nagajisの日不定記。
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小林教官殿より期末考査成績悪しとて注意されたり。思うに努力全く不足なりき。之は予の勉強の仕方が人に比しまづき証拠なり。今日からでもおそからず、大につとむべし。
午後は八景水谷に於て天幕構築なりき。夏は風とおしがよく、冬等寒き時は工夫てし寒気を防がざるべからず。帰校後運動をなす僅かに二十分間なりたれど塵も積りて山となる如く常に続くれば上達するものなり。今日初めて音読教室に行く。〔「僅かに~」に朱傍線、欄外「暑さに負けず行いたるは可なり」〕
午前中牧野閣下視察ありて我等は化学を行う予定なりしも時間なくして来られず残念なり。ついで教育総監部総務部長後藤閣下(本校十四期陸軍少将)巡視あり。三年は午前中に教練をなす。会食時に話を承るも声小にして聞えず不明なり。擬製弾・装弾子を大部探すも遂に見出さず。柔道は終りぬ。工作にては大部作りて真空管をつけるまで至る。自習時間実に茫然たり。愉快なりと感ずることもなし。凡日なりき。良好。
と言いたい所なのだが予定通りにこなせず。TUKA氏旧橋修正と自分の旧橋をupした迄。朝7時からかかってた割に何で時間食ったんだろうな。。。ちょっと一休みのつもりでここを書く。
まず自分のは大きな勘違いが一つ。掲載しようと思っていた荒神橋、最後の最後まで撮った写真が大正のRC桁だと思っていた。そうではなくて、河川敷の所に架かる短い桁が大正2年のRC Iビーム桁なのだった。何しろ行くつもりではなかったのに、道を間違えて行ってしまった橋だから。下調べがちゃんとできていなかった。まあ、それでも残り2つで鞍馬街道のRC橋としてまとめられただけ運がいいと思わないと。と言った時点で完全ネタバレ。
TUKA氏のほうも自分が勘違いしていて、初代の発電所が(外部改修のみで)内部は昔のままだと思っていたのだった(だから取り出して云々は無理と言っていた)。そこに生じる理論の穴を塞ごうとしてかなりの時間を資料探しに費した。結果、工学会誌に良いほうの知らせが載っていて事無きを得たのだった。つうか最初に見れ>nagajis
気晴らしに昼から本屋に行ったのもアレか。中公新書ラクレに工手学校というものがあることを知り、いても立ってもいられず。創立前夜のことや直後のことは詳しかったが、いちばん知りたい明治40年代のことはわすかしか書かれていず。とはいえ日露戦争の終結で(一転して)人材過多な買い手市場になっていたらしいことを知ったし、What it was 工手学校、特にその気風が良く判ったので満足している。
卒業から入庁までに数年のブランクがあるのもそのせいだろうか。あと、大正15年時点で勲八等。勤続で貰ったとは(直感的に)思えないので、ブランクのことも考え合わせたら、山東省辺りに出兵していたのかも知れない。
前回あんなことを書いてしまったが、ちょうど5年前の今ごろも台風が接近してきて朝鳥キャンプ場に封入されてしまっていたのだった。ここ2、3日は食っちゃ寝の腹痛痒いを繰り返している(いや、旅で初めて病院に行ったな。気圧変化に伴う自立神経の失調云々。薬を貰って気分だけ楽になった)。それでは余りに振り返ることがないので7月12日、鳥越・品又方面へ行った日を振り返って懐古したい。
朝鳥公園に荷を置いて、空身になって出発したのが朝10時。√417を北上して坂内村を目指す。前前日の雨の影響はここでも顕著でまっ茶色に濁った揖斐川を見ながら遡った記憶がある。藤橋村中深部横山から先は一度通ったことのある道。少し懐かしかった。
そういえばこの旅の目的は書いたっけ? 以前から「分水嶺の峠」に興味があって、分水嶺の峠ばかりを巡ってきた。どんなにマイナーだっていい、分水嶺の峠であればいいというようなコレクターマニヤな心持ちで走ってきた。この旅では行き残していた地域を重点的に回ろうと計画し、だから大阪を出発して和歌山奈良三重と大回りして今ここにいるのだった。瀬戸内〜太平洋分水界の峠をずっと辿ってきた訳だ。
中央分水嶺の峠だからといって別段特別なことはない。峠に立った途端に雨が降る事もなければ株価が大暴落したりすることもない。数ある峠の中のいくつかに過ぎない、といい切ってしまうと語弊があるが、ともかくそんな峠ばかり知っていてもちっとも偉くはない。だから分水嶺の峠が好き。この日もそんな捻れた嗜好に従って、瀬戸内〜太平洋分水界の最北端にある峠を目指したのだった(厳密には違うけど)。
その前に寄り道。日坂峠に立ち寄った。何もなかった。続いて新穂峠。上部はひどく廃道になっていて(ホハレ林道と同じ西建産業(株)の作)それなりに面白かった。峠もこの林道でざっくり削られている。越える方向とは垂直に。正面の崖の上に見える看板が新穂峠の看板。
南側へ下る道はほぼ純正な登山道。半分くらしか乗って下れない。倒木も多くてほとんど使われていないように感じた(ああ、何かこの道とそっくりな道を見て「あの道はどこだっけか」と悩んでいたことがあったような記憶が。こっちは思い出したのに。。。悔しい)が、道半ばにはお地蔵様もおられる由緒正しい道。
品又峠。今はスキー用リフトの降乗車場があるばかり(写真は横から。峠道は左右に越えていた)。昔の姿を見る事はできなかったが、正面に伸びるリフトの鉄塔から「この稜線の先には自分の見知った峠が一本の線で連なっている」ことを思って少し嬉しくなった。半フル装備で滑落した五僧峠。土石流翌日の沢登り・白瀬峠。治田峠。桜青山白髪請取芋風の森七越紀見大川。ぶっ飛ばしてもまだ追い付かない、越えてきた峠の数々。走馬灯ってこれだろうな、と思った。
面白い事に峠の北側はすぐそこまで車道が来ていた上、何故かロータリー(径10m)になっていた。のっけの薮で「こりゃきついかも」と思ったのがぬるぬるヌルベーの如くすっぽ抜けた。その抜け具合は下りで動画を撮っていることからも伺える。得てして意味の無い、自分も見返すことのない動画。記念にYoutubeに揚げておく。先に断っておくが期待するような出来事は起こらない。
帰りの√303では旧徳山村に向かった日の思い出が甦るが、ブレーキシューがひどい片利きになってしまった上に修復に必要な工具を忘れて来た。行きがけにひどく漏水していた久瀬トンネルはショートしたのか真っ暗に。帰ってあさりのクリームスープを食い、過去最大の蕁麻疹。
しとろんさん、MKさん、multiさん、原稿チェックしてくださってありがとう。ご指摘反映しました。いいものになってるといいな...
それだけ告げて。続きはまたあとで。
あ、いけない、バックナンバー御注文いただいた方、遅くなります申し訳ありません。そして自転車乗り@福岡さん、メール届いてます、意外ですねあるもんですね。一人ケ塔も別所に残ってたりしたら面白いでしょうね。
L:光学ズームのみ。
M:デジタルズーム併用。
どちらも原寸切り出し、圧縮無し。一応はズームになっているのだな。しかしこれだと上を2倍にしたほうが綺麗な肝摺る。
超脱力。最初によくよんどけって>ばかじす
これが、限界なんかなあ。疲れたなあ。
もう少しで発行できます@PM10:00
十三で見つけていた、T刻印だと思っていた刻印。もう一度確認しに行き「山」だと確認した。下のセリフがない。廃毒書き直さなきゃいかんなあ。
鶴橋で見つけていた「山」刻印も山陽のだとすると、大正6年創業、末期には分裂という割に大阪市場を侵蝕していたことになる(といってもまだ2つしか見つかってないが)。大正2〜4頃の煉瓦不況を経て、大正6の急激な需要増加の頃(この年T8に生産量が最大値を記録する)、大阪の煉瓦会社だけでは需要を賄い切れない事態が発生したのかも知れない。
「役員録」を眺めてみても大正6に成立した新会社が多いことに気づかされる。大阪煉瓦然り、和泉煉瓦(二代目)然り、泉州泉陽煉瓦然り。それだけ煉瓦需要が急増し「旨い仕事」と考えられたということだろう。それなのになぜ堺煉瓦が脱落してしまったのだろう。新聞記事を検索したらヒントが得られるのだろうか。
十三に寄ったのはこの煉瓦を撮りに行くためでもあった。以前歩いた時に見かけていたものだが、バッテリーが切れて撮れなかったというやつだ。
会社名不明。★印が二つと「*RROSIST」と刻まれている。商標大全に「★」と「H.S.FIREBRICK」という組み合わせが登録されていて、それだとばかり思ってたのだが、記憶違いだった。要するに無駄足の記録である。
「H.S.FIREBRICK」は榊原鶴吉桜井鹿蔵が登録していて、彼は「堺煉瓦石」マークも登録していたりしているから、このへんの謎を解く鍵を握っていそうな感じがする。馬鹿の一つ覚えで「H」=「Hyougo」と読んでもいいのだが、次の「S」がわからない。
なるほど、そっちか!
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/119/8/2006_honbunP121-140.pdf
全く同じものが奄美大島で見つかっているそうだ。全体を復元すると「CORROSIST/STAR-BRICK」。H.S.耐火煉瓦製造所として大正5年に創業、昭和5年8月に三石星煉瓦製造所、昭和40年10月にホシレンガ株式会社。
『窯業銘鑑』大正14年版に大阪支所の記載あり。西区西道頓堀1-1。
T10工場通覧では櫻井猛秀氏が工場を所有。
合間にそんな記事を書く余裕をかましつつ。
----------ここから
■福井県が近代化遺産を巡るバスツアーを企画
福井県の公式サイトで表題のようなバスツアーの告知が行なわれています.ツアーは敦賀駅を出発し,旧北陸本線のトンネル群や旧駅の跡を散策,若狭街道の宿場町として栄えた今庄宿を見学したあと,日本海沿岸の河野浦に出て北前船で繁栄した右近家に立ち寄ります.最後に敦賀港に戻り,敦賀鉄道資料館にて鉄道や港の発展史を学ぶという内容です.
各施設は歴史に詳しい地元ボランティアが解説,昼食も北陸本線の駅弁を再現した復刻弁当が振る舞われるという徹底ぶり.またお土産として「旧北陸本線の歴史にまつわるものをご用意します」とのこと.
ツアーの申し込みは京都新聞旅行センター(電話075-256-2233 )へ.参加費は京都・滋賀からの乗車の場合5980円,敦賀からの乗車は4980円となっています.運行は7月から10月まで,月2回から4回実施されるようです.詳しくは参考リンクのpdfをご覧下さい.
・参考リンク
福井県公式サイト
http://www.pref.fukui.jp/doc/kankou/kindaika.html
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発行した。。。と書くのも考えてみれば久しぶり哉。
今回は15日ではなく14日を休みにした。前日にほぼ完成させておいて15日は最終調整という魂胆。個人的には上手いこと行ったと思っているが、いつもどおり23時過ぎ発行になったので結果的には「いつもどおり」である。進歩がない。
明日はいろいろやらなければならぬ。土曜18時30分〆の件と19日までに用意しておきたい件を片付けねばならぬ。
書かれてあることは至極ごもっともなことで、うんうんとうなづきながら一気に1/3ほど読んだのだけれども、そういう入ってきやすい文章ほど眉にツバして読まなければならないと思っている。別に何かに/誰かに楯突こうとか、内容がどうのという話でなく。じゃないと「読んだ」という記憶しか残らない気がする。
産業技術博物館=技術者の卵を育成するために必要。科学知識を理解するためのものでなくて。自然科学の原理を模型で理解することは、科学教育には必要だがモノづくりへの興味には結びつかない、という説。そうだろうか? と考えてみた。ラジオの仕組みを模型や解説で理解することと、実際にラジオを組立ててみることと、どっちがエンジニアリング道へ入るきっかけになるか。人それぞれなんじゃなかろうか。実際に自分で作ってみることは理解の第一歩であり王道である。それを面白いと思い続けていこうと思うかどうかは、やっぱり人それぞれなんじゃないかな。技術が複雑化し深まってあらゆるものがブラックボックス化している。そのブラックボックスを理解するためには、例えば私が小学校の間に学んだことよりもはるかに多くのことを知らなければならない。それ考えると仕組みを手っ取り早く理解し、それの応用とか組み合わせとかをしやすくすることって大事なんじゃないか。まあ、そういうやり方の博物館が行き詰まっているのだから同じ轍を踏んだところで上手く行くわけないか。
思い切って「モノ作り=尊い」という構図をぶっ壊してみてはどうか。モノづくりにのみ依存してきて立ち行かないのなら他への転換を図ってもいいんでないか。それこそIT技術とかさ。あれは資源を必要としないのだから。モノづくりを生業とし続ける限り、原料を買ってくる手間とか製造コストとか人件費ガーとか続けなければならない。今外国で始まっている「Pokemon Go」とかすごくいい線行ってると思う。
この手の話では必ずアイアンブリッジ峡谷が出てくるけれども、日本があれをお手本にすることはできるんだろうか? ドイツの製鉄ミュージアムもそう。そういう場所がないというのもあるし、見て「すげえ」と思う心が、風土が日本にあるんかな。なんだろう、日本はこんなに素晴らしい国なんだ! っていう話を見たり聞いたりした時に、そうそうと納得する思いがある一方、自分のことではないような、こっ恥ずかしくて直視できないような感覚、がどこかにある(少なくとも自分には)。外国人が日本の良さを褒めて、それを聞いて「いいことだったんだ」と知るような感じ。知ったところでそれを宣伝してみようとは思わない、自分自身を褒めようとは思わない、そんなふう。アメリカ人がアメリカに対して抱いている愛国心のような愛国心は日本にはない。日本に住んでいながら政府のやること役所のやることに反感ばかり抱いていて、そのくせアクションは起こさない。そんな無関心。
日本人がアイアンブリッジ峡谷のミュージアムを見て、イギリスの産業革命を知り、その偉大な足跡に陶酔することはたぶんできる。けれども石見銀山や富岡製糸場などを見て、陶酔し、日本の過去に尊敬の念を覚えたりするかな。「すごいね」っていってお終いなのが関の山なんじゃないかしらん。そこで素直に誇りに思えるような、そういう風土をまず醸成する必要があったんじゃないだろーか。
てなことを、読みながら考えた。出版は2000年。それからもう16年も経過しているのにほとんど変わってない世界。
淡々他端胆立たんと作る。これでもうしばらくは背伸びして書かなくて済みそうなので、それだけでもホッとしている。
以前お教えいただいたことにつき、大きな勘違いをしていたことを悟って、近々再訪したいものだと考えていた。そうして行ってきた。この酷暑の中。確か前回もそんな暑さの最中だったと思う。溶けはしなかったが帰りがきつかった。
胡乱な記憶を整理して、現場状況を確認して、また煉瓦を掘り繰り返して、結果あれやこれやがストレートに繋がった。そうなのだ。この橋台が「建て増し」されたものであるとせば、刻印の違いも厚さの違いも説明できるのだ。而して実際ケロヨン君のいるほうは厚56mm、そうでないほうは厚54mmという違いがある。目地の仕上げも違うのだよ。
……あれ。よく見たら右と左でアーチの大きさ違うじゃん。
探しものは、最初に手に取った一個で自摸和了。地和ってやつか。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796879/115
[鉄道作業局]規程類聚. 附録 明治三十四年九月現行。桂川橋梁の橋脚跡はたしかに12フィートだった。
作成している最中にキーボードが変になっていることに気づく。Indesignで縦中横しようと思って左Alt+ctrl+Hしたら反応しない。右Alt+ctrl+Hしたらちゃんと反応する。Hか左Altが変なんかと思ったらそうでもないようなのだ。ctrl+左Alt+Rでルビとか出るもの。
んでたったいま、shift+yで大文字のYが出ないことを発見する。yは出るのだ、shiftと組み合わせると出ない。ううむ。どういうことだ。
Y。右shiftでは出るんだよな…。ていうことはなんか左のコントロール系がおかしいようだ。
もう一回全部分解せなあかんのか・・・。めんどくせえ。
終えてしまえばもう何ということもない。また一つ積み上がったガラクタの山。読めばきっと書き直したくなるに違いなくて、というより読み直す暇もなくて、また次のを書かなければならないという切迫感だけが残る。そう思ってしまうのがまずいけないのだろうな。
今はまだネタがあるからいいのだが、これで書くことが尽きたらどうしようと戦々恐々としている。かといって書かなくなってしまったらますます存在理由がなくなってしまうのでな。生きるために書いているのではなく書くために生きているようなものだから。まあnagajisだけの都合だが。
今回は前号を終えた直後から書き始めて1日余裕をもって終えられた。本来ならこういうペースでやらないといけないのだろう。でないとTUKAさんが大変だ。しかし調べ物とか次のネタのこととか煉瓦とかやっているとどうしても前半は休みたくなる。ちびりちびり書いて調べてしていくしかないか。原稿書きやpdf作りで休みが丸ごと潰れるのはかえって非効率だし自分自身もしんどい。
ここしかチャンネルを持たないのでここに書く。無料にしたところで読んでくれる人が増えるとは思っていないが、罰みたいなものだ。梅田の歩道橋と日本橋で路上販売したようなもの。
小見出しに入れたらリンクだとわかりづらいな・・・。 今号は無料公開です。
だんだんひどくなってきていないか。これで明日から出かけようっていうんだから。まあでも長旅の時はこの体で毎日野宿だったのだ。できんことはないやろ。
尼崎市長や兵庫県知事を務め、1975年に亡くなった阪本勝氏の追悼文集。追悼文集のほうがかえって良かったかも知れない、この人のことを多角的に見ることができるので。そのかわり批判的な言説は期待できなくて、しかし批判を浴びまくって評価が二分されるような人ではなかったように読める。尼崎市に競艇場を作っておいて神戸では競輪場を廃止するってのはちょっと矛盾しているように見えるけど。
素養があり、人間的に魅力溢れた人だったこと、但馬が好きだったということはよくわかった。過去の人だからそう感じるのかも知れない。いま同じことをする知事がいたら人気取りとかポーズとか、そういうものに感じると思う。田中康夫氏が長野県庁の知事室をガラス張りにしたのとさして変わらない。そこに詞があるが否かと、それをやっても嘘くさくない人となりがあるかないかの違いかしらん。
何も考えずにキーを叩いてテキスト入力している間が一番楽しいのだと気づいた。調子さえよければ際限なく売っていられる。てにをはで悩むことも語彙のなさに糞詰まって投げ出したくなるようなこともないからだろう。
ところどころ整理番号が飛んでいるのはなぜだろう? 41号から75号まではきちんと廃止されていて、S34の時に41~50いくつかまでは認定があって、その後ろが100番まで抜けている。ここは予備に開けてあるようにも読めるけど連番の途中が抜けているのもあるんだよな。戦前の指定がそのまま生きているということだろうか。そのへんの確認は終わってからすることにして今はテキスト入力に専念。
雲雀丘停車場線と花屋敷停車場線が別個に認定されていて、それが今も残っていて、しかし両方とも雲雀丘花屋敷駅を起点にしているらしいのがちょっと面白かった。二駅統合され雲雀丘花屋敷駅になったのは昭和36年。認定の2年後か。
横山隧道開通100年記念行事のために村田氏経歴調査をやっていた頃のことを振り返っている。我ながらよく頑張ったものだと思う一方、あれが限界だったのだろうかと思ってみたり、おれがやるべきではなかったなと思ったりもする。もっと貪欲に、自分のこととか度外視して、金を注ぎ込んでできる人がやるべきだったのではあるまいか。知り得たことを直接的に活かせる人がやるべきではなかったか。中途半端に調べて中置半端に切り上げてしまったのではないか。振り返れば後悔ばかりだ。
あれから自分はどれだけ成長しただろう。全然していないんじゃないか、と切り捨ててしまえば切り捨てられようが、その後奈良県きにちょをやったし、豊岡に通ったし、福知山線でレールを学んだし、何より煉瓦が現在進行中で。やっていることは確かに変わっていないが全然蓄積がないわけでもない。時にはセルフコンパッションがないとニンゲンやってられんぜ。
山田博愛らが滋賀県に移ってきて、博愛が去った後に元埼玉県土木課長だった原清明が短い期間滋賀県土木課長を務めていることに気づいた。その時に村田鶴も滋賀県に着任した。なぜにここまで移る必要があったのだろう。それ以前の滋賀県では土木費補助の工費算定基準が二十数年前に作ったものを使い続けていたりとか、かなり遅れた状態だったらしい。そのため県費補助を申請した工事のほうがいつまでも認可を受けられず、町村で全額出して工事する道路のほうがどしどし改修が進むというような状態であったらしい。そういうところを抜本的に改善しようとしたのか。それとも河川改修の経験が買われてのことか。村田以外は土木技手兼道路技手、村田は道路技手に土木技手を兼任する形だったのが意味深。
あと中澤徳次郎が短期間内務省の土木試験所に勤務していたらしいことを発見。本邦道路隧道集覧に湖北や大崎のデータを持っていったのが彼だったりしたら面白いのに。でも彼は昭和12年だったか13年だったかに逝去により土木学会員でなくなっている。早くに亡くなってしまったようである。海野照治は広島から来て広島市に帰り市の土木課長を務めた。回顧談が国立国会図書館限定資料にある。動きかたは村田鶴によく似ている。
あと、千葉市土木課長時代に千葉霊園の工事計画を報告した投稿を発見した。読むと隅々まで意を尽くした設計であったことがわかり、彼のポリシーというか公共物に対する態度というかが伺い知れる。彼がいう市の重役の葬られるエリアに彼の墓があったはずで、自作自演?とつい思ってしまったが、そうだった、市から区画を贈呈されそうになったのを断って自腹で購入したのだ。文句をいわれる筋合いはこれっぽっちもない。
_ iso [いま7月14日23時過ぎですが、15日の日記が読めるのはジャンプだけ!]
_ nagajis [いつものことですよアハハ]