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2023-03-07 [長年日記]

[きたく] 煉瓦研究の理論と実践@無名暗渠

画像の説明

あるだろうと思って行ってあったらやっぱりうれしい。そうして案の定○Dは欠けている。

[きたく] どうするnagajis@谷川暗渠

画像の説明

あるとも思っていなかったものが見つかるとこまる。

これが抱き沢瀉だとわかるnagajisは放置するとしても、ここにあってくれると水野氏の根崎煉瓦工場印でなくなってしまう。かといって明治20年代初頭に抱き沢瀉を使っていたと推定できる工場がない。どうしたものか。一つわかると二つ三つわからなくなるのはチーターの呪いと思われる。

2日めは愛知県公文書館でコピー三昧。苅谷煉化工場については想像していたような文書でなくヘルマン・エンデに見本を見せたく候的な単発文書であった。もしこの時刈谷士族授産所が質の高い煉瓦を供出していたらチーゼも来日してなかっただろうし東京官公庁計画が実行されていたらそこに使われていて日本煉瓦製造も出てこなかったかもしれぬ。全ては実現しなかった未来である。そのかわりに貸下金一件書類で東洋組解散前後の各工場の詳細を得られたのでこれを解読することで状況を明らかにできるかもしれない。西尾には23もの窯があったうえに洋風焼窯とか試験窯まであったというのは驚きである。それと同時に、そんなに沢山あったら焼き色とか焼成痕とかで西尾製品と見当をつけるのが不可能ということではあるまいかと思ったりもする。岡崎の就産所でも最初は煉瓦製造をやっていたことも判明。西尾から人を派遣して教えたが土が向かないことがわかり土管専業に切り替えたという。

東洋組→天工会社→精成社の流れとか東洋組事件の内容も明確になりそう。刈谷も天工会社を名乗っていて工場前にでかい標柱立ててたりしたというから天工会社≒東洋組のようなものとみてよい。東洋組が貸し下げ金の返済不可能になり、工場資産を差押えられそうになったので先に別の個人にそれを抵当にして借金し工場を継続? 東洋組の中で煉瓦製造をやっている部内会社としての天工会社(だったか精成社だったか)。そうして東洋組系列のしがらみを完全に断ち切るために精成社を解散して(株主が損を被る形)同日付で西尾士族生産所。これがM19.3.6だったかの話。その後西尾士族生産所の社長は国だったか県だったかの士族授産のための貸付金制度を利用して資金を得たりしてる←アジ歴。東洋組への貸付金の残余負債は(南部氏が代納するとかなんとかの話もあったけど)齋藤実堯が旧公債証+残金年賦でもって返済することが許可されたが(第二号諮問案。旧公債証額面≒貸付金残余なので目減りしている分を現金で年賦払)、当面国に上納しなければならない金を地方費から支出せざるを得ず、その可否について議会が紛糾したのが愛知県会史のいう東洋組事件。以上9割方うろ覚えの覚書。

ちがうちがう。もともと東洋組は齋藤実堯一人の運営で、東洋組の傘下に煉瓦石製造会社・瓦製造会社が存在しそれぞれに立株&定款があった。その煉瓦石製造会社と瓦製造会社が合併して新会社たる天工会社を興した(ので刈谷就産所も天工会社刈谷分局になる)。このとき株は天工会社株へ移行したようなので煉瓦製造・瓦製造会社株主→天工会社株主となった。天工会社の株主は大半が東京の旧華族。最初に問題になった国貞知事からの貸し下げ金は東洋組にあてたもので、それが解散し天工会社となったために賦金負担の責任が不明確になった(このへんは法整備が行き届いていなかった時代であったための混乱と思われる。あるいはそういう作戦であったのかもしれぬ)。それがさらに精成社となったために事態はややこしくなる。

賦金問題が取り沙汰された頃には天工会社西尾分局が精成社として独立、その株は旧西尾藩士らの金禄公債によって賄われた(東京株主は全損)。それをさらに東京の旧西尾藩士笠松氏が買い取って西尾士族生産所とした。それによって運転資金を手に入れようとしたのかしらん。

天工会社・精成社は純益のいくばくかを東洋組に上納することになっていた。ゆえに東洋組とのしがらみがつきまとっていたわけなり。以上46『上申留』「東洋組始メ会社組織株主資産等取調ノ件」(の筈)。


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