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2020-04-19 [長年日記]

[独言] 不要不急の概出

煉瓦建築リストを作っていてちと気になったので、天満紡績の周辺に出かけてみた。いろいろ思い違いをしていることを発見した。

画像の説明

明治41年測図1:20,000地形図「大阪東北部」。赤のところが天満紡績で、明治21年に操業を始めた。府下では大阪紡績に次ぐくらいの古さ。

その南側にある工場は「分銅会社」という表記があって、調べてみると「大阪電気分銅株式会社」という工場であった。電気分解で銅の精錬をやった工場。明治26年4月に創業していて、工場もだいたいその頃に作られているだろう。この工場は後に「日本伸銅株式会社」が使用したらしく(大正元年創業)、大阪電気分銅からこの会社に変態したのかも知れない。S4測量図でも「伸銅会社」になっている。

中西金属工業の煉瓦建物がある辺りは「織物工場」とある。これは「 天満織物株式会社」といって、明治20年に設立された京都綿糸織物→明治23年(有)天満織物→明治26年天満織物(株)と改称を重ねて図葉に至っている。当初は本社もここにあったようだ(のちに北浜に移転し、工場は「城北工場」と呼ばれた)。明治45年に鈴木商店の出資で同社の系列会社となる。(以上鈴木商店資料館HP)

画像の説明 大阪電気分銅の敷地は煉瓦塀記号で囲まれていて、今でも西側の一角が残っている。商店街の端の飲み屋街の通りに埃と違法駐輪に埋もれてある壁がそれのはずだ。

画像の説明NKC中西金属工業のほうは、この角度から撮った写真が『日本商工大家集』にある。手前の建物が取り壊され、その屋根の形が残存建屋に刻まれている。

画像の説明 んで、南側の繰出の裏に堺煉瓦刻印。中央にカナがあるタイプなので、明治26年改名からさほど間を置かずに建てられたものだろうと思う。ただし煉瓦は東京形で、そんなに早く東京形が普及していたようには思われない。30年代までずれ込むかもしれない。

今までずっと、これら煉瓦残存物がすべて天満紡績の遺構だと思っていた。そうではない。ちゃんと自分のアタマで考えんとイカンなと思った次第。

今回改めて天満紡績の敷地も歩き回ってみたけれど、煉瓦のひとつも見つけられなかった。毛馬の干潟に転がっていた煉瓦、案外ここが出処だったりしてね。


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