nagajisの日不定記。
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32号まで。おそらくこのままでは役に立たない。KVMで取り出してほげふがせんとあかん。50号通してみられないと意味がない。
・号の区別>トップ画像で代用する。
・ルートは?
・説明は入れる暇がないと思う。
マップからマップへのコピーみたいなのは出来ないんだな・・・。ちょっと不便だ。
誘いを受けて行って来た(写真の人物は無関係なとおりすがりの人である)。これという見所はないにも関わらず人が多かった。見所がない=つまらなかったと短絡してもらっては困るし、そういう前置きをする所につまらなさを感じたのだろうと勘ぐられる可能性を考慮したうえでやはり見所がないとしか評しようがない催しだったのだが、いろいろなことを考えさせられ、記憶に残った。funnyではなくinterestingともやや違う、しかし根源的な発見と納得とをした。
奈良盆地はいつ訪れても茫洋とした感じがする。そのまっただ中で行なわれている1300年祭りはさらに輪をかけて茫洋としていて、その茫洋とした感覚に身を委ねて歩き回ったことでさらに呆とした。例えば等伯展の松林図の如きカタルシスを齎すものはない。伯母谷全景も谷坂隧道竣工記念写真帖もない。広い広いそして広い平城宮跡の中をてくてくと歩いて回るだけの催し−−−奈良貴族の格好をするとか遺跡発掘体験をするとかの「参加」をすればまた違ったふうに感じただろうが−−−に行ってきたという事実だけが残っていて、それが全てである。
マーケティングとして考えた時、そういうのもありなのかも知れないと思う。本質は傍らに置いておいて、二次三次の何かで人を呼び儲けるしかないご時世なのかも知れないし、元々人はその程度を求めているのかも知れない。ORJも然り。幾ら高尚な理念を掲げようと要らない人には要らないものだ。多くの人々は一瞬の喉の乾きを潤すことができればそれでいいのだろうし、それすら出来ない(してあげられない)nagajisは無駄である。
それにしても人が多かった。呆れるほど人が多かった。そして思った。つかみ所があるようでない、漠然とした奈良である故に人はつかみ所を求め、理解のキーワードとして「遷都1300年」を求め、奈良を知るよすがとして「せんと君」を求め、1300年祭に向かうのかも知れない。私もそのクチだった。しかし漠然としただだっ広い世界に身を置いてその目論見が甘かったことを悟った。いつまでも解らない奈良であり続けている。おそらく参加者の8割はせんと君しか思い出に残らないだろう。そういえば奈良シルクロード博もものすごい入りだったと聞く。
奈良町散歩も興味深かった。知らない街を歩いて迷子になるのが好きだ。そういう時に街を知り案内してくれる人のいることの、何と有り難いことか。そしてその対価的な何かを何一つしてあげられないnagajisの、何と情けないことか。そういう後悔をしている暇があったら改善しろ>nagajis。と思いながら春日大社界隈を歩いた。
人を恋う状況は簡単に作り出せるが、それを表現すること、および現実に即して振る舞うことはとても難しいと思う。
だから言ったではないですか…。孤独を歩め悪をなさず、求めるところは少なく、林の中の像のように。パヲン…