nagajisの日不定記。
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JR山手駅を見てきた。いや、それが目的じゃなかったんだけどさ。
むしろこっちの石垣の残骸のほうが。読み通りだった、といっていいんじゃないだろーか。モノは見つからなかったけど。次は反対側。
ふと見上げた交差点名看板。Nishinoshochoみたいな色抜けをしていた。oとcの素材だけが劣化しやすかったのだろうかと思ったが、だったら最後のoとか庄のoとかも退色していていいはずである。もしかしたらoとcは同じoから生まれた兄弟(oの右側を切ってcにした)なのかも知れない。そんなことを1sec内外に思った。
そもそもこの文字はシール式なのか。一枚のシートをカットするだけじゃないか。とはその数分後に思った。
ついこの間、ふいに、
一人でも忍者
という言葉が流行っていたことを思い出した。中学生か高校生の頃のことである。
誰が言い出したのかははっきり思い出せないが、こういうことを言い出すのはN氏と決まっている。この一言が書かれた葉書を受け取ったことがあるようにも記憶する。
三十数年の時を経てこんなつまらぬ口合に解説を加えるのも愚かだが、敢えてその愚を極めてみれば、要するに
一人でも仙人
のバリアントである。一人なのに1000人という多さがウリとなっている元ネタに対し、たった2人という数の少なさ、かつ正確には2人でもなく結局は1人であるという無意味さ(頭の「に」しか合致しない)、に底知れぬアレを感じたものである。
この「一人でも忍者」というワードこそ、奇妙なポテンシャルの初観測であったかも知れない。常識から導き出される「仙人」を躱して「二人」を連想させる「忍者」を継ぐ辺り(というよりも「忍者」に「二人」の影を見てしまう辺り---考えてみれば忍者なんだから分身の術とかで2人になっても良さそうなものである---)はまさしく取り扱いに困るポテンシャルを宿している。呟いてみたところで何も起こらないし理解も深まらないことはわかっていても呟いてみてしまいたくなるポテンシャルを秘めている。事実今までの人生で何度この言葉を呟いたことかわからぬ。そうしてその都度忍者とニンニンとニンジンが未分化な思考の底で交錯したのである。
そんな奇妙なポテンシャルをここ20年近く忘れていた。よく思い出したものだ、偉いものだと思う。その記念に一人でも忍者。