nagajisの日不定記。
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秋季皇零祭なり。一時間余にて菊池に達し一一〇・一一八部隊を見学、広さ立派さなどに特に驚きたり。飛行場見学は六・七才の時なしたのみ、これにて二回なり。然し最も印象に残れるは今日なりき。内野中尉殿と一日共に遊びたり。航空士も面白からん。今さらに軍隊の厳しきことを知る。青年将校はたのもしき物〔もの〕なり。我あと七年なり。然し瞬〔誤字訂正〕く間に過ぎ〔ぐ〕るならん。
日本晴の天高く馬肥え当に秋らしき天候となりぬ。午後は十三時より約四十分間体操ありて、後に侍従武官御差遣の日の術科の予行あり。我は棒倒しのみ。其の外に、二、三年の剣術、二年の鉄棒、一年の教練あり。其の後一時半程除草す。会〃グライダーにて児玉生徒監殿は五米程上りたり。航空も気に入る。
夕食後三・四運動班会。第十二寝室は辛苦の余り劇をなす。秋里をも加う。斯かる事をなすは予初めてなり。又之を利用して心臓を強くしたり。茂し之れあらざれば外観上にても消極的に見え、いかぬものなり。定松さん(44き4がくはん)は今日、月曜以来の予等の日曜の計画を無視し予に随行すべしと。予等憤慨に絶えず。
三寒四温の烈しき熊本の気候を如何なく表わし今日は暖し。作業「六号無線き」・柔道にて愉快。天幕構築を後実施せり。力余りて物足らず。へとヽになりて足れりとなす。やるべきは今。我生れ変れるかと思う程心の中に変化を来したり。即ち一段と緊張したる事にて仕事がてきぱきとなり能率上る。短時間に多事をなす。良好。
TUKA氏岩城と旧橋にかかる。旧橋はコネタ集第一弾。3つほど一挙掲載だが恩恵を受ける人はまずいない。ひどいものだと思う。
入金処理のアレ、えらいところを間違えてた。修正。こんどからちゃんとお名前入ります・・・。
自分で作っておいて不便極まりなかったCGI、不便を忍びつつ利用し続けてきたのを一気に修正する。伝言機能もつけてみた。使うかどうかはわからないが。受付に伝言させる位なら自分でメール送れよというツッコミ大歓迎。
the-orjで使っているCGIは掲示板とここを除いてすべて手製だ。場当たり的に作っては改造してを繰り返しているので、しばらくぶりに弄ると自分自身読めないことが多々ある。コメントを入れるほどマメじゃないしな。そのかわりよほどトリッキーなことはしていないはずだから(そういうところはコメント入れてる。後の自分のために)じっくり読めばわからんことはないだろう。
http://www.the-orj.org/search/search.php
タイトルとダウンロードページのAbst.から検索可能。テスト中なのでand/orもない。単に全データにpreg_matchしてるだけ、かつ全探索なので超非効率。grepくらい使え>nagajis
原理的にはnamazu.cgiの出力をfileで取り込んで加工することは可能。しかしnamazuの精度がいまいち良くない。「廃道を読む」で検索するとなぜか醍醐林道が2番目に出てくる。困ったものだ。
原稿を作成中。ざっくり書いて60%。要所はこれでいいと思う。今月中には仕上げたい。要チェック出し出し名。
流れ的に言うとここで城嶺橋を入れておきたいところだが、どうしようか。調子に乗って大放出すると冬を越せないかも知れない。などとケチ臭いことを考えてみたりもする。小天才の業績をよく理解していないしな...そもそもどこから出てきたのだろう>小天才
岩城4:地形図を買って来なければ(要取り寄せ)。手元にあるのは確か前号で範囲が尽きたはずだ。
廢毒:ネタ考えておくこと。
田辺の天津神川(天神川?)。田辺市へ問い合わせ。
何故廃。片付けてしまえ。
各所問い合わせ。今のうちに。あ、図書館へ行くの忘れてた・・・
わが愛しの川上村に。
こんなものが。
あることを。
発見してwktk。というより鼻血ブー。むしろ昇天。しかも未探索支線がある。
いつ作られたのか? 誰が、何のために? 何が通った? あらゆるものが謎な一筋。紅葉の頃に再訪するのだするのだ。
masaさん辰さんお世話になりました。予定の箇所は案外だったけど・・・masaさんのお陰で上記の発見あり。いや、道自体はソコにあること知ってたんですよ・・・でもフツーの車道林道廃道だと思ってたンですよ・・・(負け惜しみ
連休前にいただいていたご指摘を修正。東熊野街道あちこち間違えてんな。そのついでにトップページのHEADLINEの出し方を修正してみる。最初から表示させておいてonLoadで消すように(ロードが完了して表示させてた前式ではその前に遷移しちゃいがちで見えない)。うまく行っているだろうか。
BeOSとBTRONのデュアルブートでツインビー、というネタ的構成を復活させようと試みるもBeがうまく起動してくれない。こいつはちょっと工夫しなければなるまい。フロッピー探して粉。
あと、残念ながらETHERが超漢字に対応してないっぽい。んなことない?
焼ける感興が実稼働する前にポシャってしまって大変だ・・・統合版だけで5枚費やした。明日発送しますのでしばしお待ちを。
ほんともう、統合版を廃止したい。いいことなんて何にもないんだ。ただデカイだけでどうしょうもないウドだ。文句がなければ次号から無くしちゃる。
主張したいことはないのだが文句はある。上の階が土日のたびに彼女を連れ込んで夜中じゅうXXXするのは何とかしてほしい。ぐっすり休んで朝から原稿を進めたい、というか進めなければならないような時に限って聞きたくもない喘ぎ声を聞かされ苛苛されられる。ここ一年ばかりそんな土日を繰り返している気がする。お蔭で早朝出発を断念したこともあった。重な土日の休息時間を返確保させてほしい。特にこの先2ヶ月間は。
これだったら寮の二段ベッドのほうが数百倍ましだ・・・って寮の方はこれっぽっちも文句のない環境なのだけれどな。ネットさえ使えればこの色アパートに帰る必要などないのだ。
ポン橋の果て、大国町駅の辺りから堺筋線に沿って北上している時にビルの狭間に煉瓦壁の痕跡を発見した。調べてみるとタイトルの刻印煉瓦が出てきた。大阪煉瓦は重ね打ちされ不明瞭極まりなく、原型を知っていなければ輪郭すら読み取れないだろうという状態。六稜星はよく見かけるので驚く発見ではなかったが、大阪煉瓦と一緒に転がっているのは若干注意が必要である。讃岐煉瓦は意外そのもの。3つが混在し得た時期はなかったわけではないがkansaibricks.pdfがいま手元になくて確認できない。
それより何より、堺筋に面した繁華なビル群の隙間で古煉瓦に遭遇するとは思っていなかった。あるところにはやはりあるのだと再認識。
こういう場面では、地下から出土するよりも、ビル解体でその基礎や背後から出てくるほうが先なのかも知れない。人知れず解体され産廃として捨てられる煉瓦が多いに違いない。
結構頑張ったほうだと思う。
蚊と闘いながら頑張ってこの写真を撮った。
蚊と闘いながら頑張ってこの写真を撮った。
蚊と闘いながら(略)。ほんと今日は蚊ばかり。出掛けに長袖を持っていくのを見送ったのが裏目に出て、しかし今日の暑さでは長袖は耐えられなかったかも知れぬ。
まずは芝山トンネルを再訪。煉瓦サイズを測定するつもりがメジャーを忘れてきてしまったことに現地で気づいた。馬鹿である。遣る瀬無い気持ちの遣る瀬を探して周辺をしつこく探った末、坑門側面の帯石の裏に若井煉瓦刻印を発見した。なんと、アルファベット刻印煉瓦だけではなかったのだ! 確かに建造時期的には若井が混じっていてもおかしくはないのであるが全くノーマークであった。重要な知見である。
幅15cmくらいしかない隙間にスマホ突っ込んでライトで照らしながら何とかかんとか撮影したのが1枚めの写真である。
続いて大輪田で青山商会分工場の痕跡を探す。大輪田の北半分は水田と畑。しかし大阪鉄道に供給することを考えればここに窯があるのがベスト、と考えてあちこち歩き回ってみたが、そこに煉瓦を見ることはほとんどなかった。あっても無刻印の新し目のだったり耐火煉瓦だったりした。
続いて大輪田の街なかを歩き回る。はじめは何故か菱Sばかりで「???」だったのだが、在所の核心部分において探していたそれそのものを検出する。アルファベット刻印煉瓦である。「E」が2つ、「X」と思われるのが1つ(2枚めと上写真)。付近には撥型異形も多く転がっていた。ただしこれらは焼損煉瓦ではなく、モルタルがついていたりモルタルで2つくっついていたりする。建物か壁かに利用され、解体されてさらに縁石に転用されているようだった。
あるはずだと思って行った先でそのものずばりを見つけ出したことについてはカ・イ・カ・ン、だったのだけれども、何故かここでも若井の刻印煉瓦まで発見してしまう。恐ろしいことである。しかもその隣には岸和田煉瓦さえあった。
大阪鉄道に供給する目的で青山商会分が大輪田に分工場を儲けようとしていたことが新聞記事から明らかになり、それで芝山や亀の瀬で見つかっているアルファベット刻印を青山商会分工場のものと推定していたのだけれども、一緒に若井が出てきたことで何とも判断しづらいことになってしまった。現状では青山商会分工場=アルファベットはあくまで仮説でしかない。そもそも分工場が操業したという証拠もない(工場作ったので職工募集する、とは書いてあるが)。だいいち職工募集が22年初頭で、亀の瀬が完成し開業したのは25年の頭。たしか工事中に落盤事故が起こって伸び、完成後に亀裂が見つかって伸び、でこの年になったはずなんだけれども、ともかく青山商会はM22度のデータを最後に姿を消してしまうのである。M23、M24に存在したかどうか定かでく、そんな会社の分工場だけが在り続けたとは考えにくいのだ。そもそも淀川橋梁付近(M28竣工)で「R」を取得したこととも合わぬ。しかしここで若井煉瓦が後半にアルファベット刻印を使ったとせば操業時期とは合うのであった。芝山亀の瀬の建設時期に切り替わった、という可能性もないわけではないのだ。若井煉瓦はM28頃まで確かに存在していた。
大輪田のアルファベット刻印はみんな単体転石だったから、工場由来と断定するのも難しい。例えば大和川を渡る橋の橋脚とか橋台とかを解体した屑ではないという証拠はないのだ(現大和路線の橋梁はC製橋脚。巻き立ててあるだけかもしらんがなんとなく新築っぽい)。岸煉&第一煉瓦のある時期からの×刻印も同様。岸煉はM26からだがそれ以前からセントアンドリュース十字は使われておったと聞くし。
転石の撥型異形が横並びで固着していたのは注目すべきかも知れない。この接合は円形橋脚か円形煙突にしか使われぬ。前者であれば付近の煉瓦がみな異形でなければならぬ。そうでないということはM20代にこの辺りに煉瓦が持ち込まれたという証拠、と言えるだろうか。因みにこの写真、蚊に追われながらぞんざいに撮ったのだが、左の煉瓦に刻印があるようにも見える。大阪紡績もしくは四日市製紙のに似た三本線の組み合わせ。三本の重ね方が右廻りか左回りかで違う。確か大阪紡績が左回り。
肝心の窯の跡は特定できず。小字西ノ岡でお尋ねしてみたが、さすがに100と数十年も昔の話だから……。しかし西ノ岡付近で煉瓦がごろごろ転がっているようなところも掘ったら煉瓦が出てきて困るというところもないそうである。
さらに移動して木津へ。5万図「木津」の以外なところに窯記号があることを発見し、これが山城煉瓦か?と思って行ってみたのだ。現場は竹藪になった尾根で、たしかに一帯は平らに均され何かがあった雰囲気だったうえに焼損煉瓦をひとつ発見した。深く掘られた穴の側面にひっかかっていたものだ(3枚目写真)。現場にはこの他にもパン瓦的舗石的大型板状煉瓦のコンクリート漬けもあったが、これは生活ゴミである可能性も無きにしもあらず。しかしこの尾根に建っている民家の敷地壁に煉瓦が多数使われていて、なおかつそこに焼けただれた赤煉瓦が使われていたりもし、これが窯の成れの果てのごとく思われたのだった。思い切ってポンピンしてみたのだが留守らしく応答なし。ううむ。ただし赤煉瓦が爛れるほどの高温は煉瓦窯には不要のはずだから、地形図が作られた頃には一般陶器の製造をしていたのかも知れぬ。件のパン瓦的煉瓦もこの民家の庭には使われていた。
竹藪の中で煉瓦を探すのはやっぱり大変だ。朽ちた葉が全てを覆い尽くしているうえに蚊が出る。
最後に奈良に戻って東九条と西九条を探る。大輪田で多数の菱S煉瓦刻印を検出したし、上記木津の民家でも使われていたので(重心が一気に奈良よりになった結果)奈良の町外れの斎藤煉瓦の可能性が再浮上してきた。それを確かめに行ったのだ。しかしこの最後の試みはまったくの無駄足に終わった。煉瓦自体がほとんど見当たらなかったし、無刻印手成形が数個見つかっただけ、あとは最近の機械成形品である。何故だろう、大輪田ではあんなにたくさん見つかったのに……。民家の更新のサイクルが、丘陵地帯と平野部とでは異なるのだろうか。古きを重んじる地域故に屋敷づくりも煉瓦を使わぬ純日本風で更新されたのか。
総合評価は65点といったところ。得たことも多いが謎がその3割増しで増えた気がする。そうして多分その謎は晴らすことが永久にできないだろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831418/12
農商務技師工学博士 高山甚太郎
農商務技手 関口寛一郎
寸法 凡そ煉化石の寸法一定ならざるときは其応用上不便なるのみならず縦横及び厚さの関係の如きも若干定限を超過するときはモルタルの使用上不適なるものとす今左に各国製造の煉化石の寸法を掲示して参考に供す本邦製煉化石は通常長七寸五分 二二・七「センチメートル」 巾三寸六分 一〇・九「センチメートル」及び厚さ二寸 六・一「センチメートル」 にして凡そ英国スタッフォルド シャイア形に近似するものとす然るに第二表(注:日本煉瓦製造、金町煉瓦。隅山製瓦工場、小名木川煉瓦工場、千葉煉瓦製造所、和田荘十郎工場製品・いずれも東京製)中示す如く多少の差異あるは是れ主として焼成熱度の高低如何に縁由するものとす(略)長さ二二「センチメートル」に達せざるものは所謂焼過ぎ若くは火度の充分なるものに属するものとす即ち熱度の高低如何に因り煉化石収縮の程度に於て多少の差異あるものなるが故に若し煉化石製形の際其寸法に就き適宜に増減すれば毎に一定不変の形状を有する良品を得ること敢て難きに非るべし
独国〔ドイツ〕(NormalFromat) 25.0×12.0×6.5cm 英吉利〔イギリス〕、北部 23.6×11.5×7.6cm 英吉利、南部 25.4×12.4×7.6cm 英吉利、スタッフォルドシャイア 22.9×10.9×6.5cm 墺地利〔オーストリア〕 30.0×15.0×6.7cm 仏蘭西〔フランス〕 22.0×10.6×5.4cm 白耳義〔白耳義〕 17.6×8.5×4.5cm 西班牙〔スペイン〕 28.0×14.0×5.0cm
25.0×12.0×6.5cm荷蘭〔オランダ〕 26.0×12.0×5.4cm 伊太利〔イタリア〕 30.0×15.0×5.0 瑞典〔スウェーデン〕 25.0×12.0×6.5cm 瑞西蘭〔スイス〕 25.0×12.0×6.5cm 合衆国〔アメリカ〕 20.0×10.0×5.0cm 墨其古〔メキシコ〕 26.0×13.0×6.5cm
スタッフォルド シャイアはStaffordshire(スタッフォードシャー)。イングランドの窯業都市。そしてウォートルスは・・・あれ、アイルランド出身じゃった・・・。
まあでも英吉利の中心部ではStaffordshire形が中心であったはずではある。
由良要塞の建設が大阪の煉瓦製造業に与えた影響はかなり大きかったんじゃないかと思う。松方デフレで不況/煉瓦製造業の衰微→そこからの復帰&製糸業紡績業の流行/煉瓦製造業復活のあとの不況期だった時に、特大の煉瓦需要をもたらした。それに乗っかることのできた工場が残っている気がする。岸和田煉瓦、堺煉瓦、日本煉瓦。大阪窯業も若干、ただしM30以降。若井煉瓦や漢数字・カナ刻印煉瓦も、例えば関西煉瓦とか堺附洲とかが供給せずに消えていったのに比べたらまだ長続きしとるんでないか。そうして生き残った工場がM20後半からM30代の煉瓦製造業の牽引役になっている。大阪窯業は若干乗り遅れたから東京形に傾斜したと考えられんくはない。
ともかく由良要塞の建設に使った規格が並形の基礎になったという仮説は考えたことがなかった。なので考えて検証してみなければならない。
しつこく考えている。(1)8寸×4寸×2寸という型枠を使ったとして(2)煉瓦の焼き収縮が等方的で(3)約9割に縮んだとしたら、幅と厚さは大体一致するのだが長手が長くなり過ぎる。では逆に、幅や厚さと同じ程度に焼き締まったとして、それが七寸四分前後になるような型枠長さを計算すると、8寸4分5厘という感じになる。丸め上げたら8寸5分で、なかなかキリが良い値である。目地も4分くらい取れる。8寸5分×4寸×2寸の型枠で素地を作って焼くと並形煉瓦、と。
『旧大阪府庁舎跡』発掘調査報告書から阪府授産所煉瓦の全形を保ったもののサイズを抽出して(10個ちょっと)平均をとると23.5×11.5×5.55cmとなる。なのでこれが並形の源流ではあるまい。しかしこの長手・幅って確か鐘ヶ坂の厚煉瓦と似てなかったっけ。YES、236×113×68とメモにはある。インチ臭い。
作業局形はどこから出てきたか…阪神間の煉瓦サイズなのか、それとも、東京形と並形の中間点を意図したものか。全国に鉄道を作るのなら西でも東でも同じ規格であったほうがいいだろうけど、実際問題として東西煉瓦のサイズが違うから、わざわざそのサイズを作るのではなく、両者の中間点あたりを基準サイズにして誤差許容したほうが早い。というかそもそも作業局が作業局形を定めた形跡が見つけられん。規格があったのに見つけられていないのか、規格を定めるほど定式化したものでなかった(誤差許容でなんとかやってた)のか。どっちもありそう。でも鉄道納入の煉瓦は検査が喧しかったっていう話がどっかになかったっけか・・・。
http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20170829&
第4回内国勧業博覧会に洲本の中村重次郎が出品した煉瓦のサイズは21.8×10.6×5.3cmで、まさに仏蘭西〔フランス〕22.0×10.6×5.4cmじゃ。 http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20170828&
第3回(M22)に田中村煉瓦製造所=和歌山煉瓦石が出品したやつも
20×10.5×5.2cmで仏蘭西サイズに近い。してこいつは確かに生石山砲台に使われておる!って、あんま近くないか・・・
_ 渡辺(仮) [ocnに変更してからお知らせが届く時と届かない時があるような・・ 当方からの返信も届かない場合があるのでしょうか?]
_ nagajis [どうも、プログラムを通して送った時にうまくいかないことがあるようなのです。具体的に書くと ・ocn.ne.jpからthe-orj.orgへ 全く問題無し。火曜にいただいたメールもちゃんと届いてま..]