nagajisの日不定記。
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ワケワカラン♪
別所村の煉瓦工場の変遷がはっきりしない。中播煉瓦別所工場の支配人・田中卯之松は大正煉瓦の取締役もやっているので、それだけだと中播別所工場→大正煉瓦別所工場と想像されるのだが、2つの工場が並んで載っている資料があるため別モノだと捉えなければならぬ。その後起こる播陽窯業の役員とは共通項が見いだせない。そのうえ別所窯業とかいう工場がT9頃に出現する(諸会社銀行一覧には出てこない)。最後の1つは播陽窯業の誤記だと見れないこともないのだが。
中播、播陽は播煉合同と関係が深いが、大正煉瓦は播煉合同と接点を持たない。上記の田中が唯一の接点。この2大会社+個人工場群という構図か。もうちょっと細かく切れば
(大)播州煉瓦合同(中播+山陽中筋工場+播陽)+伊藤窯業 (大) 大正煉瓦+関野工場 (中)播磨煉瓦→原田工場→弘栄煉瓦 (中)和田煉瓦
てな感じか。とはいっても印南郡も煉瓦業組合を結成したらしいから啀み合う感じではなかったろうと思う。地域で分かれていたわけでもないようだし。
堺煉瓦社長・太田貞雄は南海紡織の専務取締役に。堺煉瓦本工場の跡地は長崎紡績になっているが、長崎紡績の社長は肥塚源治郎で、肥塚が南海紡織の社長だった。長続きしなかったみたいだけど>南海紡織。よって狭山村の堺煉瓦分工場>南海紡織煉瓦部ちうことらしい。
同じ頃百舌鳥村に南海鉄道の煉瓦工場が存在。南海鉄道と南海紡織はたぶん無関係。
帯解の広大池のほとり(東岸)には大和煉瓦の工場があって、以前見に行ったことがあるのだが、池の対岸(西岸)にも煉瓦工場があったという。西村氏の個人工場で本業は瓦製造業だったらしい。ただし煉瓦造りも年期は古く、明治44年頃から行なってたことになっている(恐らく大和煉瓦の影響だろう)。そうして○に末という屋号を持っていた(大日本商工録昭和6年版)。煉瓦にもその刻印を押したりしたのだろうか。
広大池の西側に広がる住宅街を北から撮影。この住宅地、結構こまごまと歩き回り、 納屋の前に角丸の異形煉瓦や手成形煉瓦が10個ほど積み上げられているのを目撃したりしたものの、刻印煉瓦は未検出に終わった。大和煉瓦も出てこなかった。まあ……大和煉瓦だってずっと「^ト」を使ってたわけじゃないみたいたしな(工場跡地で無刻印の焼損煉瓦を発見している)。
在所が果てるところの畑で、やっと痕跡に遭遇した。見事に(?)爆裂した焼損煉瓦だ。さすがにこれは重石以外に使い道がないだろう。その昔、鐘が坂隧道の北口でこんな煉瓦を拾ったことがあったので、ちょっと懐かしく思えたりもした (今は手元にない。然るべきところに然るべき資料として差し上げている)。
念のため裏表確認してみたが、刻印は押されていない模様。同じような爆裂煉瓦がもう一個あって、それも確認してみたが、ないものはないのだ。しかしどちらも爆裂面の反対側が同じように凹んでいた。これほどあからさまに炸裂すると反対側が凹むものなのだなあ、と感心したことだった。なおこの煉瓦は東京型。たぶん。
大正9年から戦後少々まで操業した煉瓦工場。県下では大和煉瓦、西村工場、小島煉瓦、吉野煉瓦に次いで古い。大正期からやってたということは刻印を使用してたんじゃないか。そう思って奈良歩きの最後に足を運んだ。
戦後の『工場通覧』にある地番を尋ねていくと、現在県営住宅になっている一角が該当する場所らしかった。広い敷地、跡地が住宅街、なんていうのは印南郡や狭山の例を連想させて期待させられたのだが……。うん、さっぱり。住宅地の中には機械成形の新しい煉瓦しかなく、その周囲の住宅街にも古煉瓦は存在せず。北を流れる地蔵院川の川辺もコンクリート護岸になっていては……。
周囲の住宅街は昭和50〜60年頃に一新されたような印象。もう1、2回り古い宅地、長屋の前に地道の通路があって、緑がわっさわっさ生えていて、古自転車やら粗大ごみやらが蔦に絡まれているようなところじゃないと、無理なようだ。
強いて成果を引き出すなら……。斎藤煉瓦では比較的早い頃に成形機械を導入してたかも知れないという仮定が立ったことくらい。手成形煉瓦が一欠片も見つからなかったというのは、機械成形が優勢だったからではないか。案外周囲で見た機械成形が斎藤煉瓦製だったかも知れない。