nagajisの日不定記。
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結構頑張ったほうだと思う。
蚊と闘いながら頑張ってこの写真を撮った。
蚊と闘いながら頑張ってこの写真を撮った。
蚊と闘いながら(略)。ほんと今日は蚊ばかり。出掛けに長袖を持っていくのを見送ったのが裏目に出て、しかし今日の暑さでは長袖は耐えられなかったかも知れぬ。
まずは芝山トンネルを再訪。煉瓦サイズを測定するつもりがメジャーを忘れてきてしまったことに現地で気づいた。馬鹿である。遣る瀬無い気持ちの遣る瀬を探して周辺をしつこく探った末、坑門側面の帯石の裏に若井煉瓦刻印を発見した。なんと、アルファベット刻印煉瓦だけではなかったのだ! 確かに建造時期的には若井が混じっていてもおかしくはないのであるが全くノーマークであった。重要な知見である。
幅15cmくらいしかない隙間にスマホ突っ込んでライトで照らしながら何とかかんとか撮影したのが1枚めの写真である。
続いて大輪田で青山商会分工場の痕跡を探す。大輪田の北半分は水田と畑。しかし大阪鉄道に供給することを考えればここに窯があるのがベスト、と考えてあちこち歩き回ってみたが、そこに煉瓦を見ることはほとんどなかった。あっても無刻印の新し目のだったり耐火煉瓦だったりした。
続いて大輪田の街なかを歩き回る。はじめは何故か菱Sばかりで「???」だったのだが、在所の核心部分において探していたそれそのものを検出する。アルファベット刻印煉瓦である。「E」が2つ、「X」と思われるのが1つ(2枚めと上写真)。付近には撥型異形も多く転がっていた。ただしこれらは焼損煉瓦ではなく、モルタルがついていたりモルタルで2つくっついていたりする。建物か壁かに利用され、解体されてさらに縁石に転用されているようだった。
あるはずだと思って行った先でそのものずばりを見つけ出したことについてはカ・イ・カ・ン、だったのだけれども、何故かここでも若井の刻印煉瓦まで発見してしまう。恐ろしいことである。しかもその隣には岸和田煉瓦さえあった。
大阪鉄道に供給する目的で青山商会分が大輪田に分工場を儲けようとしていたことが新聞記事から明らかになり、それで芝山や亀の瀬で見つかっているアルファベット刻印を青山商会分工場のものと推定していたのだけれども、一緒に若井が出てきたことで何とも判断しづらいことになってしまった。現状では青山商会分工場=アルファベットはあくまで仮説でしかない。そもそも分工場が操業したという証拠もない(工場作ったので職工募集する、とは書いてあるが)。だいいち職工募集が22年初頭で、亀の瀬が完成し開業したのは25年の頭。たしか工事中に落盤事故が起こって伸び、完成後に亀裂が見つかって伸び、でこの年になったはずなんだけれども、ともかく青山商会はM22度のデータを最後に姿を消してしまうのである。M23、M24に存在したかどうか定かでく、そんな会社の分工場だけが在り続けたとは考えにくいのだ。そもそも淀川橋梁付近(M28竣工)で「R」を取得したこととも合わぬ。しかしここで若井煉瓦が後半にアルファベット刻印を使ったとせば操業時期とは合うのであった。芝山亀の瀬の建設時期に切り替わった、という可能性もないわけではないのだ。若井煉瓦はM28頃まで確かに存在していた。
大輪田のアルファベット刻印はみんな単体転石だったから、工場由来と断定するのも難しい。例えば大和川を渡る橋の橋脚とか橋台とかを解体した屑ではないという証拠はないのだ(現大和路線の橋梁はC製橋脚。巻き立ててあるだけかもしらんがなんとなく新築っぽい)。岸煉&第一煉瓦のある時期からの×刻印も同様。岸煉はM26からだがそれ以前からセントアンドリュース十字は使われておったと聞くし。
転石の撥型異形が横並びで固着していたのは注目すべきかも知れない。この接合は円形橋脚か円形煙突にしか使われぬ。前者であれば付近の煉瓦がみな異形でなければならぬ。そうでないということはM20代にこの辺りに煉瓦が持ち込まれたという証拠、と言えるだろうか。因みにこの写真、蚊に追われながらぞんざいに撮ったのだが、左の煉瓦に刻印があるようにも見える。大阪紡績もしくは四日市製紙のに似た三本線の組み合わせ。三本の重ね方が右廻りか左回りかで違う。確か大阪紡績が左回り。
肝心の窯の跡は特定できず。小字西ノ岡でお尋ねしてみたが、さすがに100と数十年も昔の話だから……。しかし西ノ岡付近で煉瓦がごろごろ転がっているようなところも掘ったら煉瓦が出てきて困るというところもないそうである。
さらに移動して木津へ。5万図「木津」の以外なところに窯記号があることを発見し、これが山城煉瓦か?と思って行ってみたのだ。現場は竹藪になった尾根で、たしかに一帯は平らに均され何かがあった雰囲気だったうえに焼損煉瓦をひとつ発見した。深く掘られた穴の側面にひっかかっていたものだ(3枚目写真)。現場にはこの他にもパン瓦的舗石的大型板状煉瓦のコンクリート漬けもあったが、これは生活ゴミである可能性も無きにしもあらず。しかしこの尾根に建っている民家の敷地壁に煉瓦が多数使われていて、なおかつそこに焼けただれた赤煉瓦が使われていたりもし、これが窯の成れの果てのごとく思われたのだった。思い切ってポンピンしてみたのだが留守らしく応答なし。ううむ。ただし赤煉瓦が爛れるほどの高温は煉瓦窯には不要のはずだから、地形図が作られた頃には一般陶器の製造をしていたのかも知れぬ。件のパン瓦的煉瓦もこの民家の庭には使われていた。
竹藪の中で煉瓦を探すのはやっぱり大変だ。朽ちた葉が全てを覆い尽くしているうえに蚊が出る。
最後に奈良に戻って東九条と西九条を探る。大輪田で多数の菱S煉瓦刻印を検出したし、上記木津の民家でも使われていたので(重心が一気に奈良よりになった結果)奈良の町外れの斎藤煉瓦の可能性が再浮上してきた。それを確かめに行ったのだ。しかしこの最後の試みはまったくの無駄足に終わった。煉瓦自体がほとんど見当たらなかったし、無刻印手成形が数個見つかっただけ、あとは最近の機械成形品である。何故だろう、大輪田ではあんなにたくさん見つかったのに……。民家の更新のサイクルが、丘陵地帯と平野部とでは異なるのだろうか。古きを重んじる地域故に屋敷づくりも煉瓦を使わぬ純日本風で更新されたのか。
総合評価は65点といったところ。得たことも多いが謎がその3割増しで増えた気がする。そうして多分その謎は晴らすことが永久にできないだろう。