nagajisの日不定記。
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"物語性”の重要さ。日本遺産におけるストーリーの概念。
そのものの良さを伝えようとするとき、そのものの歴史を語るだけでは*いけない*と思う。うまい言葉が見つからない。いくら私が「横山隧道いいよ!」と叫んでも伝わらない。何故か。そこにストーリーがないから。共感の手がかりがないから。情報として与えられるだけなので授業で強制的に学ばされたこととかそこいらの看板広告と変わるところがない。 幸い、横山隧道には、ここまでお話してきたような物語が明らかになっている。足りないものを加えれば十分活用してもらえるものと思う。思いたい。
横山隧道の歴史を語っておしまいでは*ならない*。というか不可能。建設に携わった人々、家棟隧道や佐和山隧道との関連、道の担った役割。特に道を通してのつながり。お話したような歴史を調べていくなかで「ああ、道はこうやって繋がっていくんだ、歴史がこう繋がっていくんだ」と感じた。すべての道はローマに通ずという諺があるけれども、自分にとっては例え話ではなく事実としてそれを感じる。歴史の連綿で繋がっている。事実を体得したという思い。
歴史を学ぶということ。歴史を学ぶ、自ら紐解き自分のものとすることで、自分が生きているいまにこのように繋がっていくのだという理解があった。納得した。ああ、自分の生きているこの国はこうしてできあがったのだと知れたこと。その理解によって、ようやく、自分という存在のこの国における、社会における位置づけがわかった気がする。横山隧道に興味を抱いてあれこれ調べたもの好きという私。それでいいのだという。ここまで明らかにできたことによって私もこの道の歴史に組み込まれたという思い---ただ通るだけでもトンネルを構成する歴史の一部になる---。自分の行動行為が歴史の一部になるというのは何も他に勝る何かをしなければならないわけではない。テレビに出るとか有名になるとかいうだけだと思うから関わりを持とうと思わなくなる=歴史に興味を失う。
いまがこのようになった過程を理解すると、いまを肯定することができる。この不便には理由がある。以前はもっと不便だったのだ。これ以上を望まなくてもよいだろう。諦めではなく自然な感情で。不便をかこつ思いが減る。不遇を嘆くことの愚を悟る。
土木遺産を通して得たこの感触、歴史というものへの理解、はもし自分以外の誰かが感触したとしてもその人の糧になるだろうと思う。それを伝えたい。