nagajisの日不定記。
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ダメすぎる、このプロフィール・・・
自分のやってきたこと、おもっていること、を客観的に記述するのはとてもむずかしい。主観的に書くのだったら幾らでも好き放題に有る事無い事書けるのかも知れぬ。面の皮が厚ければ何も感じずに書き散らせるに違いない。そういうふうな皮になっていないnagajisだからただ気苦労するばかりなのである。
何で煉瓦集めてるんだろうね……。コレクションのつもりではないと言いつつ、始まりにその気がなかったわけではないのだし、蓄積中にそれを意識しなかったわけでもない。だがコレクションという言葉にまつわるヤなイメージとは距離を置きたい。集めたものを披瀝して自慢したりするようなことはしたくない。誰かの役には立って欲しい、特定人物でなくても、そうさね、集合知の構成要素的な。そんなことを思う意識の根底には条件付きで翼が欲しいというのと似たような虫の良さがある。
記憶に残る夢を立て続けに。ひとつは女性の尻を触ってアフンと言わせる夢。前後が欠落しているため何でそんなことになったのか及びその後どうなったのかさっぱり解らぬ。一つだけ覚えているのは、濡れた手で不意に尻の割れ目を撫でてしまった時のゾクッとする感触を相手に味わわせようとしたものらしく、何とも禁則事項な話である。
もう一つは古本屋の夢。初めて訪れた店で妙に店主と意気投合してしまい、何も買わずに出るのもアレだなあと思って、本やらCDやらをいくつか購入することにした。そうしたら「これは絶版だから値札の二倍増しね」とサラッと言われてしまう。思っていた価格の三倍だということだ。焦って丼暗算してみると数万円の出費になりそうな塩梅。しかし抗議することもできず、その額をニコニコ顔のままで承諾するnagajis(だが払ったかどうかは覚えていない。そのへんで目が覚めた気がする)。
以上の夢をミーティングで(かなりソフトに翻訳して)話したのだが、話してみた結果、夢の中でもnagajisは気弱だということに改めて気付かされ、さらに落ち込んだ。なんでそこで強く出れないのか。夢の中くらい、腹を立てたり怒鳴ったりしてみてもいいじゃないか。
ま、過去に一度そんな夢を見て、夢の中で自己嫌悪になったりしたくらいだから、土台無理な話なのだけれども。いやなやつをぶん殴って蹴り飛ばして腹の底からすっきりするような夢を、一度くらいは見てみたいものである。
をうまく説明するための練習書き。文献調査?の結果、大高表が現実に即していない可能性が高いとわかりーーーこの現実というのは煉瓦規格に固定の寸法が付随していなかったこと、言い換えれば並型は何寸何分というようなコンセンサスがあったわけではなく多少の誤差が許容されて実用されていたということである。それを敢えて並型7寸4分みたいに限定してしまったところに若干の罪がある。そのサイズ自体は変動の範囲内にあるけれど、その寸法が平均値あるいは中央値のようなものであったかどうかについては疑義が残る。作業局形の厚さなんかは達の寸法とも違うけれど、それはインチ規格を尺寸で表そうとしたことに伴う避けられない変換誤差ではあっただろうーーー、現物の測定結果を大高表に寄せて規格を推定するのはあまり意味がないということになった( 東京形以外はね。あれだけはかなり初期からサイズが固まっていて大高表でもその数値が掲げられている) 。そうすると問題は現物の測定結果をどう活用したらいいのかという話になる。けれどもそれも、焼成時の寸法変動が大きすぎて、結果から素地の寸法を推定するのも難しい。長7寸2、3分〜長7寸7分も変わられたらどうしようもないのではないか。
焼けば焼くほど縮小したものらしく、焼過煉瓦を赤煉瓦より小さな寸法で購買した例もある。葦谷砲台の煉瓦なんかは好例。焼過煉瓦は並型くらいまで縮んでいる。そこまで行かない比較的赤い奴も小さいのが集中している一角があったりした。
もし、建築や土木工事の仕方書で購入煉瓦の規格が定められていて、その規格が厳密に護られていたとすれば、現物の測定結果は仕方書の規格になっているはず。 仕方書規格で濾した結果を見ていることになりそのフィルターの目の寸法を知れるわけである。けれども葦谷砲台や北吸隧道のように異なるサイズの煉瓦がにべもなく使われている場合は(うんこれは全くの誤用である)どう考えたらいいのか。
役立つデータにするための策。ひとつは、煉瓦各個の長幅厚をセットで測定し、その比率を見ること。長手列で長手を10箇所計測し、小口列で小口を測り、その平均値を出すんじゃなくて、一個の煉瓦の長手幅小口の測定結果を10個集める必要がありはしないか。煉瓦が等方的に縮むのであれば結果は似たような比率になるはず。とはいえ、そんな測定ができる状況は非常に限られてくる。生石山砲台くらいに破壊された構造物でないと個々測定なんて無理な話だ。
あるいは、厚さに だけ 注目して規格に寄せていくほうが現実的か。どの文献でも並形<作業局形<東京形<山陽形という関係になっている。長手や幅は文献によってまちまちだ。だから例えば1,8寸より小さいなら並形、その前後なら作業局形と推定していくほうが現実に即しているかも知れない。ただそのやり方では並形と作業局形の区別がつかないかも知れない。そもそも規格がわかったところでそれ以上議論を発展させにくいところがある(鉄道構造物に作業局形が使われていたとして、それが新旧の指標にできるかと言われれば、現時点ではたぶん無理。達がM24にできていたとしてもそれ以前に作業局形がなかったということにはならんからな)。
よほど限定的な、特異な状況下では、役に立つことがあるかも知れんのだが。
そうじゃなくて「規格」そのものから情報を読み取るようにしてみてはどうか。なぜその規格が生まれ、定着したのか。どこから縁って来たるものなのか。 民俗学の昔話や方言に対する態度と同じような心持ちで煉瓦規格に対峙してみたほうが(測定結果ではなく規格に対してだ)、有益な情報が引き出せそうな気がするのだ。 煉瓦寸法にではなく、規格の存在それ自体に意味を見出そうと言う訳。
うん、全然すっきりしねえ。