nagajisの日不定記。
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大正中期に別所村に興った播陽窯業株式会社は、所在地が別所村北宿860ということになっている。しかし現在北宿には860番地が存在しないらしい。最も近いのは859-1の播州倉庫(株)。敷地も広いので、ここがかつての廉価工場なんじゃ?と思い、出かけてみた。のだが……。
現地には天川中学校跡の碑が建っていた。昭和25年にここに阿弥陀村・別所村共用の中学校が作られた由。その前が煉瓦工場だった可能性はなきにしもあらずだが、中学校になり工場になりしていたらますます跡が残ってないわな。周囲を一周してみたけれどもやはり収穫はなかった。
念のためにと思って国道2号の南側も歩いてみた(こちらはいま別所町小林という地名になっている)。いかにも新興らしい住宅地があるばかりで、煉瓦がありそうな雰囲気ではなかったのだが、区画割の一角に空き地があり、古煉瓦の屑がいっぱい落ちているのを発見した。煉瓦だけでなく赤褐色の土も散乱していたのが意味深だ。煉瓦の一つにはモルタル目地ではなく粘土(おそらく煉瓦の素材になるやつ)を塗って積んだ痕跡もあった。
煉瓦で窯を築く時には、モルタルでなく粘土を目地にして積んだ節がある(by堺市の住宅街を歩いた時の経験。もと関西窯業という土管製造会社があった辺りに溶けた煉瓦=窯に使ってたやつと思われる煉瓦が落ちていて、それには赤土が塗られていた。モルタル目地だと火に弱いだろうし、赤土目地で積んどいて焼けば窯全体が一体構造になるにちまいない)。そういうわけでこちらが工場跡であったのかも知れない。厳密に追求するなら法務局だな。
そうしてこの屑煉瓦の中に、楷書の「ハ」の字の刻印を発見したのだった。
「ハ」。セオリー通り会社の頭文字だとすると、播磨煉瓦>原田煉瓦工場(>弘栄煉瓦)になるのだが、その跡地や周辺では「ハ」刻印は見つからなかった。以前「ハ」を見かけたのは阿弥陀一丁目の付近。播磨倉庫の東方だ。して後で北宿の旧市街地を歩き回り、見つけた煉瓦壁にも「ハ」があった。
この壁に使われていたのは直線的な棒二本による「ハ」。さきほど見た楷書の「ハ」 も畑のシートの重石に使われているのを目撃した。北宿周辺では「ハ」が優勢で、なおかつ幾つかのバリエーションが存在していたけである。
となると、「バンヨウ」の「バ」の濁点抜きであると考えたほうがよいだろう。推測を弾ませれば中播のバでもよいかも知らぬが、他所の中播の工場跡地では見つかっていない。もし中播=「ハ」なら印南郡のそこここで見かけているはずだ。あと、中播が興った時には他に煉瓦工場がなかった。刻印のレゾンデートルは自社製品を他社のと区別するためというのが先ずあるわけだから、競合他社がいなければ刻印の必要もなかろう。実際印南郡では無刻印の手成形煉瓦も結構な量分布している。全てがそうだとは言わないが中播のがずいぶん混じっていることだろうと想像する。
北宿を歩き回った足で見野へ向かった。北宿から見野へは中国自動車道に沿って山越えするのが早い。国道2号を通って行くと三角形の二辺を歩いて行くことになってしまう。それは無駄だ。
高速道路脇の細道---いつも自動車道から横目に見て「どこから来てどこに繋がってるんだろう」と不思議に思っていた例の道---をてくてく歩いて行った。播但道とのジャンクションの西側、山をでっかく切り通した峠から姫路の賑わいを見渡せた。この眺めは結構面白い。昔ここには道がなかっただろうし、あってももっと高い所で、木々に遮られたりもしただろうから、今だからこそ得られる峠の見晴らしと言える。
そんなのを見つつ、思いつつ歩いていたせいか、平野に降り立った途端に左折してしまった。見野は右(高速道の北側)だ。気づいた時には南の集落(四郷町明田)の中をひとしきり歩いた後だった。
明田の在所では「K2」を発見。別の通りでも土埃に塗れた「K2」を見た。「K2」自体は尼崎市街で見かけていたのだが、集中的に転がっているのは初めてだ。
間違いに気づき、北上。東山工業所も番地が判明しているので、そこを中心に歩き回るつもりだったのだが、そこに辿り着く前に「山」を発見した。昨日のエントリに掲げてある下辺の丸い「山」だ(写真は角丸の異形煉瓦だが同じ並びに普通煉瓦の同刻印あり。集落の路地裏でも1つ見つけた)。なんだか推定山城煉瓦に似てるなと思ったけれども、あちらはもっと篆書チック。下辺と中央縦棒の間に三角形の空間がある。
東山工業所なのだから「東」とか「ヒ」とかを期待していたのだが、先に山陽窯業が見つかって、ちょっと意外ではあった。しかしこの工場は山陽窯業が分裂してできた個人工場だから、山陽窯業の「山」刻印があっても不思議ではないのだった。
先に集落の路地裏を歩き回ってみたが、出てきたのは無刻印か「山」刻印ばかり。他には作業者符丁と思われる素朴な作りの「ロ」「ホ」刻印を見つけられただけった。このうち「ロ」刻印は明田でも同じものを見かけている。
結局、東山工業所製と断言できるものには遭遇しなかった。先述の「山」が東「山」である可能性も無きにしもあらずだが。。。これが現地調査の限界だろう。
んで、最後に該当番地へ行ってみる。マップにも載っている「教岸寺」の裏手だ。こんな住宅街のど真ん中にあったんだろうか?と思わないでもないが、現在の番地はそこを指し示しているのだから仕方ない。しかも、そこには……
こんな煉瓦塀があったりした。予想外も甚だしい邂逅である。
煉瓦壁の中央には焼損煉瓦が使われている。最近はわざと焼損させてこういう煉瓦を作ることがあるけれども、こいつは非意図的な、偶発的にできた焼損煉瓦を使っている。あまりにも汚過ぎるのが混じっているから。
そのうえこの壁には「K2」が使われていた。いかにもデンティルの隙間から覗いて見つけてねという位置に押されたK2。さっき明田で見たのと全く同じ打刻位置だ。
言い忘れたが、この壁は民家の壁である。煉瓦工場の周囲を囲っていたものというわけでもなさげだった。しかし工場所在地とされる場所にあるのだから、何らかの関わりがあるに違いない。余りに立派な家のため、怖気づいてピンポンできなかったのが悔やまれる。
そんなこんなで明田・見野では「K2」が集中的に分布していることに気付かされた。「Kn」刻印は印南郡の他の場所でたくさん見ているのだけれども、n=2は初めてだったりする。そんなこんなで「Kn=共同販売用に各社が作った煉瓦」説を思いついたのだった。
傍証がないではない。まずKnは構造物に見られる場合は必ずnが揃っている。2だけとか8だけとか。大正煉瓦阿弥陀工場跡のマンションもK6で統一されていた。工場内のラインを区別するためならnが複数混じっていてもおかしくないだろう。しかし(自分が見た限りでは)そうなっていない。
そうして郡内ではnの数字に明確な地域割拠がある。旧四郷村ではK2のように。この日しでかしたポカのため、日を措かずにまた姫路へ行かねばならなくなったのだが、その時にも同じような分布傾向を発見することになる。
見野から北上中に発見した煉瓦製排水桝で。場所はここ。こういう公共施設だと気軽に採拓できていい。後日同じパターンのを曽根で見かけた。掠れているとますます「T」に見えてあやうい。
曽根から西神吉へ歩いているとき、魚橋の旧街道筋を抜け、西神吉村域に入らんとするところに橋が架かっていた。名前を控え忘れたが1車線幅しかない小さなRC橋だった。写真はその橋から西神吉村方面を見たところ。正面の防音壁は国道2号のバイパス(姫路バイパス)だ。
渡った所に国道2号の看板が建っているのに気づいた。ああそうか、魚橋の旧街道筋ということは国道2号の旧道筋でもあるんだな。国道指定がまだ残ってるんだろうな。
と思いつつマップを確認すると、そんなことはなかった。↓の位置なので県道ですらない。撤去し忘れたおにぎりなのだろう。早くなんとかしたほうがいいよ。腐っちゃうよ。納豆のような口当たりのかつおおにぎりになっちゃうよ。