トップ «前の日記(2023-01-02) 最新 次の日記(2023-01-04)» 編集
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|04|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | NDL | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

2023-01-03 [長年日記]

[煉瓦] 水無瀬川橋梁

画像の説明

瓦礫は転じてなかったかわり、12ft円形井筒が露出していた。そこに“ロ”を確認したのはいいのだけれども……掘れば掘るほど謎が深まり始末に負えなくなる。大阪方向かって右の井筒だけ2-1/4インチ厚の異形煉瓦が使われている。残りは全部3インチなのだ。その3インチ厚煉瓦に“ハ”と“ロ”を確認したことでさらなる混迷の時代到来。3インチ厚ならABCあるいはエービーシーあるいはエビシでなければならないのではないか。M20台初頭の東海道線ではもうABCの基礎が出来ていたではないか。そも1本だけ2-1/4インチ厚というのはどういうことだ。2本ならわかるが。

ズボンについたセンダングサ---田舎ではカンジンコといっていた---の数と同じ量のはてなマークをぶら下げたまま帰宅して、あれこれ頭を悩ませた末、やっとわかった。この区間の複線化はM29に完工しているのだ。異形煉瓦の形状を示した鉄工第1749号(課長達)は明治29年8月31日。配置図は明治30年4月22日鉄工第755号(部長達)。故に水無瀬川橋梁の複線化の頃はまだ過渡期だった。初代井筒が2-1/4インチのイロハであって、それを踏襲しかつ3インチ厚を採用して新イロハにて構築した結果。&、現橋は明治42年製の支間長19MのPG桁が乗っている。19M≒62.336ft、たぶん70フィート桁で1スパン。いっぽう竣工時には支間長36ftの桁2本。ということは少なくとも支間長だけで72ftあった。当時は橋台間が10ftくらい広かったわけだ。だから初代橋台の大阪方のみ残し、橋台間を縮める工事がどこかのタイミングで行なわれたはず。複線化と同時であると考えるのが素直かも知らん。でないとイロハが使われている理由が説明できない。

画像の説明

トップ «前の日記(2023-01-02) 最新 次の日記(2023-01-04)» 編集