nagajisの日不定記。
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寺田先生の随筆に「厄年とetc.」というのがある。厄年の坂を越え切った時に我が身の来し方を振り返って書いたもの。厄年という迷信が存在する理由を科学的確率的に考察し始めたのが、徐々に幻想的感覚的になっていき、しまいにまこと人臭い泣きつきのような結びになってしまうのが好きである。
自分の来し方を振り返って、率直に、正直に、成してきたこと得たと思っていることを点検してみると、本当に自分自身の力だけで達成したことなんてごくわずかだとわかる。否、わかってしまう。煉瓦も然り。表面上は一人で勝手にやってきたつもりでいても、先人の研究成果があってこそ取っ掛かることができたのだし、やらねばならなかった手間を省けて、その浮いた労力で他のことをできた。今回の展示だって皆さんが煉瓦を運んでくださらなければ陽の目を見ることはなかった。そういう他人の御蔭を寺田センセは「負債」と表現している。別に悪い意味ではなくいつかどこかへ償還しなければならぬものであるという意味でまことに相応しくすんなり腑に落ちる言葉に思える。
今回の煉瓦展のお陰で自分が抱えていた負債の大部分を償還することができたんじゃないかと思う。伝え「なければならぬ」ことを伝え「知ってほしい」ことまで主張でき、これ以上もう何も言うことはない。実際の程度を測ることはできないけれども主観的にそう思っている。本当に返せたかどうかが最も重要なところだろうけれどもそこまで理詰める余力がない。償還したのだと思い込むのでもいいじゃないか、それくらい全力で事に当たったんだから。
にしてもほんと喋りすぎた。モウちっと上手くなれんもんかとは思うがこればかりは仕方ない。上手く喋れないから掲示にし解説シートにしたのだ。