へは中国自動車道に沿って山越えするのが早い。国道2号を通って行くと三角形の二辺を歩いて行くことになってしまう。それは無駄だ。
高速道路脇の細道---いつも自動車道から横目に見て「どこから来てどこに繋がってるんだろう」と不思議に思っていた例の道---をてくてく歩いて行った。播但道とのジャンクションの西側、山をでっかく切り通した峠から姫路の賑わいを見渡せた。この眺めは結構面白い。昔ここには道がなかっただろうし、あってももっと高い所で、木々に遮られたりもしただろうから、今だからこそ得られる峠の見晴らしと言える。
そんなのを見つつ、思いつつ歩いていたせいか、平野に降り立った途端に左折してしまった。見野は右(高速道の北側)だ。気づいた時には南の集落(四郷町明田)の中をひとしきり歩いた後だった。
明田の在所では「K2」を発見。別の通りでも土埃に塗れた「K2」を見た。「K2」自体は尼崎市街で見かけていたのだが、集中的に転がっているのは初めてだ。
間違いに気づき、北上。東山工業所も番地が判明しているので、そこを中心に歩き回るつもりだったのだが、そこに辿り着く前に「山」を発見した。昨日のエントリに掲げてある下辺の丸い「山」だ(写真は角丸の異形煉瓦だが同じ並びに普通煉瓦の同刻印あり。集落の路地裏でも1つ見つけた)。なんだか推定山城煉瓦に似てるなと思ったけれども、あちらはもっと篆書チック。下辺と中央縦棒の間に三角形の空間がある。
東山工業所なのだから「東」とか「ヒ」とかを期待していたのだが、先に山陽窯業が見つかって、ちょっと意外ではあった。しかしこの工場は山陽窯業が分裂してできた個人工場だから、山陽窯業の「山」刻印があっても不思議ではないのだった。
先に集落の路地裏を歩き回ってみたが、出てきたのは無刻印か「山」刻印ばかり。他には作業者符丁と思われる素朴な作りの「ロ」「ホ」刻印を見つけられただけった。このうち「ロ」刻印は明田でも同じものを見かけている。
結局、東山工業所製と断言できるものには遭遇しなかった。先述の「山」が東「山」である可能性も無きにしもあらずだが。。。これが現地調査の限界だろう。
んで、最後に該当番地へ行ってみる。マップにも載っている「教岸寺」の裏手だ。こんな住宅街のど真ん中にあったんだろうか?と思わないでもないが、現在の番地はそこを指し示しているのだから仕方ない。しかも、そこには……
こんな煉瓦塀があったりした。予想外も甚だしい邂逅である。
煉瓦壁の中央には焼損煉瓦が使われている。最近はわざと焼損させてこういう煉瓦を作ることがあるけれども、こいつは非意図的な、偶発的にできた焼損煉瓦を使っている。あまりにも汚過ぎるのが混じっているから。
そのうえこの壁には「K2」が使われていた。いかにもデンティルの隙間から覗いて見つけてねという位置に押されたK2。さっき明田で見たのと全く同じ打刻位置だ。
言い忘れたが、この壁は民家の壁である。煉瓦工場の周囲を囲っていたものというわけでもなさげだった。しかし工場所在地とされる場所にあるのだから、何らかの関わりがあるに違いない。余りに立派な家のため、怖気づいてピンポンできなかったのが悔やまれる。
そんなこんなで明田・見野では「K2」が集中的に分布していることに気付かされた。「Kn」刻印は印南郡の他の場所でたくさん見ているのだけれども、n=2は初めてだったりする。そんなこんなで「Kn=共同販売用に各社が作った煉瓦」説を思いついたのだった。
傍証がないではない。まずKnは構造物に見られる場合は必ずnが揃っている。2だけとか8だけとか。大正煉瓦阿弥陀工場跡のマンションもK6で統一されていた。工場内のラインを区別するためならnが複数混じっていてもおかしくないだろう。しかし(自分が見た限りでは)そうなっていない。
そうして郡内ではnの数字に明確な地域割拠がある。旧四郷村ではK2のように。この日しでかしたポカのため、日を措かずにまた姫路へ行かねばならなくなったのだが、その時にも同じような分布傾向を発見することになる。
見野から北上中に発見した煉瓦製排水桝で。場所はここ。こういう公共施設だと気軽に採拓できていい。後日同じパターンのを曽根で見かけた。掠れているとますます「T」に見えてあやうい。
曽根から西神吉へ歩いているとき、魚橋の旧街道筋を抜け、西神吉村域に入らんとするところに橋が架かっていた。名前を控え忘れたが1車線幅しかない小さなRC橋だった。写真はその橋から西神吉村方面を見たところ。正面の防音壁は国道2号のバイパス(姫路バイパス)だ。
渡った所に国道2号の看板が建っているのに気づいた。ああそうか、魚橋の旧街道筋ということは国道2号の旧道筋でもあるんだな。国道指定がまだ残ってるんだろうな。
と思いつつマップを確認すると、そんなことはなかった。↓の位置なので県道ですらない。撤去し忘れたおにぎりなのだろう。早くなんとかしたほうがいいよ。腐っちゃうよ。納豆のような口当たりのかつおおにぎりになっちゃうよ。
最後の最後で大失敗した。というかソレを使うことにした時点で失敗が約束されていた。水かけたら溶けるだろJK。
ここで終わってもいいのだが、なんだか悔しい。次善の策がないでもないが……。
記事にしたというだけの記事。
ふと気づくと流しの上に蟻の行列があった。
我が家はアパートの2階なのだが時おり蟻が出没する。せんだっても開け放しのベランダの扉を通って室内に入ってきていた。冷蔵庫の下に砂糖やら何やらを零しまくっているのでそれを嗅ぎつけてきたものだろうが、にしてもアパートの2階までどうやって入ってきたのだろうと驚いたことだった。最初の一匹はよほどの冒険をしたに違いなく、その一匹の冒険を連連と受け継いで行列している蟻達に敬意すら覚える。人間の文化とか神話だとかもこういう感じで始まり継承されてきたのだろう。
梅雨の終わり際に雨が激しく降り続き、それを境に蟻の姿を見かけなくなっていたのだが、それが本日ふいに再現されているのを発見し、なおかつそれが流しの上だったので吃驚した。前回は冷蔵庫の下あたりで終わっていたのに。しかも今回の行列はベランダを経由していないらしく、閉められた扉の下からモゾモゾ出てきているようでもない。どこからともなく行列が現れ流しの縁を横断している。
縁を横断した蟻たちは流し左手のスペースに置かれてあるまな板の辺りで蠢いている。そこで何かを探しているのかと思ったがさにあらずだった。まな板に放っておいた菜箸を、まるで丸太橋のように利用して渡っていっているのだ。その菜箸の先には昨日切って放っておいたレタスの根株。なんと蟻達はレタスに群がっていたのだった。えええ。蟻ってレタスも食うの。知らんかった。
レタスに甘い汁がかかっているわけでも糖分高めのフルーツレタスでも決してない。一昨日袋から取り出し二日がかりでかたした普通のレタスだ。その根株だ。消費するまでの間に何かに浸したり何かを零したりした覚えもない。ただ切り落としただけのレタスの根株である。当然ながら栽培物だから、天然界には無い旨味なり甘みなりを宿していて、人間にはわからないフェロモン様の何かを漂わせているのかも知れぬが、残念ながら蟻ではない私には嗅ぎ分けられない。にしても最初の一匹はよく見つけたものだ。菜箸渡りまでしてさ。
このまま放置しておくと台所中が蟻だらけになって収拾がつかなってしまいそうな気もするが、レタスに有難かる、もとい蟻がたかると云う事象は初めて見るものである故、もうちょっとだけ観察してみることにする。放っておいたら零した砂糖とか飛び散ったソースとかを綺麗に片付けてくれそうでもある。
流しの縁を行き来している蟻達。眺めているといろいろな発見があって面白い。彼らの旅の終着点であるレタスは流しの左手にあり、そこへ向かって右手からやって来ている訳だが、レタスを賞味して帰って行こうとしているやつと今から行こうとしているやつとがこっつんこっつんぶつかりつつ流しのへりを渡っていくさまは見ていて飽きない。ぶつからずにすれ違っていくということがないのはちょっと不思議でもある。まさに童謡に唄われたとおりだ。そのさまを見て会話をしているように見えるのはきっと万人共通の発想だろう。「レタスあっちやで」「旨いけ?」「(゚д゚)ウマーやで」「マジで?!はよ行こー」。時おりこっつんの勢いでか来た方向に戻ってしまうやつもいる。レタス手に戻っていくのならまた食えて宜しいが右手から来て右手に帰って行くやつは哀れだ。君何しに来てんねんと。
流しの途中にちょうど蟻の大きさの黒いゴミが落ちていて、蟻はそれにもぶつかっていく。通りすがりに挨拶をしていくかのように。蟻が何度もぶつかるものだからフェロモンが移ってしまっているのだろう。
右手には調味料置き場にしている板が渡してあるのだが(流しの槽の奥行きに幅20cmほどのコンパネ材を渡してある。一応見た目と防腐を考慮して柄もののビニールクロスを張ってある)、蟻はその下にできた数ミリの隙間を通ってやってきている。この板の右手奥のあたりに蟻行列の湧き出づる場所があるはずなのだが、流しの端1/4ほどを覆い隠している板のためにそれを特定することができない。板の下からひょいと現れ、つとととと縁を渡っていく、帰りの蟻とぶつかりすり抜けていく、帰って行く蟻が板の下に消えていく。まるで板の下から行列が生まれているように見える。その光景はモブ役の俳優が舞台の袖袖を行き来しているかのようでもあり、しかも個々思い思いに動き回っているから一匹一匹に注視しても飽きない。美しい風景を「まるで絵画だ」と褒めそやすような逆輸入の例えだが、ジブリアニメのモブシーンみたような感じだ。
蟻はレタスだけでなく菜箸の先端にも多数たかっている。昨日これで炒め物をしたからその汁気油気を舐めておるのだろう(それが彼らの大目的かとも思ったのだがその下に敷かれているレタス株にも多数集っていて菜箸組よりもじっくり食している様子である)。この菜箸は川上村の物産展で購入した栗の木の菜箸である。腐りにくくて宜しいと紹介され、確かに酷使に耐えてくれているのだけれども、先端がどんんどん丸くなって使い回した爪楊枝のごとくになってしまっている。舐める序に齧り削ってくれないだろうか。ちなみに同じ時に購入した木べらも栗製である。どちらも粗削りな素っ気ないやつだが丈夫なことには及ぶものがない。蟻もまさか栗の木だとはご存知あるまいて。
しつこいようだが翌日朝に更なる発見があった。早朝に目が覚め、自販機のコーヒーを買いに出て、いまだ続いている蟻行列を眺めつつそれを飲んだのだが、飲みさしの缶を行列のそばに置いておいた所、その缶に生じた結露に蟻集りができた。別にコーヒーをこぼしたわけでもなく、缶の冷たさによって凝集した水滴を蟻達は舐めているのだった。きゃつらは水分を欲してレタスに集っていたのだろうか? それにしては流しの槽の水滴には目もくれておらなんだが。
昼前に外出し、戻ってきた頃には空き缶にも、どころかレタスにも菜箸にも蟻は居なくなっていた。日中の暑さで乾涸びてしまったからだろうか。日が落ちた今は1匹2匹モソモソと迷走しているだけで、今朝までの行列が嘘か幻のように静かになっている。
これで心置きなく流しが使えるぞ、と思ったのもつかの間。彼らはターゲットを移しただけであったのだった。今度は冷蔵庫の上に置いてある小麦粉に集り始めている。水分の次は粉もんか。君らの好みはようわからん。しかし実際のところは小麦粉が目当てではなく袋の外側についたベタベタした何かであるようだった。小麦粉の袋(日清製粉のふつうの小麦粉だがビニール包装でチャックがついているやつである)の口が開いているわけでも口周りの零れた小麦粉を運び去っているようでもない。ただ表面をわさわさと歩き回っているだけである。これ、砂糖と小麦粉を見間違えてたりしたら面白いのだが。本物の砂糖は流しに渡した板の上にある(タッパーに入れた状態で)。封はしていないから気づかれたら全部持っていかれるかも知れぬ。
ねみい。。。
大阪の難波治郎三郎、和田安兵衛氏等が播州舞子の濱に煉化石製造所を建築中なる事は日外も記載せし所なるが今又聞所によれば右資本金は十万円にして本年末迄には機械の据え付け等悉く整頓せしめ明年早々開業して製造に着手する見込なりと尤とも其の製造用に供する土は同地近傍の山を開削し一日に幾万個にても製造せらるる大機械を用い該機械は株主なる神戸居留地二十九番「ハンター」商館の手を経て英国より買い入れりといふ
太字の一文ですべてが解決。だからハンター邸にB.C.△H.J.が存在するのである。やっと解決したと思ったら結局は煉瓦史の記述と予想が正しかったということになり(煉瓦輸出しようと考えたから株主になったりしたんだろ)なんだかなあだ。
ジョン・ウェイクフィールド氏の召喚は同年10月。小曽根の煉瓦工場は入江組が継承(別記事)。くそう堺煉瓦石の後は掴めなかった。第3巻は広告だけ、第4巻は9月まで広告チェック。堺煉瓦席は21年 ? 12月に広告を出したきりどっかいってしまう(別記事)。洋風窯ってなんやねん。ホフマン窯のことか。せやったら大阪窯業よりはええ。そのくせ年四千万個製造って疏水事務所の650万個/yより多いんじゃ(別記事)。膳所監獄が疏水工場に煉瓦を供給したり(別記事)大阪でも囚人煉瓦製造を売ろうとしたり(別記事)発信社の耐火煉瓦取扱所が大阪にあったり(別記事)眠い
Before...
_ ホルモン焼き [以前の鐘ヶ坂隧道なんかええんとちゃいまっか?ビヨーンと縦に長くって。]
_ iso [longcatはこんなにでかいのか・・・。Tシャツ、jis男(の顔)のワンポイントもぜひ!]
_ nagajis [Longcat is long.]