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2020-11-17 [長年日記]

[煉瓦][煉瓦工場] 明石の浜

兵庫県立図書館に赤煉瓦産地診断報告書をコピーしに行くついでに、明石の浜の煉瓦工場跡を訪ねて歩いた。

収穫があったのは魚住村中尾の辺り。大正6年にできた明石窯業→昭和8年に明石陶管となって土管や耐火煉瓦を作っていた工場。魚住に着く直前に気づいた窯記号がそれだった。

中尾はかつて歩いたことがあったのだけれど、東からきて住吉神社の手前で引き返したのだった。明石窯業はその西側にあった。現在はシバタ工業というゴム製品・プラスチック製品の工場になっている。

この工場の北西の集落(浜谷)でいろいろ興味深い刻印煉瓦を採取した。筆頭はこれ。

画像の説明

久しぶりにグッとくる刻印である。細い星形の下に「正」の文字。星印を「大」と読んで大正煉瓦のものと見るべきだろうと思う。ただこのような大型でgraphicalな印は印南郡の工場には似つかわしくないかも知れない。印南郡の煉瓦工場群では頭一文字のカナ/漢字/アルファベットであることが多かった。

(徳島県板野郡の大正窯業の製品だったら面白いのだけれど……ホフマン窯作ったのに土が遇わくてほとんど操業しないまま解散したという会社だからな……。(後半生は土砂採取とか建築とかを主業としてた)

浜谷では”松葉菱イ”も検出した。分布の重心が西へ移りつつある。化粧煉瓦の存在から大阪の伊藤煉瓦と考えていたけれども、それを採取したのは高砂の伊藤窯業の跡地付近で、だったら伊藤窯業の刻印と見て、大阪に分布しているものは他の播州煉瓦どもと同様の流入をしたものと考えたほうがよいのかも知れない。そういや岡田やその前後では見てないしな>”松葉菱イ”。検出頻度は関野煉瓦の▲や日成産業の日と同じ程度で、淀川以北という区切りも似ている。

明石陶管時代の刻印と思われる”AT”印も発見した。これ、ちょっと前にどこかで見た気がするんだが……どこでだったか思い出せず、bdbにも登録してない。由来不明の耐火煉瓦かと思って見過ごしたような気もするし、ATなのかどうかすらわからないような状態だったので見てみぬふりをしたような気もする。これは浜谷だけでなく江井ヶ島でも見た。&、シバタ工業の際に落ちていた塩焼き瓦に菱+ATの刻印があった。明石の瓦は基本的に粘土瓦で塩焼き仕上げの赤茶色いやつであった。江井ヶ島でも製瓦工場があったが昭和40年代に全滅したらしい(最後まで操業していたのは明石窯業(株)だった。これは戦前の明石陶管と関係があるのかどうか。中尾の工場は戦後すぐにシバタ工業の所有となっている。昭和30年代には西岡だったか西島だったかに明石窯業KKは所在していた。

浜辺の集落を繋いでいた旧国道250号を図らずも辿ることになり、江井ヶ島のような興味深い土地も歩くことになった。この海岸線の集落はどれも小さいけれど古い家並みが残っているところが多い。海岸線はけっこう凹凸が激しく、高10数mの尾根に挟まれた窪の底に集落がある。もっと浜々した海岸線と思っていたが、決してそんなことはないのだった。あ、浜谷は別だな、あそこはだだっ広い海岸線にごじゃっと集まっている。民家の区割も旧村的でなかった。

そうして集落には必ずといっていいほど住吉神社がある。中尾の住吉神社などは海岸に面した小高い丘にあって、鳥居の目の前に海が広がるさまがいかにも海の神様という感じがし、由緒の古さを思わされたことだった。


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