nagajisの日不定記。
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自分の書いた本を自分で買いに行くという大変ベタな行為。これも一種の通過儀礼か。二度とないだろうしな。ちなみにnagajisは現役時代?に書いたものが載った雑誌を購入した覚えがない。買う気にもなれなかった。それに比べればニンゲンらしい進歩と思わねばならない。
そもそも「廃道本」が書店のどこに並ぶか想像がつかなかった。車・バイクコーナー? まさか自転車? いろいろ考えたが結局はこれもまた順当な配架であるアウトドアコーナーであった。廃道本コーナーとか出来てたらどうしよ、とか考えてみたりしたnagajisはあな哀れである。
そもそもどちらの廃道本も見本紙として何部かいただけることになっている。写真や情報を提供して下さった方々に送らなければならない。しかしそれ以外にも進呈したい先がある。そのための2册である。行帰りに電車を使ったりわかばを買ったりしたので地域経済にも貢献しただろう。
発送が少し遅れますのでご容赦ください>各位。
5年分吐き出してきた。予想通りトバしまくった。とりあえず終わった。むーん。
タイトルに↑のような引用ネタを使ったが、実際のところはこれからが正念場だと思うんだ。自ら築き上げてきた村田像を切り刻み解体する作業が待っている。これがいちばん大変かも知れない。
あっちで書いたみたいに現段階では政治史との絡みをほとんど考慮していない。県議会議事録大正5年版にあったクリチカルな情報の検証をしなければならぬ。原敬→堀田義次郎&井上敬之助コンビの政友会系県治に清廉潔白で鳴らした山田博愛がどの程度協力したのか。政友会勢力増強のための移籍組であり六六計画だったのか。そして村田鶴は。次回はそのへんの攻防になる。
それから、工手学校の教授陣の分析。神吉先生のご指摘の通り、工手学校の教授陣はすさまじいもので、東京大学で教鞭を執っていたような人が夜学のこの学校のためにまた教鞭を振るった。教育の質はものすごくものすごく高かったのだ。例えば当時の土木科で隧道を教えていたのは森早苗。山手線新永間高架橋の建設に携わっているような人物。建築、図画辺りの教師が誰だったのか検証しなければ。妻木頼黄だった気がする。いやあの人は主務だったか。むーん。
語り継ぐ 人もなく
吹きすさぶ 風の中で
紛れ散らばる星の名を
例え忘れても
Head-light Tail-light
旅はまだ終わらない
Head-light Tail-light
旅はまだ終わらない
私事にかまけて他の仕事がほとんど進んでいない・・・明日から馬車馬のごとく動かねばならない。ならないのっ! めっ!
(カテゴリは必ずしも一意性を保証するものではありません)
子供を叱る時の
めっ!
というのは
この目を見よ!
ということであるらしい。口ほどにものを言うという我が目を見、怒りの感情を読み取り、自省せよ、ということ。何故怒られなければならないか、どうして怒られているのかの口頭での説明を省き、相手に読み取らせることで済ませようという、一種の手抜きである。
ならば仮に、他の器官が口ほどにものを言う人物がいたとしたら「(その器官)ッ!」といえばいいことになる。二重瞼で優しい目をしたお母さんなんかは目以外の何かで訴えたほうがいいのかも知れない。
目以外で外部に訴えかけるもの・・・。各自で想像されるとよい(<手抜き)。あ、お父さんでも可。
人でなしのnagajisにはどんな器官だってあるのだ。また入金操作し忘れていた・・・。真面目に反省したい。あと、幹事会にはちゃんとすーつを着て行きましょう>nagajis
どうも、nagajisにスーツというのは孫に意匠、もとい馬子に衣装であり、ケツの穴のちいせえ人間が精一杯背伸びしてる感が漂っているようでいけない。いや、全国数千万人のスーツさんを揶揄するつもりは毛頭なくて、とことんnagajisにはスーツ似合わないだろJKとしか思えないのだ。そうなのだ。人でなしのnagajisは人でなしらしく生きなさいってこった。
なので普段着(とも言えない怪しげな格好)で登場してもどうか石を投げないでください。スーツ着て出てきたときはウンコ我慢してると思ってください。年クラスの久しぶりにスーツ着た時点で虫食いに気づいてしまったり一張羅のネクタイ洗濯したら何故か裏地がボロボロに破れてしまって朝慌てて縫ってみたりしていたnagajisなのだから。
(とはいえ、莞爾となった限りは自分だけの体面じゃあないのだしな・・・ブツブツ・・・ニッコリ笑って自分斬るか(ボソ))
ツッコミ欄は実体参照使えませんosz
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807309/113
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807310/111
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807313/128
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807313/128
伊勢街道
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807315/173
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807316/201
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807326/178
明治23年県令第50号 戸毛街道追加
明治24年5月県令第○?5号 国?見街道、善根寺街道、宇陀街道追加
明治24年県令第31号 曽爾街道支線追加
明治25県令第57号 田戸街道、?街道追加 3川追加
滋賀県で見つけた橋梁3題。一つ目は高島市(旧安曇川町)の金丸橋。プラットトラスの手本のような鋼トラス2連。一見して古いトラス橋だとわかるのだけれども、親柱も銘版もなく、竣工年が不明だった(旧橋の親柱らしいものが一つ転がっていただけ)。帰って橋梁史年表で調べると1930(昭和5)竣工とのことだ。
門構の隅の仕上げが独特。この設えは湖北の福橋、川合橋と一緒だ。
こちらが福橋。高時川架設のRC桁+プラットトラス3連。2005年に撮った時はずいぶんさびていた。金丸橋は結構よく手入れされていて、昭和63年に旧橋化したとはいえ、まだまだ持ちそうな感じだった。
2つ目は安曇川の本流にかかる安曇川大橋。銘板で昭和8年竣工と知る(親柱には平成3年竣工とある)。曲弦のワーレントラス2連。こちらは「滋賀県土木百年年表」にも記録があって山本広次設計となっている。接続する陸橋・安曇川小橋はアーチ風の複連RC桁橋だったが、これも当時からそうだったようだ。
「日本の近代土木遺産」「滋賀県の近代化遺産調査報告書」には非掲載。近代化遺産調査の一次調査のリストには入っている。県下に残る戦前の鋼橋としては大形なほう。
轢かれそうになりながら撮影した橋梁銘板。昭和八年、汽車製造株式会社製作。路線としては県道大津今津線になるはずなので、昭和6年の「六六計画」によるものと思われる。次の水路橋工事もその絡みか。
最後に家棟川水路橋。「滋賀県土木百年年表」に写真があったやつだ。県道木戸・小松道路改良工事とだけしか書かれてなかったので場所がわからなかったが、かつての西近江路、大正県道大津今津線、要するに現県道161号の北小松の辺りだった。
水路橋以前のようす。天井川を越えていく道を写したもので、写真左端に「陸閘」と書かれている。いざという時に道路を塞ぐ閘門のようなものがあったらしい。現地にはこの写真と同じようにして越えていく道が残っていて、それだと気づかずに通り抜けてしまった。いかにも天井川らしい風化花崗岩の白砂利の目立つ道だった。もっと撮ってくるべきだったな……小雨が降っていて自在に撮ることができなかった。
竣工直後の水路橋。前掲の写真とは写した方向が逆のようだ。
改良工事は昭和11年7月1日から始まって昭和12年9月30日竣工となっている。橋梁工事は請負、他は滋賀県直営事業。
さんざん悩んで試行錯誤を重ねた結果、実質的には何も起こっていなかったということを確認しただけだった……。どういうことだ。削除したのがまた上がっているという認識が間違っているのではないか。だいたいあのフォーマットであげてもフィールドがあってないからacceptされるはずないじゃん。なのにAmazonは31万件処理したとか宣う。チェックの意味ないぞ。
というわけで処理が遅れてます。すみません>各位 特に小学校の先生へ。明日発送しますのでお待ちください(とここを見ていないに違いない人に向けてのメッセージを書くなと何遍言ったらわかるのか)。
一台だけ動きがめっさ遅いパソコンがあって、そいつにメインが動いているもんだから、他のパソコンの作業にも影響を及ぼしていた。プロパティ見たら2G載ってるくせにアプリ2つ動かした状態でオーバーしかけてた。どっちもJavaなんで余計にメモリ喰いなんだと思う。これでは動くもんも動かんだろ。
ということで、Sさんを唆して4GBに換装したのだけれども・・・32bitなWindows7だから3GBちょっとしか使えないのな。いまだにXpな自分はそうなることを知らなかったものだから「1GBどこいったん?」と悩んでしまった。オンボードビデオに持ってかれたかと思った(んなわけあるか。だいいちノートじゃないじゃん)。
とりあえず物理メモリ3GBでPF2GBちょいだからまともにはなった。それにしてもWindowsのメモリ管理は頭いいんだから悪いんだか・・・重くなったら途端に重くなってアプリ落とすのもできなくなるからなー。MacOS9はその点ちゃきちゃき終わらせられて回復できるからありがたい。でも開放されないメモリが多数。どこいっちゃってるんだろうな、あれ。
地味にひととおり書いている。pdfにするのがまだ。たぶん前の書き方に戻っているので面白く無い。
一瞬「おっ」と思ったけれども、どうせ著名本とか絵的に面白いものとかばっかりなんだろ。自分が見たい統計書とか郵便路線図とかがあがってくるのは百年後な。だいいち元データからして腐ってるやつを直してくれたりはしないんだろ。うんこめ。
あと、Amazonに紐付けされるんだったら自分でpdf連結してつくったほうが精神衛生上よろしい。
「まんぎょんぼん」という言葉が頭から離れない。何かにつけて「まんぎょんぼん」と呟いてしまう。ひと仕事終えてふうとため息をついたあと「まんぎょんぼん…」といってしまったり、さあ寝るぞというウキウキした心情が言葉になってでてきた時に「「まんぎょんぼん!」だったりする。時既に末期である。
まんぎょんぼん。これは間違いなく強い言葉だ。オタフクソースは弱い言葉。オリバーソースは中くらいに強い。最強はハグルマソース。そんなヒエラルキーのかなり頂上付近にいると思う>万景峰
ああそうか。いま気づいた。町中で韓国語が耳につくのは強い系の言葉や語尾がおおいせいだ。アンニヨンハシムニダ。これは間違いなく強い。北朝鮮の国営放送がよい例だ。一方中国語は若干弱い。ニーハオなんてずいぶんじゃないか。
まったくふじゅんなどうきからかくちょうをはじめる。わはは。そういう動機でもなければやらんだろ。やらんかったら中途半端で終わるだろ。
先日勝山市を通った時に出会った記念館。もと羽二重織の工場だった建物を再生して勝山の織物工業の歴史を教えてくれる施設になっている。
2階のこの展示が素晴らしい。糸繰り機や整経機などが動態展示されている。糸はさすがにループで回してあるけれども、これだけ各種の機械が律儀に動いている姿はなかなか見られるもんじゃない。何よりステキなのが、当時のやりかたと全く同じ方法で動力を取っているところ。ひとつのモーターの回転を、革ベルトとプーリーを介して各機械に伝達するという、当時のやり方をそのまま再現している。この機械たちはたった一つのモーターで動いておるのだ。それが昔の工場の極普通であって、今じゃまず見ることのできない仕業なのである。素晴らしい。ああ素晴らしい。オーチンハラショー。
奥にある羽二重の織機も動かして下さった。樋を左右に飛ばす仕組みがどうしてもわからなかったのだが---要するにピンボールのフリッパーではたくような感じで左から右、右から左と飛ばすのだけれども、それに動作を与えているらしい回転が2回転したところで1度樋が飛ぶ。どういうタイミングの取り方をしてるんだろう---、樋を受け・飛ばす構造体とそれを動かすバーとを接続するのに厚い刺子の布を使ってあるのは意味がわかった。樋を受けた時のショックをそこで吸収しているのだ。刺子布は樋受け部についてる棒に半分巻き付くような形で取り付けられていて、それをグイと引っ張ることで樋を飛ばす。逆に樋を受ける場合はその布と棒の摩擦&厚い刺子織りが曲がることで衝撃を吸収する。もし樋受けと機構がリンク構造かなんかで結ばれていたら樋受けにあたった瞬間に跳ね返ってしまって送り返せないだろう。どこかにショックを吸収する機構を入れればリンクでもいいんだろうけど、たぶんすごく煩雑になる。そのへんのややこしいところを刺子布一枚で処理しているところに感動を覚えたことだった。
夜食にチキンラーメンをしばいたろうと思い立った時に常温保存かつ1週間ほど賞味期限が切れていた卵が出てきたのだが何の躊躇いもなく食べてしまえたところに生命讃歌を聴いた気がした。あちこちガタが来ているくせに胃袋と外因に対する免疫力だけは衰え知らずなようである。なにしろ金と食うものに困って2週間前の常温放置のサンドイッチを食っても何事も起らなかったような胃袋だからな。とはいえ症状が出るとしたら明日の朝とか今晩就寝中だろうからここで結果をご報告することができないのは残念である。
こんな胃袋でも貝類の毒には正しく反応するようで冷凍庫に一年間近く入れっぱなしになっていたホタテを食った時にはさすがに胃が痛くなった。偉いものだと思う。
海サンバ川の○カナと一連の○英数字は同じ径。刻印の作りもすごく似ている。縁の○などはすごく鋭く尖った感じ。これと大阪城○ホは明らかにサイズが異なる。うえにエッジも鈍い。
シ・・・42文字目 メ・・・40文字目 キ・・・38文字目。イロハの最後の方。使い切って英字? 英字もB、C、D、F、Iとはじめのほうばかり見つかっておる。
○英字は特徴的な摩耗をしている。印中央から左右にかけて摩耗していて、これはまっすぐ押すのが難しいからだろう。小口面が体の正面に縦にある状態で小口に印を押すと印の上下を平行にすることは見ずに感覚的にできるが、それが右や左に傾いているかどうかまではわからない。やってみるといい。印を寝かしすぎたり立てたりする。その打刻の繰り返しで印の右左が先に摩耗する。
○ホと”B"添印とが同じ大きさなのは、5分というキリの良さによる普遍性もあるだろうが。その前に”B”添印が「た」くさいのが気になる。同じセットで検出したのは「タ」だった。「タ」か「た」という共通性は偶然かどうか。識別印なら他のがあっていいし(それが○ホであったりするかも知れないが)。
瀬田の田中煉瓦の存在。工場通覧ではさほど頻繁には出て来ないが工場主田中宇兵衛(卯兵衛)は京都煉瓦製造の社長であった。京都煉瓦製造はM28~31、それが廃業した頃大萱田中煉瓦を興している(@滋賀県統計書M32。その時にはM14~17創業といってる。これはもしや逢坂山トンネル工場と関係が?)。ふむ。宇治火薬製造所はM28頃だから○カナを京都煉瓦製造と推定してみてはどうか。その京都煉瓦製造が解散したあと大萱で製造を続け、それが○タ○たをなんとなーく使ってM33の瀬田川橋梁複線化に供給(草津-膳所間複線化はM33.6.7.)。その余りを自分はみているという可能性。初代はたぶん湖東組。その余りが前河原でビビビ。大阪京都間は堺の影響力大だし逢坂山越えが大変。料金もかかるんじゃねえか。
○カナを京都煉瓦製造と見れば大阪でめったに見ないのもわかる。宇治は当然近い。三高に煉瓦提供。京都煉瓦製造業組合。あと例の公文書。大阪城も陸軍関係と見れば。
見つけたものが多い上に、それぞれがあてはまるべき場所があって、なんかもうすごいことになってきた。残るは○英字・カナセットだがこいつはちょっと散ってる範囲が広すぎて困る。近江にgradA=0を求めれば半場川は中京工事の最東端でそこまでの線路はできている。直江津線も長浜陸揚げ敦賀へ送って船送でいい。もちろん中京のどこかでも構わないが、中京から湖東線の各現場に送るのは手間だ(湖東線ができあがってないから)。長浜から最寄りの港と考えられなくもないけれどだったら湖東組に任せりゃいいじゃん。結局のところこれも湖東組の所為にしてしまえたら非常にすっきりするのであるがしかし近江八幡市街では見なかったのだよ数年前の話だけれど。天竜川へ豊田町方面から向かってしまったことがつくづく悔やまれる悔やまれる。