nagajisの日不定記。
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遊泳に先発とて訓育班より五名宛計四十五名出発す。
八時半軍装検査、十時より遊泳に関する衛生講話あり。以後は準備
十三時三十分校長閣下を校門に見送りす。やはり三月四十三期生を送りし時と同じ感なりき。何とも云われず。小松崎校長閣下の面影も我々との別れが別れにくきが如くなりき。以後亦随意なりき。
消灯二十時 明日は四時起床なり。
内容的にはこの部録"で書いてもいいような薄さだが(だってnagajisの感想文なんだもん)、皆さんに協力をお願いしているのだからそういう訳にはいかない。記録として残しておかないと。特に「ナニを挙げたらいいの?」という方には参考になるかも知れない情報なのだから。なお8月半ばからサイトをリニューアルして近世以前土木調査の件(リストへのリンク等)もトップページからたどれるようにしたく候。8月はもうちっと働かんとな>nagajis
そのほか、次号予告や表紙やREARTYREやhyなど一通りをupする。仮組も完了。リンクも終えた。nagajisの建前上の任務は完了。のはず。もう一度チェックしとくか。
で、ヨッキ氏どーすんのよ。
盆休みなんてない。その見返り(代休とか給与とか)がある訳でもなく。クソッタレだ。。
次号予告にも書いた通り(と期待させておいて実は実がないからな>次号予告。いつものことだが)8月のどこかの日曜日に「徳川道」を通ってみたい。あとは府立図書館で職員録とにらめっこ。埼玉には、行けるかどうか・・・。そうして秋の市蔵新道の資料探しも、自分のほうでもしておきたい。
確かあの辺りは走っているんだよなあ・・・深い谷の続く箇所で、国道でさえ「よくまあこんな所を道通したもんだ」と思った覚えがある。それなのに、その対岸に。全長は短いが近世以前の道としてもぜひ拾っておきたいところだ。
その他、webを整理しておかないとな。あ、バックナンバーCD#2もある。Tシャツもある。
山積みもいいところ。。。
ここで一発、奇妙なポテンシャルに関する考察をぶちかましたら男が上がるだろうとは決して思わないが、なんとなく、つい出来心で、何か書きたくなってしまう。動機が不純なので独言扱いとする。
スパゲティを折ると必ず3本以上に折れる
という。昨年度のイグノーベル物理学賞を受賞した、歴とした研究である。brief noteを読むと確かに真面目なモデリングと物理的解析がなされていて面白い。何でも一端を固定端とする弾性棒と見なして反対側にモーメントをかけ一気に開放するモデルを考えると、衝撃波が固定端で反射されて増幅し、スパゲティが破断する力を(あちこちで)越えてしまうらしい(もしくはスパの中途が一種の固定端になる??)。実際にやってみても、サイトで紹介されているような綺麗な破断は起きないもののーーーMade in Japanな麺だったしなーーー、10回中8回くらいは3本以上に折れるから不思議だ。皆さんもぜひお試しあれ。そのかわりとても食いにくいスパゲティが出来上がることになるが。あとソーメンひやむぎの類では起こらなかった。弾性が足りないのか。
畢竟、学問・科学とはまさにこういうものなのではないかしらん。「なぜ?」「どうして?」を突き詰めればそれが学問になる。理論的に考えて自然法則に従うと見倣せるならばその考察は科学と言える。奇妙なポテンシャルも追求すれば学問や科学になり得るのではないか。いや、その一歩手前のスパ麺くらいにはなるはず。いや、どうあがいても食えないか。気弱に終わる。
やはり前後が要るだろうということでIllustlatorで
を描いたうえで
としてみたのだが、
東側坑口がイミフ。
そもそも2色+両面だと4版要るから一着4000えんとかになりそうなきがするうえにじぶんがかえない。せめて1色2面くらいにしないと。
マスク・色のせなしで作ってあるからいろいろ再利用ができそう。以下めも。坑口サイズはR=10尺/33尺の二心円。煉瓦の排水樋の根元の辺りの構造がよくわからない。単に壁に添わせてあるだけじゃないのだなあ。あと佐和山西側はピラスターのてっぺんちょがありません。東側の煉瓦樋はなかったのだっけ。煉瓦の数はだいたい合ってる。はず。
どうでもいいが湖北はすでに作ってある。本邦道路隧道集覧の図は少し違うのでちゅうい(誰何
収集がつかない。
脳腐らせて作ったところで使い道がないことがわかる。いちばん悪いパターン。道路法制定によって県費支弁里道がそっくり県道になった、と思ったら長島道は新規じゃねーかばーかばーか。
危うく見逃すところだった大切な告示。昭和52年3月時点では野又峠は生きていたという証拠だ。
昭和52年3月18日 三重県告示第166号 供用開始 県道紀伊長島飯高線 北牟婁郡紀伊長島町東長島字天摩765の8番地先から 飯南郡飯高町大字森字まえ池262の11番地先まで 昭和52年3月18日
久しぶりにFさんと北摂へゆく。足の調子も上々で2時間近くがっつり山歩きした。つま先立ちで山道を歩けるようにはなったが気を抜いて左右にひねると死ねる。もうちょいか。
キノコシリーズ。ホウキタケの仲間か? マイタケか?
生まれて初めて見た謎のキノコ。高30cmほど、壺のある長いの茎の上にささくれだった球形の本体がついてる。キノコなのかどうかもわからぬ。謎すぎる。
ハグロトンボ。動きが緩やかなので撮りやすそうに見えるが、夕方の日陰に現れるので案外難しい。20枚近く撮って唯一成功した一枚。
以前北摂線描で取り上げた未成道が完成していて、かつて通った道(旧国道)が廃道になっていた。自分が通った道が廃道になると複雑な心境になる。
切り取り方としてはよかったと思う。
長くなったので未来にトバす。弘栄煉瓦が岸に進出するのは播煉よりも遅く、昭和16年頃のことらしい。そうして39年頃まで操業した。従業員Gということなので49人以下の小規模工場だったのだろう。
該当番地の辺りはすっかり住宅地に生まれ変わっている。そのど真ん中の1ブロック、もし今ここに煉瓦工場があったら煙害で大問題になっているだろうという場所だ。それゆえ痕跡は全く見られず、煉瓦すらも落ちていなかったが、ブロックの東橋に写真のような空き地が残っていた。現所有者は不明だが「立ち入り禁止」「ここで遊ぶな」という手書き看板がこれでもかと建っていた。工場の番地が判明してもモノが残っているとは限らない。そういう当たり前のことを確認した。
とは言い条、住宅街の端にある大歳神社の片隅で煉瓦を目撃した。1つは明らかな焼損煉瓦。無刻印。もう1グループは機械成形のJIS煉瓦で、但しずいぶん歪んでしまっている。これも焼損の類かも知れぬ。
この神社の東側に古い長屋が残っている。奥までは立ち入らなかったが、入口の路地の脇に写真の刻印煉瓦が落ちていた。機械成形の肌に「K」を打刻したものだ。刻印というよりも釘か何かで作ったような素朴さがある。機械成形の煉瓦なのに。
あやうく忘れるところだった。同じものを四郷町明田でも見つけている。これが弘栄煉瓦の刻印なのだろうか? それとも「Kn」シリーズの流れを汲むもの---共同販売刻印の名残りなのか?Kn=弘栄で、その名残り? なのだろうか。これがあるせいで仮説が仮説の域を脱せない。
昭和3年から操業開始したバンレン岸工場。これは国土地理院で公開している国土基本図@S30年代に記載されているので間違いない。ただしその発行からも約半世紀が経過し、住宅街が立ち並んだり姫路バイパスが開通したりしたことで、辺りはすっかり様変わりしている。工場跡地もローレルコート加古川という最新式の?マンションになっていて、見るべきところすら見つからなかった。周囲の住宅も新しいものばかり……。
もっと心に余裕があったら、大字神爪だとか山陽本線の南側だとかを歩き回っていただろうが。。。ぱんつはいてないと気合が入らぬ。気になってならぬ。早々と諦めて宝殿駅へ向かった。
以前この駅から乗った時には鉄道南側で三本線刻印を見かけている。集中的に。ここに工場があったという記録はないが、何かヒントになることが見つかるかも知れぬ。次回の課題だ。
播州合同煉瓦岸工場では操業末期に道路用コンクリート製品(排水渠や排水桝等)を作っていた。やがてそれが本業となり今日のバンレン(株)になっている。
今日の成果はまた日を改めて。曽根天満宮の石垣のことだけ書いとこ。
高砂市曽根にある天満宮はかなり有名な社だそうだが、そのことよりも石垣が面白かった。境内西側を限っている石垣が見事。合場の合わせが寸分の狂いもないのはもちろん、毛抜き合場四ツ目になりそうな場面を巧みに交わして崩してある。相当な上手の作である。
などと思いつつ見ていくと、こんな遊び積みも。よっぽどの名人でなければこんなことする余裕はない!
参道を挟んで北側にも石垣が続いているが、こちらはちょっと見栄えが劣る。合端の隙間が目立つし、水平が崩せてないっぽいし、写真の場所には重箱気味な積みも一箇所ある。(とかなんとか評しているが自分がこんなにうまく積めるとは思っていない。さっきのが上手すぎるのだ)
そうはいうが、この区画にも遊び積みがあった。恐らく杯なのだろう。赤っぽい石を選んで作ってあるところにセンスを感じる。先の瓢箪(酒瓢箪)と対になるようこの形を選んだのだろう。師匠と弟子の作品、といったところか。
紙にだけ霧吹きすればすむだけの話だった。
とりあえず形になった。そろそろリミットだなあ。
清々流転の世の中とは無縁なところにいて愉快である。渦巻く欲望を高見もせず羨望もせず唯紙一枚データ線一本のつながりで接していることが気安くてありがたい。何をしても無駄という諦めを3年も背負って歩けばそりゃそういう気分にもなるだろうと思う。そもそもその諦めが間違っていた。「それが世の中というもの」なのだ。数え切れない位に多くの先人が歩いていった太い太い道なのだ。うだつをあげることに躍起になる必要もなし。築要素としてのうだつがはもう半世紀以上も前に廃れてしまった。ここでそれを上げたって再現にしかならない。
何が幸せで何を喜ぶのかわからないまま不意に事切れた人も多い中でやってて面白いことを会得し幾らかでも残すことがあったことがうれしく思われる。生きた証などとほざくつもりはないが結果的にそういうものになっている以上認めなければならないだろうけれどもそのつもりでやっていくつもりはこれからもない。せいぜい人の預かり知らぬところで45°角の三角定規を気取っていよう。
myさんのお陰で謎が解けました。これで無謀な冒険をせずに済む上に日々のルーチンワークがちょっと楽になります。有難や有難や。
(間違った感謝の表し方であることは承知している)
到底、とか、絶対に、断じて、とかいう意味で使われる言葉に
金輪際
というのがある。
で唐突に、臨終とか死に際とかの
今際 の際
とこんりんざいって似てるよな、つか、こんりんざいを分解して読んだだけじゃん、と気づいた気がした。
金 輪 の際
おおnagajisすげー、実は金輪際は今際の際やったんや、と感心してみたものの、それから約4時間後に間違いに気づいた。「金」を「いま」とは読まんだろ。頭の中ではちゃんと「金輪際」とゆう文字で把握していたにも関わらず「いま」と読めると思っていたnagajisの頭はどうかしている。「今輪際」だったらこんりんざいではあるだろうけれどもそれはそれで元の木阿弥な気もする。ひょっとしたら一画目二画目の笠が似ているから取り違えたとか、そういうことか。
ちなみに金輪際という言葉、長いこと
たった今から以降は絶対に(~しない)
という意味だと思っていた。「金輪際お付き合いをお断りする」みたいな文脈で覚えたからだ。
ほぼこれを撮るためだけに姫路に行ってきた。なんや、文学館リニューアルなんて待つ必要なかったんや……。
文学館裏手の男山にある煉瓦壁は濱本氏別邸(→男山市民寮→現・望景亭)のために作られた煉瓦壁。濱本氏は山陽窯業の創始者の一人で、その縁で山陽窯業の「山」刻印煉瓦が使われている。このことは山陽窯業と袂を分かち東山工業所となった旧見野工場の関係者からお聞きしたので間違いない。そうしておそらく、この丸みのある「山」こそ、山陽窯業見野工場で使われていたやつだ(ここは推測)。
男山配水池公園から眺めた姫路城。こう見るとひどく小さく見え、賑わいの町並みから浮いてしまっている。結局今回も姫路城へは行かなかった。かわりに姫路市近代美術館に立ち寄った。これっぽっちも収穫を期待していなかったのに(思わぬ|重大な)発見があった。もちろん煉瓦刻印に関しての。しつこさでは水野先生の後塵を拝さないつもりでいるnagajisである(←小栗っぽい慣用句の誤用)。
第2巻は全部見たのでこういうのを見つけられた。てかよく見つけたもんだと思う。褒めてやる。
●膳所監獄 同監獄にては本年四月以来囚徒をして煉瓦石を製造せしめ居る処追々事業盛大に趣き目下疏水工事用其の他の所々よりも続々注文あるよしにて時としては品切れのする事もある位なりと云う又目下同監獄の囚徒は凡そ八百余名ありと云う
これが例の「カ二」の出処だったら面白い。カンゴクのカ。とかいったら他の監獄はどうやねんちう話や。
例えばこんなんとか。
(広告) 一 煉化石製造事業 右原料を差入れ在監人をして製造方委托望者は当監へ出頭規則熟覧の上来る十五日午前十時迄に投票すべし 但開札は同日正午 明治廿二年五月 大阪府堀川監獄
そうか、原料を差し入れればいい話。べつに囚人を工場まで連れてくる必要はない。素地作って渡してもらって焼けば済むのだ。堺煉瓦もたぶんそうやってたのだろう。では膳所監獄は? 瀬田には田中工場があったけど。
別巻の索引は広告を拾っていない。故に広告は全見しなければならない。
大阪府豊島郡小曽根村入栄組製造 煉化石 直販売
今般改良の上事業拡張仕一層盛大に製造し且精品廉価を以て広く販売仕候間多少に不限陸続御注文あらんことを奉希望候也
大阪府西区南堀江通壱丁目四番屋敷
入江組本店
というわけで関西煉化石は舞子へ移り元地は入江組が自社工場とした。資料には入江も入栄もない。小曽根煉瓦工場は大阪府統計書に出て「 小曽根煉瓦会社」と記されることもあった。これを小曽根煉瓦という名前の会社と取るか、小曽根の煉瓦会社ととるか。たぶん後者。
稲葉組煉瓦製造所 堺市菱橋西詰なる稲葉組煉瓦製造所にては業務拡張の為め新たに泉州大鳥郡高石村字浜寺に工場を設け本日開業の式を挙げ爾後同所に於て盛んに煉化石の製造に従事し汎く世人の依頼に応ずると云う
菱橋西詰、厳密な位置がわからぬが、埋め立てられた新堀川のどっかにかかっていたらしく((旧)堺市史)、その西詰というと大浜の辺りに相当する。んでその川向かいが原口工場のあった場所でM19測図の地形図には3つの窯マークがある。花岡工場とか佐藤工場とかいう小工場もあった。これらのうちの幾つかが合同して稲葉組を称していたか。稲葉組工場として在ったのではなく個人工場の寄せ集めと。「明治工業史」にも「原口製造所の外にも二三資本家の合同によりて稲葉組と称したる煉瓦工場の設立を見」とある。要するに花岡佐藤辺りの合同か。それでM22に高石に組の工場を設けて、そのへんは統計書でも追うことができる。ただ長続きはしなかった。高石煉瓦(株)を名乗るが職工0のまま消えてしまう。
工場図では高石に稲葉組発生としてるな。正すべし。
堺煉化石最後の広告。
堺煉化石 建築用 工(土?)功用
堺煉化石は夙に好評を博する製造品にして其需要日に月に増加するも製造高に限りあれば其供給に応ずる能わざるを虞え従来製造竃の外新たに欧米風に擬したる新工夫の竃を増築し今回其功を竣え爾来七十万個以上を製造することと相成候に付製品は勿論対価等も精々注意致し御便宜に任せ続々注文に応じ可申候此段広告仕候也
明治廿一年1十二月 堺附洲新田 堺煉化石会社
大阪販売所 大阪西長堀南通三丁目 宮本商廛
最後の 廛 の字はテン、店の意味。んで宮崎商会でないところが嫌ね。 欧米風に擬したる新工夫の竃、ちゃ何やねん。
宮本商廛は西成郡野田村156番地の工場で作った耐火煉瓦も取り扱ってた(明治22年1月9日広告)
●堺区の諸会社 泉州堺区に於ける現在の重立ちたる会社は堺煉化石会社、旭商社(ルビ:きょくしょうしゃ)、煙草会社、染物会社、精米会社、穀物会社、綿実会社等にして何れも随分盛んなる由なるが去月中右の諸会社に於て製出せし諸産物の高を聞くに堺煉化石会社にては四千万個旭商社にては二十五万千六百七十四個の煉瓦を製し煙草会社にては四千三百五十五斤の煙草を取扱い染物会社にては五万四千六百九十七反の染物をなし洋薬会社にては二十八円七十五銭の薬品を買入れ其他の会社は休業或は工事中なりとぞ
四千万はどう考えてもおかしい。これに擬洋風竃を作って七十万個つうたらやっぱり四十万と考えるべきだろう(そんだけ作った煉瓦はいったいどこへ行った?)
あんど、旭商社はあさひしょうしゃじゃなくてきょうしょうしゃなんだね。
これに 20140125#p01no明治21年府下煉瓦製造量を重ねると協煉瓦製造所ってのが堺煉化石であるべきだちうことになる。旭商社は別にあるし。野田の耐火煉瓦工場は浅田組の。
桂川橋梁のことを書いていて、そういえば阪急にも官営鉄道の橋脚があったよなーちゃんと見てなかったよなーと思い出し、調べてみると、淡路の立体交差事業の絡みで撤去される予定になっているらしかった。毎度のことだがnagajisのアンテナ感度の鈍さには呆れる。いつだって撤去直前とか消滅直後とかに気づいて、そうして地団駄踏んで慌てるのだ。
神崎川橋梁の現況。昨年の11月に仮橋への切り替えが済んで、上部工が撤去された状態。打ち上げのコンクリートもすでになくなっている。官営鉄道時代の橋脚は川の中ほどにある2組の円形橋脚だ。
桂川橋梁の謎が解けたいま、上流側(写真奥側)のほうが初代橋脚、下流側がM32に複線化された際のものに違いないと思う。上に乗っている笠石の仕上げも上流側のほうが丁寧だ。そうして下流側からはかなりの確率で「A」「B」「C」の3つの刻印が出るはず。問題は上流側で、A~Eの4種類(きっとCがない)が出たとしても、それだけでは堺の官営工場後の原口煉瓦が製造したのか京都の浅田組だったっけかが製造したのか特定したことにはならない。どちらからも持っていける範囲だからな。違うものが出れば最も素直で良いのだけれども。A~Eが出たとしても書体比較で区別がつけられるかも知れぬ。
6番の煉瓦Pが謎。ここだけ五角形の水切り付きの煉瓦橋脚になっている。煉瓦の厚さは初代に近いように見えるが、やはり後年追築されたものだろうか? 充填コンクリに破砕した煉瓦を混ぜてあるのがちょっと面白い。
神崎川橋梁の南手、府道をまたぐ個所に残っているこの橋台も撤去される。上流の橋脚が古いと考えるなら、この橋台も大半がM32追築分と言わざるを得ない。足元にアーチが仕込んであっていかにも古そうに見えるのだけれども、線形が合わないのだ(写真は下新庄駅方向を向いている。左が上流側、右が下流側)。そうしてこの橋台はまだ継ぎ目がわかりやすい。そのうえ上流側の端をいくぶん削りとった痕跡がある。そもそもあれか、アーチ部が元からあったのだとしたら左を壊して継ぎ足したら左右非対称になるはずだよな。元はアーチのない一枚壁、それにアーチつきの壁を継ぎ足して左右対称にしたと考えねばならぬ。
盛土剥がしの始まった線路敷にはこんなものも出土していた。上記橋台とそっくりの橋台の遺構。アーチまでついている。金網越しに穴が空くほど見つめたけれども刻印は確認できなかった。古い側は仮線築堤の下に埋もれているはずで、そちらはどうしようもない。築堤の土留の矢板がぶっすり刺さっているはずである。
阪急電鉄さんにお尋ねすると、神崎川の橋脚は渇水期をねらって撤去するそうで、今年の11月頃まではこの状態で据え置かれるとのことだ。公的機関による調査も行なわれることになっているそうで、その点はちょっと安心している。そりゃそうだよな、阪急さんが無碍に壊してポイするはずも、吹田市がこれを見逃すはずもないもんな~。
Before...
_ imola [ねじりまんぽ、ワラタ。。]
_ iso [密かに期待していたねじりまんぽ、こう来たか! この省略具合がすばらしい。車場川橋梁のように迫受石が鋸歯のようになったものをリクエストしたりして。・・・いっそ袖の裏側をねじりまんぽにしてみたらいかが..]
_ The Kate [ねじりまんぽも本望でしょうて・・・(たぶん)]