nagajisの日不定記。
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コピーし忘れてた。2,000いくつもあるのでftpでダウンロードしアップロードするのも能がなく何より面倒で時間がかかると思いつつnutsのメモがやっぱりメモされてなくてパスワードがすぐに出てこないためssh接続することもできず時間浪費を承知のうえでdlしたらあろうことかdlした場所がかわからなくなり結局リマインダメールからパスワードを拾ってシェシェってcpしたら一つ上で*.*してしまうという馬鹿を演じディレクトリを汚染した。くそ。くそ。ダボが。死ね。ハゲ。ボケ。
-recursiveつけてなかっただけまし。つーか最初からcp -rfT [new_directory]/*.* [old_directory]で済んだんだろがい。なおオプションはうろおぼえである。
高校時分の自分が吉里吉里人を面白く思えなかったのは、それが単純な笑いで構成された本だったからかも知れない。筒井康隆だってドタバタよりも中隊長以降のほうが好きだった。いかにも物語然としていてストーリーテリングで引き込まれるものよりも想像力が刺激され異質な空間描写であるはずなのにありありとその光景が思い浮かべられるようなやつのほうが心に残っている。「虚人たち」とか「残像に口紅を」とか「夢の木坂分岐点」とか。「吉里吉里人」はそうじゃない。王道の笑いをこれでもかこれでもかと投げつけてくる。いかにも劇調に話が展開し、しつこいくらいに笑いが仕組まれている。言い方は悪いが安いシュークリームのようなくどさがある。口が甘いものを欲しがっている時はこれ以上最適なものはないし、そうでなくても1個2個なら美味しく食べられるのだが、3つ4つと食べ続けているとだんだん食傷気味になってくる。吉本新喜劇に例えてもよい。勉強勉強で笑う余裕もなかった当時はそんな笑いを受け止められなくて、だからずいぶん飛ばし読みした。それは正しい鑑賞方法でない。笑いの間に重要なことがらがまんべんなく含まれているので飛ばし読めば読むほど重要事項が抜け落ちる。その笑いの対極にあって、笑いの存在によって引き立てられている真意の部分(ゴンタザエモン沼袋老人の演説とか)が翳ってしまう。そうじゃないのだ。この本は深く考えずにげらげら笑いながら読み続けておればよかったのだ。
夜食にどん兵衛を食おうと思い立ち、コンビニまでの夜道を歩いている道すがら、次のカレンダーのネタとして「煉瓦」を思いつき一人でゲラゲラ笑ったことだった。あれも入れられるこれも入れられる裏面日付欄には刻印入りだと思いつく連鎖の早いこと早いこと。陽子ー反陽子の対消滅の反応速度よりも早かったに違いない。何より誰も欲しがらないであろうこと明白なことが笑いのツボだ。次点で「どの写真を使うか」に頭を悩ませねばならぬところ。しかも悩んだところで煉瓦しか写ってないというバカさ加減。1年間12月めくってもめくっても煉瓦。春夏秋冬無関係に煉瓦。さも大仰そうに恭しく撮影された煉瓦が12個。壮観じゃないか。
「隧」に倣ってタイトルを1文字にすべきかどうか悩み始めたところで反応速度が頭打ちになった。ものの意味としては「瓦」のほうを取りたいのだが、そうすると屋根瓦と混同されてしまいはしないか。「煉化」の立つ瀬もなくなってしまう。となると「煉」のほうを使うべきだな。しかし「煉」だけではあの直方体を連想しにくいぞ。どうしよう。あと、ちゃんと12ヶ月分の煉瓦を用意できるかどうか。採取月で割り振っていいのだがそれは次善策だ。その月に設立された煉瓦工場の煉瓦でなければ凄みが出ない。
煉瓦建築の写真に逃げるテもないではない。そのほうが見栄えもするだろう。しかしそんな阿ったことはしたくないぞ。あくまで素の煉瓦でなければならぬぞ。素の煉瓦の写真12枚+αでなければならぬぞ。そう思った。そして近畿圏以外のことはハナから頭にない。ひどいものである。