nagajisの日不定記。
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●明治三十年十一月一日商事会社登記済に付其事項を左に公告す 大阪区裁判所
○社名 日の出煉瓦株式会社 ○営業所 大阪市南区難波大字難波字小田千百十番 ○会社の種類 株式会社本店 ○目的 煉瓦の製造及販売 ○設立免許 明治三十年七月八日 ○開業 明治三十年十一月一日 ○存立時期 設立免許の日より向う拾ヶ年 (略)○社員の氏名住所(略)大阪市東区平野町一丁目佐藤洋二(略)(大阪毎日M30.11.7.)
購買広告
一 大阪市南区難波字小田千百十番地
一製煉瓦 三拾万個以上 一半製品 一石炭 一原土 一建物 三棟 一船 一艘 一什器雑品
右売却候間望ノ方は実地並に入札心得書、契約書類等熟覧の上来る三月二日正午十二時限入札保證金相添え入札相成度同日午後三時開札す
大阪市東区平野町一丁目百三番地
元日の出煉瓦株式会社精算事務所(大阪毎日M31.2.14)
いうまでもないことだが強調筆者。摂津煉瓦は製造までしてなかっただけマシだったのかも知れない。この30万個はいったいどこへ行きどう消費されたんだろう。刻印は押されていたんだろうか。考えただけで眠くなる。
そうして難波小田町1110にはT1に製々社が入るんだぜ(当初は1109に藤本耐火煉瓦及坩堝製造所。T2に1110番地の工場が加わる)。清々するぜ。
耐えて耐えてM30を読み終わる。全面マジ読みしたので心残りはない。多少見逃しはあるかも知れないがそれは多分縁がなかったんだろう。
M31は3面経済欄と4~8面の広告だけに絞って2月迄。株主総会の頃には時々10面になるので気を抜けない。結構斜め読みだったはずなのに日の出煉瓦の購買広告を見つけたのは我ながらゴッドハンドだと思う。この広告の中に「煉瓦」の文字はたった2箇所、しかも五号活字でなんだぜ。
↑は、さきに大阪丸三耐火が解散しての購買広告があったから気づいたのだった。M31初頭に解散。大阪丸三はただちに○三耐火になって、筧耐火・○三筧の筧フデになる。うんこれこそピアジェ。
思いがけぬ問い合わせがあり朧げな記憶で返答したので改めてべんきょうし直してみる。
耐火煉瓦も煉瓦と同様定形寸法が存在しなかった。明治20年代くらいまでは外国から輸入するばかりで国内生産はずいぶん遅れてる(作れてもまともな耐火度のではなかった)。その間どんなサイズが使われてたかとかんがえると、やっぱり最大輸入元のイギリス流の寸法だったろうと思う。
大正末のJES制定で耐火煉瓦並型の寸法が215×115×65mmと決められた。なんでこのサイズになったかはよくわからないが(JES制定前の議論をまとめた本があった気がするんだが、あるいは大日本窯業協会雑誌の赤煉瓦のソレと勘違いしているかも知れぬ。このサイズだと平敷できぬ。小端積みで15mmの目地?深山砲台の窯の内面を思い出しつつ)、ともかくこれが不評で、戦時中の昭和15年6月18日に臨時JESとして新サイズが決められている。230×114×65mm。目地厚2mmで平敷するのを主眼に置いてるはず。してこのサイズが戦後のJISでも採用されて現在に至る。
竹内清和『耐火煉瓦の歴史』を読んでいるとJES制定以前の話が出ていた。p.98。
並型の寸法は一様でなく海軍では英国型、瓦斯会社方面では3吋英国型で、通常は東京形が多く、珪石煉瓦は大抵英国型である。
主な並型の寸法は
東京型 7.5×3.6×2(寸) 〔227×109×60(mm)=東京型赤煉瓦と同サイズ〕 英国型 9×4.5×2.5(吋) 〔228.6×114.3×64.5(mm)〕 3吋英国型 9×4.5×3(吋) 〔228.6×114.3×76.2(mm)〕 純独逸型 240×120×70(粍) 独逸式東京型 230×110×60(粍) 〔東京型赤煉瓦とほぼ同サイズ〕 (出典:高良義郎「耐火物の工業規格についての覚書」(『耐火材料』No.53 昭和25年4月)
これが大正13年3月27日にJES第10号「耐火煉瓦」で215×115×65mm。戦時の臨時JESは臨時JIS第99号(『耐火物年鑑』第4巻(昭和18年))で230×114×65mm。
赤煉瓦で東京型や並型などに分類しづらい中途半端なサイズのはこの耐火煉瓦サイズに準じたサイズであったかも知れぬ。そもそもその耐火煉瓦サイズは諸外国の赤煉瓦サイズに影響されているはずで、その寸法が後述大熊喜邦の報文にあるのだが、けっこうな分量があるのでめんどくさくて書けない。
ついでに赤煉瓦も。JES制定のための予備調査の報告が大日本窯業協会雑誌No.358(T11.6.)にある。大熊喜邦の報文。もとは建築雑誌T10.7.号に掲載されたもの。この中で赤煉瓦210×100×60というサイズが決まった流れが書かれている。曰く
(ハ)在来煉瓦寸法の更新 煉瓦の寸法は在来に於て略一定され居る様であるが※1、今日に於て其品等と共に寸法を規定する規格を極めて置かなければ将来乱雑になる恐れがある。而して現在の寸法を改めるに関して何を目標して考えなければならぬかといえば(一)現在の寸法より大きくすることは焼成不充分の点。取扱上の不便の点から不利益であることは一般の認むる所である。(二)現在の煉瓦の幅三寸六分は、本邦の煉瓦職工殊に手伝女人夫が取扱う上から見て少しく広過ぎ今少しく縮小する事を必要とする。現在に於ては前に掲げた表(njis注:某工場で作られた製品の実測寸法の表)から見ても正三寸六分のものは少く大抵縮小されて居る為めに大なる不便を感じて居らぬが三寸六分より小さくなる事は取扱上慥かに利益である。(三)現存の煉瓦の厚二寸は焼成の点から見て適当である。これを薄くするときは曲りを生じ、これを厚くするときは焼度不充分となり又は割れを生ずることは試製の結果からでも明瞭である。(四)煉瓦の寸法を定むるに、「メートル」法の実施を目前に見て、在来の日本尺を用いるのは徒らに複雑となる計であるから、「メートル」法に依り寸法に端数を付けない様にすることが将来の利益で且便利である。
※T1.10.小林作平「普通煉瓦業に就て」には、大正10年度の調査の結果として「現今では殆ど東京型と称しまして(略)其の他の形のものも少しは有る様でありますが極めて少ない様であります」と述べてる。その前年くらいに煉瓦生産数はピークを迎え、下降していくころの話。
それで幅を狭くする&端数を出さないという点から幅10cmが決まり、そこから目地厚さ1cmとして長21cmが決まり、厚2寸の端数を捨てて6cmとなる。2寸でないと曲がるというのは東京の土を念頭に置いてると思う。関西の土では1.8寸でもちゃんと焼けている。
この中で「手伝女人夫」の手の大きさを基準にしているのは注目すべき。煉瓦製造業に女性の参与子供の参与が多かったのは事実で、『北海道庁統計書. 第28囘 第2巻』(T5)など年齢ごとに職工数を計数している資料を見るよろし。男女数だけなら『工場通覧』でもわかる。しかし不思議なことに耐火煉瓦工場では女性の参与が少なかった。少なくとも大阪では。『煉瓦女工』は耐火煉瓦工場で働く女性の話なんだけどなー。
んで、この報文には旧来サイズの表、諸外国のサイズの表が掲げられているが、大高庄右衛門「煉瓦の形状に就て」(『大日本窯業協会雑誌』No.159、明治38年(1905))の寸法と若干違ったりする。上段は喜邦リスト、下段は大高リストの数値。
名称 | 長(寸)〔cm〕 | 幅(寸)〔cm〕 | 厚(寸)〔cm〕 |
旧山陽形 | 7.5〔22.7〕 | 3.6〔10.9〕 | 2.2〔6.7〕 |
(山陽形) | 7.5〔22.7〕 | 3.55〔10.7〕 | 2.3〔6.97〕 |
山陽並型 | 7.3〔22.1〕 | 3.5〔10.6〕 | 1.7〔5.15〕 |
(山陽新形) | 7.2〔21.8〕 | 3.45〔10.45〕 | 1.7〔5.15〕 |
鉄道並形 | 7.5〔22.7〕 | 3.6〔10.9〕 | 1.8〔5.43〕 |
(作業局形) | 7.5〔22.7〕 | 3.6〔10.9〕 | 1.85〔5.6〕 |
在来型 | 7.5〔22.7〕 | 3.6〔10.9〕 | 2.0〔6.05〕 |
(東京形) | 7.5〔22.7〕 | 3.6〔10.9〕 | 2.0〔6.06〕 |
スペースの都合で厘を略したのかも知れないけれど、1分違ったりするとやっぱり違って見えるなあ。とはいえ実製品では長さで4分、幅で2分5厘、厚さで1分5厘強以内の寸法の相違はあった(喜邦報文)し、規格の観念が希薄だったから上記数字がどんだけ効力を持つものなのかは定かならず。
少なくともこの頃には「並型」が省略されてしまうほどに衰退してた。大高もM39に東京型に統一しようと呼びかけてたのだし。