nagajisの日不定記。
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ふと長年の疑問を思い出す。近代化遺産・産業遺産という概念の発祥の地であるイギリスには「放置保存」あるいは「残置保存」とでも訳すべき考え方があるらしい(「土木遺産の見方しらべ方」だったと思う。うろ覚え)。修復をすることもなく、あからさまな保存もせずに遺構を残すことのようなのだが、単に放置しているのとどう違うのか? それによって何が残せるのか? 思想的拠り所としてもうちょっと詳しく解説してくれる何かがほしい。
こんなことを考えるのも、廃道遺構のあり方として「放置」がいちばんしっくり来るように思うためだ。半ば自然に任せた、手を加えない廃な姿こそ廃道の魅力。そこを切り開いて進む(というのは大袈裟かも知れないが、そういう気分を味わえる場所として楽しめるという)楽しさが魅力。モノとして価値のあるものは補修するなり遊歩道整備するなりして代々伝えていってほしいが、全部が全部そうなるとつまらないようにも思う。
鎌倉の切り通しにスプレーで落書き、というニュースを教えてもらった。割れ窓理論的ネットイナゴ的な見地からリンクはしない。屋久島は屋久島で保護地域の屋久杉にペイントされたのが見つかったという。北上山地のブナが切り刻まれた件も記憶に新しい。保存されたものでさえこうなる世の中なのだから、そしてそれは人が活きている以上ゼロにはできないことなのだから、もっと何か、嘆き悲しむ以外のことができないかと思う。ネットで騒ぐことは簡単で、時にそれが現実世界へ侵攻することもあるけれども、それで全日本人の道徳感情を惹起させるようなことは決してできない。興味のない人々に対し、我々はあまりに非力である。
案内看板は石に刻むべきだと思う。もしくは防錆を施した銅板か何か。そうして道は放置する。百年先、二百年先でも石が案内してくれるだろう。スペースがなければQRコードを彫るのでもいい。何百年かのちobsoleteになっていたとしても、仕様書がある限りは復原できるだろうし。
「記録すること」と「検索可能なこと」がワンセットで普及した今日、歴史はどのように伝わっていくのだろう。昔であれば口頭伝授でやっていたようなことが、(それ単体では)劣化しないデジタルデータで記録されるようになって、その時代の細々としたことが精密に厳格に伝わっていくのだろうか。それとも大量の情報に埋もれてかえって見い出しにくくなり、人も不感的になるだろうか。
今の個人的な感覚では後者のような気がする。誰もが歴史づくりに参加できる一方、記録された歴史の正確性は誰も保証してくれない。一部を切取って「驚愕の真実!」てな具合に見せつけてくる輩が増えるような気もする(これは自戒を込めて)。
鉄道マニアの世界のようになるのかも知れない。鉄道マニアには明確なカテゴリがあって、個々のカテゴリには詳しい者はいても、俯瞰的に詳しい人はごく少ないと聞いた。鉄道はもともと国の施策だからか綿密に記録されてきて、情報の蓄積はあるから、情報源に当たろうと思えば当たれないことはない。裏付けのしようは幾らでもある。掘り下げるなら幾らでもできる。だからかえって、全体像を把握しにくい。鍬の刃のようなイメージ。道路法という法拠はあっても実際にはテキトーに作られてきた「道」には情報源としての拠り所が少なく、あいまいなことが多い。(廃)道とはちょっと違う世界だとつねづね思う。自分の調べ方がよくないだけかも知れないが。
拠り所がないなら作ってしまえ、という考え方もできる。しかしそこまで徹底した文献渉猟をやっているわけではない。実際いつだって行き当たりばったり、歴史家にも小説家にも届かない中途半端なところでもがいている。万が一やり方を真似ようという方がいたら眉に唾してよく咀嚼してから飲み込んでほしいと思う。問わず語り。
基礎がないのが何よりつらい。科学における論文のような、困った時に拠れるものが史誌の類いしかなく、それは誰にでも参照できることで、しかもそのために要約されている。人々がどうやって石を積んだのか、その積み方は何に由来するものなのか、なぜこの路線に決まったのか、あの谷を避けた理由は、そういう書かれていない細々が知りたいのに。無茶な話だろうか。それこそ考古学的なアプローチをするしかない。そうしてそのアプローチに使う乗り物も武器も貧相だ。チャリンコチャリチャリ漕いでいってては間に合わないし、大木を切るのにナタは使えない。取ってきたものにnagajisバイアスが掛っているrという罠も潜んでいる。
廃道探索は考古学であり民俗学であるという説。「キター!」だけでは真の答えにならないという魅力も含めて。
生きる糧として割り切れないのが最大の敗因かも知れない。誰も高尚な理論や理想を求めてはいないのだ。今の刹那の充足とネタの泉があればよいのだ。ネットにはそういうものを求めるべきで、そういう作りであるべきなのかも知れない。という自虐的意見を述べる場であるべきかも知れない。
述べる場とチョベリバって似てるよね。
チョベリバとリボルバーより似てる。
チョベリバとチマチョゴリもちょっと似てる。
入れ替えるとバリベチョ。やなカンジ。
クベリバ[名・俗]・・・竃の焚き口。おくどさんの別名。へっついでも可。北陸地方ではひょっとこを埋めておく習わしがある。