nagajisの日不定記。
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最初に難波新川,次いで高津入堀~戎川,JR架道橋×2,飛んで南海高野線架道橋,再び飛んで木津川駅周辺から鼬川.鉄道橋以外は埋め立てられた川ばかりなので見所なしの津守だったが琴江橋の高欄?親柱?を発見したほか鉄道橋2本の残存を確認.直接は関係ないが鼬川橋梁や夷川橋梁,十三間堀川の橋梁なんかが残ってて面白かった.煉瓦刻印×4もゲット.
勘助橋の碑を見逃した・・・鴎公園ちゃんと通ったのに~.
現地に到達して初めて,恵美須町のあの交差点が名呉橋だったことに気がついた.そういやあのへん地図見て行ったことがない.他との位置関係がいまいちわかってない.一帯の狭い区域の中だけやたらと土地勘があって,それ以外がちっともさっぱりだ.
名呉橋は都計事業新築橋梁の最初の成果.鋼鈑桁・大村技師設計.橋の上に植え込みが設けられていた.夷川があまりに汚いので少しでも景観を良くしようという配慮から.今でこそよく見る設えだが大正13年ちう時代にそれをやったのは(理由も含めて)いろいろイカしてる.
大阪市土木部の名誉のために補足しておく.大正15年に積極的な河川浄化を行うことが決まり,堂島可動堰や土佐堀川可動堰を始めとする一連の枝川堰が作られた.全国的にも例を見ないシステマチックな河川浄化堰群だ.昭和4年の完成後は絶大な威力を発揮して,水流が以前の二倍に達した所もあるという.あまりに勢いが良くなりすぎて護岸工事が必要になったのはご愛嬌ということで.
つい昨日のこと.阪急岡町駅西側の住宅地に古い煉瓦を使った排水渠があって,煉瓦刻印の宝庫になっていることを知った.明治43年に阪急が開通した時,沿線に住宅分譲地を設けてセットで売り出したことで有名だが,その一つが岡町駅の西側にあったのだ.そうして路地の排水渠に煉瓦と陶管を組み合わせたものが用いられているという.長年岡町に住んでいるけれどもちっとも知らなかった.
というわけで本日のこのこ出かけていった.現地はこんな感じ.どこにでもありそうな道路脇の溝で,大半はコンクリートで塗り込められていたり作り直されていたりするが,所々煉瓦が顔を覗かせているところがある.
溝の底には陶管を半割にしたようなものが敷かれている.この溝のために作られた特注品らしい.
んで,お目当ての煉瓦刻印は・・・.あるわあるわ,大阪の煉瓦会社のが全部あるんじゃないかというくらいに大量に.小一時間ほどかけて撮影して回った.
大阪窯業.写真の煉瓦には「改」「井」の副印(といま勝手に命名.責任印という言い方をよくする)がある.副印のバリエーションは豊富で採取し切れなかった.
こっちのほうがきれいかな.
小さな六稜星の刻印.大阪市浪速区津守にあった津守煉瓦のもの?という説あり.初めて見た!大量にあった!
太ましい×印の岸和田煉瓦.同じ太×印でもサイズの大小があるようだ.写真は大型のもので「二」?の副印が二つ.
小型の鮮明なバージョン.
貝塚煉瓦と思われる井桁.今まで見たことのあるやつはもっと細かった気がする.なんだか住友のマークみたいだ.(追記:貝塚煉瓦じゃなくて和泉煉瓦のはず。貝塚煉瓦はM39に大阪窯業に合併されたので岡町分譲地が作られた頃には存在しなかった)
鈴カステラ,もしくはカービィ風の日本煉瓦.中に「ハ」が入ったものもあるそうだが見つけられなかった.写真のものには「一」が入ってる(ということは「八」だろうか?)
けいがまえ(「冂」)のように見える刻印.なのかどうか若干心許ないが,同じものが2,3個あったのでそうだろうと思う.接写するととめはねがあるのがわかる.
分譲地の経営は小林十一三と竹中工務店が設立した岡町住宅経営株式会社が行なったそうだから,ひょっとしたら「岡」の省略だったりして?と妄想してみた.多分違う.自前で作って供給したならもっと大量にあるはず.
一見ただの傷に見えるが,全く同じものが幾つもあって,線刻ではなく判で押したことがわかる印.同じ刻印のものが一所に集まって存在している傾向にあるのが面白い.
ここまでくると刻印と呼べないかも知れない・・・.釘を押し付けただけのもの.しかし同じ釘の跡がある煉瓦が並んで数個あったりする.
さらに単純化されて線だけになったもの.生煉瓦を滑らせたときにできる傷ではないようだ(V字型についてる).ひょっとしたら釘の跡×2なのかも.
単純な引っかき印.縦長いバツ印.
ぜひとも見たかった旭日印の刻印は,その一角が新規造成されて失われてしまっていた.残念.