nagajisの日不定記。
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過日近所のインドカレー屋での経験。その日のその時間帯は家族連れが多く、私が食べている間にも一箇の家族が会計を始めた。その中に混じっていた小学校低学年くらいの女の子が、ほぼ同い年と思われるきょうだいに「あ、ネパール」と言ったのが聞こえた。レジ横に張ってあった国旗を目にして、それで何気なくそう言ったのだろう。
皆さんご存知の通り、インドカレー屋とはいえ必ずしもインド国籍の人がやっているわけではない。ネパールやスリランカから来てインドカレー屋をやっているところは多い。行きつけのカレー屋もそんなカレー屋である(名前からして「タージマハル・エベレスト」という。じっくり考えてみると何だかナアという名前である)。
それ自体は何ということもない事態である。問題はその後だ。私の隣に座っていた別の家族の、ちょうど先ほどの女の子と同い年くらいの男の子が、聞こえよがしな独り言を言い出したのだった。曰く「ここはインドや。ここはインドや」。そうして大仰なため息をひとつついた。
何とも心地が悪かった。男の子は最前の「ネパールだ」という呟きを聞き、それを間違いと思い込んで、それを正すつもりで独りごちたのだろう。インドカレー屋=インドという短絡的思考に囚われていて、自分が間違っていることに気づかないでいるのだろう。そのうえに聞こえよがしな独り言でその誤りを(誤りではないのだけれど)正したつもりになっているわけである。
それが腹立たしく感じられたわけではない。自分も同じようなことを子供の頃にしていたような気が、記憶の底のわやくちゃになった辺りから急に呼び起こされた気がして、それで心地悪くなったのだ。自分が今もし同じくらいの子供だったら同じことをしたかも知れぬ。そうしてみたい気分が確かにする。それに気付かされたので、ひどく居心地悪くなったのだ。
過去にした具体的な言動を思い出せなかったのは幸いであったかも知れないが、そのかわりに、今も似たようなことをしてるよなぁ、と思い至った。ネット上で見かけた誤った情報に対し、直接その誤謬を正すようなことをせず、まるで独り言のように(自分の正しいと信じている)正しいことを書き散らしているではないか。正しいと思うことを本当に正しいかどうか判断してもらえるような場に提示したりはしていない。ただ自分の考えを垂れ流しているだけである。そうして勝手に「ここはひどいインターネットですね」と嘆息している。まるで同じではないか。
ORJという形で世に問うてはいるけれども、その「世に問う」機能が全く形骸化していることは言わずもがなで、5点満点だったからOKなどとは微塵も考えていない。要するにここで書いていることの延長線上にあるとしか思えない。客観的に見てみてもね。書き手が減ったことよりアンケートの返事がほぼゼロになったことよりもその点改善できてないことに最も心を痛めているけれども、それを書いてみたところでどうなるわけでもなし、むしろかえって件の男児の呟きに近しいものになってしまうのだった。
おっと、そういうことを書くために独言し始めたのではなかった。「人は何故そのようなことをしてしまうのか」を考えようと思って書き始めたのだ。他人の間違いを無視していられないのはなぜだろう。誤りを指摘してしまいたくのは何故だろう。そんなことを考えさせられたのだ、件の発言に。
思うに、男児のようなケースの場合、誤りを正すことが主目的ではない。自分の知識が正しいのだと主張すること、すなわち自己を優位に保ちたい、他者より勝っている自己でありたいという欲求を満たすために事に及んだのだろう。そしてそれは件の男児がそういう男児だったからではなく、人間誰しも持ち合わせている根本的な心理の一つであって、その欲求を満たすもっとも簡便かつ確実なやり方として他者の誤り訂正、悪く言えば「あげつらう」ことが採用されがちなのではないか。
件の男児に心地悪さを感じたのは、それが直接対決でなく「自分だけは『自分が優っている』と思い込んでいる(うえに間違っている)」辺りに起因する。堂々議論の対峙ではなく負け犬の遠吠え的捨て台詞的言動であるところに嫌悪感を感じるのだ。わざとそんな言い回しをして「『嫌悪感を感じる』ではなく『嫌悪感を覚えるだろ』という突っ込みを待つ気にもなるのだ。
実際他人のアラはよく見えるが自分自身の間違いには気づきにくい。例えばの話、自分だけで誤字脱字を完全に無くすことはできない。どんなに見なおしたつもりでもつまらぬ間違いが残っていて、それでいつもTUKAさんのお世話になっている。以前はそれが自分の能力不足に因るものとして恥ずかしく思い自己嫌悪する種発点にもなっていたのだが、それも人間真理のひとつだろうと思うようにしてからは無駄な気苦労をしなくなった。TUKAさんだってあげつらうために指摘されているのではない。間違っていることに気づいた者の責任として間違いを指摘されているだけで、優位劣位はなおさら関係がない。
人の知らないことを自慢気に語ってしまいがちな心理の裏側にも似たような人間真理があるようである。誰も知らないことを知っている、ということを他者に優越する目的で他者に語れば「自慢話」になる。得てしてそういう自慢話は鼻につく。件の男児のように。だからといって「自慢話」にならぬように人に伝えることは難しい。なぜなら、他者より勝りたいという欲求は人間であること以前の、生き物の本能として欲求されているものだから。
そいつを完全に捨て去ることができたら、どんなに楽になるだろうか、と思ってみたりもする。自己を優位に位置づけようという欲求から離れて自己他己の意見をぶつけあうことはできないだろうか。近代初頭の科学の論文は(べつに悉皆読みこなしたわけでもないのだけれど)それに近かったんじゃじゃいかと思う。こんな現象見つけたんだけど何だろうね。こう説明したらうまく行きそう。いやいやこう考えたほうがもっとスマートじゃね? そんな議論を自己の利のためではなく「科学の発展」「世の中の発展」のためにやっていたように読める。そういう場になればいいなと思っていた。
まあ、たわいもない一児童の言動にさざ波を立てられるようなチキンハートじゃ、叶わないことだろうな。最終的な着地点はそれだった。そして帰って原稿の続きを書き「売間九兵衛の夢の跡」後編を仕上げたのだった。
自分が食べ終わったとき、件の男児の家族はまだ食事中だった。会計の時にどれだけネパールの当世事情でも聞いてやろうかと思ったか知れないことを正直に白状しておく。それは男児へのあてつけでもあるし、矮小な自分への戒めでもあるつもりだった。けれどもこうして書いてみれば、やっぱり男児個人へのあてつけでしかないようだ。そういうのだから世の中に無益な争いが絶えぬのだ。
人の知らないことを知っているという状況は、優越的であるのは確かだがしかし、淋しい状況でもある。人に話したところで(自身がそれを知った瞬間の心持ちが正確に・厳密に伝わることはないという意味で)共感を得られないだろうから。知り得たことへの感動をそのままに人に伝えることはできないだろうから。理解はされるかも知れないが「そのときの感動」と全く同じものを人と分かち合うことはできない。分かち合えば1以下になるのは自明の理で、だからといって水増しし誇張して語ってみたところでそれは虚しいだけである。一人でドアを閉めて心罠に顔挟んでなさいってこった。
●煉瓦製造業の警戒 煉瓦の趨勢は近来漸次に一変し一時一銭五厘内外なりし同品は昨今殆どその半価に低落すれども製品兎角に停滞し前途漸次不況に赴かんとするの傾向あるものの如しけだし今春来阪神地方を始め中国四国等の随所に続々勃興したる同品の製造会社は数十の多きに及びて其差額頓に増加したれども其需要は近時却て減少するの傾向あるよしさては昨今の不況を見るに至りしならんされば営業者中には此程よりその製産額を減少して前途の警戒を怠らざるもの甚だ多しと云う近時セメントの趨勢漸く一変せんとするに際し煉瓦製造業の景況既に斯の如し当業者が此際に処するの用意頗る周到を要するものあらんと語るものあり (大阪毎日新聞M30.11.14.3面)