nagajisの日不定記。
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八年前に滝川クリステル氏の「O・Mo・Te・Na・Si」でオリンピック開催が決まった時、そのオリンピックを見ることはないだろうと、かなり本気で思っていた。2020年まで生きていられるとは思わなかったのだ。ましてやORJがそこまで続いている気もしなかった。
それでも生き続け、書き続けた。人間以外と簡単には死なないようである。もちろんその間には書くに忍びない浮沈がありジェットコースターのような揺動を経験した。実はこの間ほど必死に生きたという実感はなく、しかし前途は茫洋としたままで、軌道に乗ったと思ったことはない。道跡だと思って辿ってきただけだ---途中の橋が落ちていたり上から下から崩れるタイプの崖崩れで跡形もなくなっている場面に遭遇しその都度何とかクリアした。そうして今後も道跡が続いている保証はない。もっと酷いゲロ場面がきっと出てくるに違いない。そういう道を歩んできた。
そうしていつのまにかその2020年になった。内心ビクビクしていたが、驚いたことにオリンピックのほうが逃げてしまった。何ということだろう。そこまではさすがに予測できていなかった。そのせいでかえって気落ちしたというか、戦意を喪失したというか、そんな宙ぶらりんな気持ちになった。後半失速したのはそのせいである。
そうして今年。無事(では決してないけれど)オリンピックが開催されようとしている。それに対するアクションが休刊だった、と書いたら、誰か怒るだろうか。要するに自分の存在価値のないことを認めたわけである。矜持を保ち続ける意味を見失ったわけである。
そういう空白を経て今号。特に何という気負いもない。読まれようと読まれまいと、という気持ちで、余裕をもって発行できそうである。それよりか、これからしばらくの間が大変だ。かの探索のことを忘れずに居続けることができるだろうか。言葉にできるだろうか。まとめられるだろうか。その不安が強くある。まあ、書けなかったとしたらそれまでよ、と何の韜晦もなしに思っている今である。ちなみに次々号分の原稿はほぼ書き終えている。発行後にはその次のを書き始めなければならない。前倒しで原稿を書くというごくごく当たり前なことすらできずに10数年間やり続けてきたのはさすがに愚かだと思う。
正確には玄関の外が臭い。まるで扉の前でしかぶられたかのようである。あの独特の鼻を突く臭気を嗅ぐたびに子供の頃を思い出し懐かしくなると同時に現在の我が部屋がそんな臭気を放っていてそれが漏れ出しているのだろうかと思い慄然とする。しかし臭いの元は我が部屋ではないのは明らかだ。玄関を開けて一歩中に入ればその臭いは絶えてしまう。
玄関前にしかぶられた訳でもないらしい。臭いがする時とそうでない時があるからだ。この臭いはどうも、どこからか漂ってきて扉前に溜まるようになっているらしい。今住んでいる建物は真ん中にフロアがあってそこに4軒分の扉が向き合っている。フロアには窓がなく換気は全く効かない。どこかの扉が開いていればそこから漏れた空気が他所に流れていくようになっているらしく、その吸い寄せ口というか空気の吐口というかにうちの部屋がなっているらしい。全くもってとばっちりである。近寄れば1mも近づかないうちに逃げられるほど猫に嫌われている私なのに猫の小便臭気には好かれているらしいのは悔しい限りだ。もしかしたら猫の嫌がらせなのかも知れない。こっちは仲良くなりたくてなりたくて身悶えしているというのに。