nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
覚書のメモは前日に書くとトップがすっきりする.
近デジでへろへろバラバラ辿っておいた大阪近辺の煉瓦工場・耐火煉瓦工場。そろそろ収拾がつかなくなる頃なので整理しようと思い立った。今までのメモを再確認してざっくり一覧にしたのが昨日のデータ。例によって可読性は考慮していない(あとで検索するためのものなので)。
大阪にかつて存在した煉瓦工場については泉南市埋蔵文化財センター紀要によいまとめがあるのだけれども、成果に頼ってばかりじゃどうかと思うし、耐火煉瓦の工場が抜けている。一度この目で確認してみたくもあった。結果、
ことを学んだ.やって無駄なことはないのである。今回は特にそう感じた。 商工録は昭和10年以降のもチェックしておくべきだな。それから大阪府下商工業者一覧(だったか)も。
商標大全が役に立たないのは、後半になるにつれて「商標ゴロ」的な登録というか「商標だけ登録」というかな例がずいぶん多くなってくるからだ。仁丹や明治屋が土木材料なわけがないだろ。会社が登録したものは(恐らく製品になっただろーから)リストに加える価値があるかも知れないが、実在/非実在を確認できていないし、それを煉瓦に刻印したとも限らない。製々舎とか三石耐火煉瓦とか実例があるものはいいんだけどな。そうそう、登録前にもその徽章を使っていた可能性は高いので(製々舎のはハンター邸の暖炉に使われていた)必ずしも商標登録年が製造年の目安になるわけでもない。岸和田の×印だって明治30年代だったかに登録されている。
会社によって煉瓦サイズを作り分けていた可能性。大阪窯業は東京型とわざわざ明記している年度がある。その時津守煉瓦は東京型及並型だった。
高砂の煉瓦工場は高砂線と関係があるのだろか。開通の2、3年後にどかっと生まれている感じがする。鉄道建設のために直営で作られた窯を払い下げてもらって起業したんだろか。大和煉瓦も小島煉瓦もそんな感じだ。
残念ながら思ったほど有益なものではなかった・・・(偉そうな).煉瓦会社と刻印のマッチングがビシバシ決まってくれるもんだとばかり思っていたのだが、そのへんはいかにも学術学会誌らしく慎重だ。堺煉瓦さえ推定にされてる。確かに「煉瓦刻印集成」は根拠を示してないけれども。
「煉瓦の製造年を推定する」ことに主眼が置かれている感じ。その煉瓦が明治初期なのか後期なのかみたいな。そのへんも考古学的かも知れない。刻印だってそれだけじゃ判断基準にならないものなー。そもそも会社がわかったとことで何になるわけでもないか。
堺煉瓦については18日に送り込んだ「大日本商工録」のいちばん古いやつにもちゃんと出ている.ついでに日本窯業のも裏が取れた>商工録.目次もない全1000ページの中から大阪府の煉瓦製造業を探し出すのは大変だったがその分収穫はあったのだった。できればこれを全都道府県やってみたいものだがなかなか泣けることになるだろう。そうしてどの都道府県にもあるとは限らない。試しに栃木県を見たがシモレンすら出てこなかった(大正末期には衰退してたっけか?)。
煉瓦の平の面に筋が入ることはうすうす気づいていたけれども,改めて指摘されると確かに特有の特徴なのかも知れない。どうしてあの型がつくのか考えながら梅田地下街を歩いてみたが答えは出なかった。表面を整える板の取手がぶつかるんかなあと思ったりしたが。あと長手の面に弓状痕が出ることや,焼くときの井桁の組み方で違う型がつくことなどはさすが考古学的考察だと思った.それが即メーカーと繋がるものかどうかはわからない(c.f.近江八幡のホフマン窯)
奈良県には大阪窯業や岸和田煉瓦も分布しているらしい。しかし自分の感触では非常に少ないように思う。入っていないはずはないので nagajisが見てるところがおかしのだろう。なお大和煉瓦の刻印と同じものを、淡路島津名郡の煉瓦製造所が屋号に使ってた。まさか混じることはないだろうがメモしておく。あと以前大全で拾ってきたやつは修正する必要があるした。
ロングソックスを入手しにゆくついでに、伊丹煉瓦製造所があったという大鹿(おおじか)へ行ってみた。現地に行くと旧西国街道の説明看板が多数あり、煉瓦壁を発見したり古めの煉瓦が転がっているのを見かけたりもしたけれども、松葉菱にイの刻印は見つけられなかった。伊丹だからイっていうのは短絡的過ぎたかも知れない。ヤマサだってサに山印なのだからな。
煉瓦壁が残っていたのは大鹿1丁目で、そこを中心とする一帯に煉瓦転石や縁石がよく見られた気がする。この辺りには新しい煉瓦を使った花壇なんかも目につく。それはちょうど、岡町住宅地で新煉瓦を使ったポーチや門柱をよく見るのと同じ感じだ。古くから煉瓦の建物(煉瓦製構造物、煉瓦製造所)があったところはどこもそうなのかも知れない。触発されて煉瓦を使う気になったものの、参考にした煉瓦構造物がなくなってしまって新煉瓦構造物ばかりが残っているという。
この間西九条を歩いた時も特に煉瓦が多かった。ここには刻印入りの煉瓦も多い。長屋の勝手道に入り込むとそこここに刻印煉瓦がある。構造物としてよりも、植木鉢の土台だとか敷石縁石転石だとかに多かったような。そういう煉瓦のほうがひっくり返して確認できていい。