nagajisの日不定記。
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ボボ・ブラジル
から
ほぼ・豚汁
を連想するところまでは速かったのだが、じゃあ大体豚汁なものとはどんなものだろうという想像が捗らず、10秒ほど費やしてしまった。老化が進行しているようである。
豚肉を入れたあさげ
あるいは豚汁という選択肢を採らずに
保母・ブラジル
で際どい衣装に身を包み踊りまくる保母さんというのでもいいかと思ってみたりしたが、現実にはいそうにないのであまり面白くはないだろうと思い直した。
そのあと始めの選択肢に戻り、もう一段階の連想をしたはずなのだが、思い出せない。いよいよダメかもわからん。
以前も真夏の暑い盛りに桂川橋梁へ行ったはずなのだが、全然懲りていないのか、暑さがベルになって条件反射するのか、ともかくその方面へ。各橋梁の煉瓦の寸法を測る。
たぶん全然スッキリしないデータになっているはず。構造物を構成する煉瓦の寸法を測るのは誠に困難で実り少ない。同一煉瓦の長さ―厚さor小口ー厚さをグラフにしたら比例関係になるはずで、その傾向が確かめられたようなぼんやりとした印象を得たくらい。厚い奴は確かに長い。
明確に2・1/4inchなやつと2・1/8くらいのやつとがあってスッキリしない。長も9inchきっかりかと思えば足りなかったりして。どれかに並型が現れそうな気もする。
煉瓦探しやその他の目的で見知らぬ町を歩くことが、以前は心底楽しく思えていたのだが、回数を重ねるごとに悲しく思うことが多くなっているような気がする。自分とは縁のない幸せそうな暮らし。寂れた暮らし。中で何が行なわれているのかわからない暮らし。誰一人私を知っちゃいない世界がこの世界のほぼ100%を占めているという至極当然なことに気づくと急に空恐ろしくなってしまう。もしこの道端で行き倒れても誰も看取ってはくれないだろう。保険所に通報されるどころか気に止められることもないかも知れない。腐って枯骨になっても気づかれないかも知れない。そんな想像をしてしまう。この街は自分の居るべき場所ではないと強く思われ出して、かといって帰る我が家も我が物には非ず、そもそも所有している物が私自身ではないのだし、否自分自身の価値もないのだと思い出される。身一つすら持て余している自分、しかし自分以外に身を任せられる相手は居ないのだった。
知らない町を歩くというのは自分の見識の狭さを思い知らされる行為である。社会の広大無限さを思い知らされる行為である。そこへ進んで入っていける体調−−−気分の調子だから気調とでもいうべきか−−−の時とそうでない時があるのかも知れない。歩くのが嫌になったのではない。世界を嫌と思う瞬間が徐々に増えていることに危機感を覚える。かといって同じ暮らし同じ行動の繰り返しも耐えられない。じゃあどう住んだという時に解が見当たらないので困っている。