nagajisの日不定記。
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兵庫県臨時会・県会・郡部会日誌 明治14年郡部会日誌より。M14郡部会にて土木費の審議がなされる中で20番議員・法貴発から動議。この動議自体も郡部の土木補助費の名目「河港道路堤防橋梁建築修繕費」を「河港道路堤防橋梁修繕補助費」と修正すべしだとか一等里道への補助費を全廃するだとか大変興味深いものなのだが、その里道補助費の廃止理由を述べたところにこんなことが書かれてある。
今之れを補助費となさざるの理由は近年河港道路等多くは大坂藤田組等の請負普請にして麁漫無法一も堅牢なる普請を見受けしものなし(中略)今之れを人民にて普請せば丁寧信切にして入費も減ずべし則ち官に於ては全く目今の土木課を廃するを得べく民に於ては特く入費の減ずるのみならず堅牢耐久の普請をなすを得べし
(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/785079/45)
『兵庫県百年史』によると、法貴発という人は民権運動の急先鋒みたような人だったそうで、この動議もそんな民権意識に拠って発せられている。本来里道の改修はその局地の人民が責任をもって行なうべきもの(協議費によって改修すべきもの)だし、人民が自助的自発的に地域を改善していくこと則ち民権の原理であると考えていたらしい。地方税の補助は県=官吏の恩着せであるという発想なわけだ。
それはともかく、彼は藤田組の土木工事を粗忽で無法な普請だと一刀両断している。これは法貴一人の極端な認識というわけでもなかったらしく、この動議に賛成して「藤田組に受負わすは甚だ喜ばず」と発言した議員もいた(21番重田)。
面白いことに、法貴は丹波篠山の出身で多紀郡選出議員だった。この議会の進行中には鐘ヶ坂隧道の建設の話が進んでいて(M13.12に着工)、その鐘ヶ坂隧道の工事を担当していたのが藤田組であったりする。工事にあたって何か悪い風聞をまき散らしていたのだろうか。あるいは藤田組式の近代的なやり方が旧慣にそぐわないところがあって住民感情を害するところがあったりしたのだろうか。
議会史や議事録を読んでいるとこういう機微に行き当たることがあって面白い。しかし量があまりにも多いので総体的に把握するのは難しい。前述動議も賛成者が少なく廃案になっているのだが、里道一等道路への補助の廃止自体は可決されている。この動議の続きを読んでいくと補助廃止か否かでかなり白熱した議論が交わされていることがわかる。
もともと兵庫県は県会が始まった最初から民権意識が高かった県で(初代県令伊藤博文とか大政奉還に先駆けて版籍を返還しようとした酒井忠邦とか、地方三新法よりも前に県会を始めた森岡昌純県令とか)、その発露が里道補助費の廃止となって表れているといえる。そしてそれが県会を重ねるごとに地方税補助を望む、易きに流れるほうに変わっていく。些細なことのように見えるが時代と地域性とを象徴する一シーンであったりするのだった。