トップ «前の日記(2013-02-28) 最新 次の日記(2013-03-02)» 編集
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|04|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | NDL | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

2013-03-01 [長年日記]

[ORJ] 柱本with長い猫T締め切ります

追加で欲しい方,お急ぎ下さい.ってこんな所に加来なってか.

[近遺調] むう

画像の説明 飛び込みアポイントの時はそれなりの感触だったけれども,後にTELして相談しようとした段階で調査を断られた.仕方ないことかも知れぬ.今更来んな,構うなっていう気持ちはよくわかる.よくわかるがしかし,それで途切れる歴史の連綿はどうしたらいいのか.自分はいま後者を守らなければならない立場にあるのだが,そこに立脚して強く出るほどの強固な信念を持ち合わせていないらしい.強くお願いすることもできず,そういう感じのこと思い知らされ,勝手に悄気ている.こういうのがあるから工場関係の調査は難しく,調査票もなかなか上がって来ないのだろう.

S2.2.創業.白木綿の製造>昭和15年にはガーゼを製造>現在は蚊帳生地を織る.紡績関係でこの規模の煉瓦積みの煙突が残っているのは県下で唯一だろうと思われる(酒造会社では時折見かけるけれども).地元の方々がいたく気に入っていて,草取りをしたりもしているというから,地元の宝として余生を過ごせばそれでいいのかも知れぬ.

大和水銀もそうだったな.戦前県下で全国規模で名を知られた鉱山はここくらいしかなく,抑えておきたい物件だったにも関わらず,調査を断られた.まあ……調査を受けたからといってお金貰えたり直ちに文化財になったりはしない.調査される側は痛くもない腹を探られるばかりなのだ.今の段階じゃ.

説明のしかたがよくないのだろうか? ナニを調べているのかではなく,何のために調べているのかを第一義に伝える必要があるのかも知れない.近代史の生き証人が腐って無くなってしまう前に記録しておきたい.過去と現在の狭間を埋めたい.そういう感じのことを最初に強く言う必要があるのかも知れず.言ったとしても変わらないような気もするけれども.

近代化遺産の調査を始めるのが余りにも遅すぎたのだ.物件がまだ活気を持って働いている頃から始めていれば,調べられる側もまだ少しは協力し甲斐があっただろう.屈託なく自社の自慢をできたことだろう.代が変わっていろいろが忘れられ,それができなくなって初めて調査の必要が痛感されたから近代化遺産調査が始まったのかも知れないが.あー.

もう一つ「無秩序な保存」がよいのかどうかという問題もある.古ければいいってものじゃない.モノやモノの所有者には新しくなる権利がある.取り壊して発展する権利がある.全部が全部を残そうとすれば,この狭い国土だ,すぐに手狭になってしまうだろう.該物件が本当にいいものかどうかは,現段階では正直わからない.たーだの煙突でしたテヘッで終わってしまう可能性も大分あるのだ.

うむ,だから土木遺産は楽で,敷居が低いのか.基本的にアポなしで行けるものな.見つけられるか否か,気づけるかどうかだけだ.

[奇妙なポテンシャル] #307

画像の説明そうはいうけれども・・・

画像の説明無理なんじゃね?

[道路元標][近遺調] 南生駒村道路元標

迷惑にも医院さんに電話して聞いてみた.医院長さんがご対応してくださり,以下のような話を聞かせてくださった.曰く今から20年ほど前,歴史研究家と称する人(個人か団体かはわからない)が回収していったという.どこかに移設されているとばかり思っていたが,そうじゃないみたいだねと.医院が移転したのは今から6年ほど前のことで,その時にはすでに現地にはなかった.ちなみに元は小瀬橋歩道橋部のたもとに建っていたが,その工事の時に折られて倒されたのだそうだ.

少なくとも現地に埋まっているわけではなく,地表のどこかに残されている可能性が出てきたわけで,光明といえば光明なのだが……それにしても20年前とは.その頃生駒の辺りで歴史研究をしていた人って,どうやって探したらいいのだろう.「生駒 歴史研究家」で検索して得られるような答えじゃないことはやる前からわかる.恐らく教育委員会さんもあてにできない.激しく入れ替わっているだろうしな.

医院長さん曰く,「歴史的に貴重なものだから,行き先が追求できるといいね」.そういう温かいお言葉を頂けただけでも感謝.

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]
_ 飯盒 (2013-03-01 13:58)

ここみて思い出す方もいらっしゃると思うんで、ありなんとちゃいますか?<br>私もさうでしたし。

_ nagajis (2013-03-01 18:45)

あ,お役に立てましたか? 感謝です!


トップ «前の日記(2013-02-28) 最新 次の日記(2013-03-02)» 編集