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2023-03-01 [長年日記]

[煉瓦刻印] 漢数字群

画像の説明

なあ、これ、どう思うよ。

左から西尾市転石(肉厚扇形)、成山第一低部砲台の漢数字印、西尾と石ヶ瀬川橋梁瓦礫の「テー」の添印。それぞれはサイズや太さやトメハネの感じが違うものの、平体のかかったこのサイズの漢数字印という点で似ているように思えてならない。少なくとも京阪神の市街地では同種の刻印を見ない。西尾から運んできたものだったりしないだろうか。

そう考えたほうがいろいろ説明がつく。生石山や深山では並形が主に使われているのに成山だけは作業局形とか。何を表したものかわからない”◯”印が検出されているのも実は西尾と成山と共通したりするのだが、そんなことに気がついているやつはこの世にいないし今までに存在したこともないだろうから意外に思われることもなく耳目を引く発見にもならない。

成山砲台はM23.7.着工M24.8.竣工。西尾士族生産所はM23.8.11.に「その跡地と屑煉瓦」が売却された記録がある(『西尾市史』年表p.555)。ギリギリ間に合ったと考えられなくもなく、あるいは石ヶ瀬川橋梁に様々な東海道線煉瓦が使われていた如く陸軍が以前に購入していた在庫を回したとも考えられる。もともと東洋組は砲台建築用の煉瓦を焼くために始められ、陸軍、宮内省、鉄道局と政府との取引がメインだった節がある。最後の奉公に成山砲台用のを焼いたと考えても不思議ではない(御都合主義の誹りは免れないだろうが)。

京阪神の市街地では中京の製品を見ることは稀。しかし湖東線には間違いなく西尾士族生産所ほか三河の煉瓦および三重勢陽組の製品が使われていた証拠がある。また鉄道もない時代に三河から横須賀まで送って猿島砲台築いたり千代崎砲台作ったり皇居造営に使ったりしているわけだから三河から西へ回漕したっていいだろう。

あとM23~24頃というのが大阪府下の煉瓦工場が不調だった時期にぴしゃりあてはまる。当時最大と目される堺煉化石もその頃に姿を消しているし。あれM22だったか。M20前後の紡績業勃興期に工場が乱立し粗製乱造をしたうえへM22に会計法ができて政府の調達が原則入札制になり指名特命による受注をアテにしていた会社が逃げ出した時期。そうしてM23に日本最初の金融恐慌が発生。煉瓦工場が軒並み畳んで3件とか4件とかになってたんじゃなかったか。

もしそうだとすると少し意識を変える必要がある。市中にも多少は中京煉瓦が入ってきていた可能性はあるだろうがその場所が非常にピンポイントで全体からすれば有意な割合になっていないだけかも知れぬ。湖東線に使われていたとしてもそこにしか使われなかったら市中にはほぼ影響しないだろう。ただし滋賀県下沿道にぽろぽろ転がっているわけだから、それが鉄道構造物の解体瓦礫から来たものか、入ってきたものの余りなのか、採用に乗っかって販路を広げようとしたのか、は考えておかないといけない。


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