nagajisの日不定記。
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京都市内の駐車場の看板。「厳キ・・・ン?」となってPsセンサーに引っかかった。はじめはそういう異体字があるのだろうかと思ってみたりしたが、いや、単純に誤字だと見るべきかも知れないと思い直した。「厳禁」「禁止」が寸詰まってしまったんだろう。
そういう解決をしてしまうとPsでなくなっちゃうんだけどね・・・。最近Ps不足なのはPsの追求のし過ぎで理解到達の速度が格段に上がってしまっているからだと思う。自分のうちで既に答えが出ているのに敢えて世に問うてみるのは愚であるだろう。
地味に「以」の字も独特。
ね。Twitterを検索したらこれupしてセルフツッコミしてる人が間違いなく13人くらいいるはずなのだ。これだったら「京阪の流人、おけいはん」のほうがまだイメージに広がりがあってよい。但しかなり無理がある。
これのほうがPs的であるかも知れない。ストーリーを成立させるための最重要のものの色が抜けてしまっているためにまるで暗闇で歩行喫煙している男性がネズミの照らすサーチライトにより発見せられてしまったがごとくになっている。色が抜けているせいで意味がわからないのだと気づくのにずいぶんな時間を要した。ネズミもちょっとネズミらしくない。顔周りだけ見れば耳の大きなカエルに見えなくもない。しかし全体的な調子は富永三郎画っぽくていい味を出している。苗字を間違えられるのは辟易しているが画伯そのものや画伯の絵を否定するつもりは毛頭なくむしろ郷愁に近いものを感じている永冨である。
左上に書き添えられた「ごみ」「空缶」と最後の目隠しテープの関係も気になる所である。目隠しテープは何の不都合を隠しているのだろうか。「ごみ」「空缶」「捨てるな」でありそうな気が大いにするがしかしそこで「捨てるな」を隠しては意味がないし隠す意味もわからない。よしんば「はOK」だったとしても「歩行禁煙」との対比にならぬ。「歩行喫煙禁止」「ごみ空缶はOK」と補間したとて随分寸詰りな一文に変わりはない。
そういういろいろを考えさせ惹きつけて止まない魅力が奇妙なポテンシャルなのであって、正しい答えがあっさりと見つかるような、あるいは一面的な突っ込みが予め用意されているようなものは奇妙なポテンシャルとは呼べないのである。
煉瓦の難しさ−−−煉瓦の素性を知る難しさは、約150年の間の有為転変の結果を「いま」という時間軸上の1点から見てしまいがちなところに全てが原因している。100年前に作られたものも50年前に作られたものも「いま」「ここ」で判断せざるを得ないというか、判断してしまいがちなというか。何も考えていなければ一律に「身の回りに転がっている煉瓦」になってしまう。100年前の遺構に50年前の追築煉瓦が混じっていたら判別のしようがない。本当はそうでない。150年間に起こった様々な出来事を経験したものもの、その経年もまちまちかも知れない、が仲良く並んで転がっている。市街地の煉瓦はたいていそう。
そんな状況を整理する目印としての煉瓦刻印。刻印があればある程度の仕分けができる。戦前のものか戦後のものか。寸法でも断面でもできないことはないけれども刻印ほど雄弁で確実なものはない。アルファベット”H"だけでM28 以前と推定ができる。便利である。それが「いま」に転がっているからややこしくなるのである。