nagajisの日不定記。
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菊池会なり。
起床 五時四十分
食事 六時(各個)
集合 六時五十分
七時に出発し以て隈府の菊池神社往復行軍をなさんとす。往復十一里余なり。
予は三時に再び腹痛のため、行かずして、終日就寝し、二・三度眼をさましたのみにて他は眠りいたり。故に夕方にすぐなりたる感じしたり。六時半友は復りぬ。皆大部へたばりたる模様なり。朝・昼食は断じ、二十時に至り始めて食し、腹の満てるを知れり。以後は再び寝ねたり。
午前中学習、午後は十五時半まで集会所に遊び後一時間眼る。目睡〔覚〕めたれば頭痛して寒さを覚ゆ。何くそとて点呼まで頑張る。病魔撃退週間に何たる醜態ぞ。外出止解かれ皆多く外出したり。
なんで口挟むかな>おれ。きっとボロがでるぞ。
nagajisが阿呆であることを書いて罪滅ぼししておこう。次号の「北摂線描」で取り上げる予定の峠に、とても特徴的な木が立っていて、「これこそ旧街道の目印だ!」などと息巻いていた。高さは20mくらい、樹皮はサルスベリかマダを剥いだ杉桧のようにつるつるで、くるりとめくれような格好で皮が剥けている。葉は線形の互生だ。
nagajisは可笑しいくらいに植物の名前を知らない。散々調べ回って、植物図鑑やら樹木図鑑やらを何冊も当たった結果、ようやくそれが「ユーカリの木」であることがわかった。
ものすごい脱力感。ゴルフ場の建設の時に植えたんだろう。
その脱力感を埋めるべく、もう一つの進行中企画に没頭する。フェーズBは成功。一気に最終段階に入る。しかし誤差が大きすぎる・・・本物でもこんなに汚くないぞ。tanβも何もあったもんじゃない。空き缶を外す瞬間が恐い。
土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブスの橋梁史年表が正式公開になってる。準備中のところをつついちゃったのかな・・・。
須川橋梁のデータを見つけた頃はアーカイブストップの*印にリンクが張られてた。Googleか何かで文献リストのページが引っ掛かって、それで検索ページに遡ったんだと思う。トップに戻って、まさかこんなんにリンクが張っていようとは思わなかった。有り難く使わせていただきます。
Namazuってのがいいな。こういうの好きな人がいるのだろうか>中の人
CD#2と並行してmulti氏の寄稿を編集している。興味深い内容であり企画テーマにもぴったりなのだが、もう少し手を加えたらもっと良くなるのに、と思ってやっているうちにずぶずぶはまり込んでしまった。も少し遅くなりますごめんなさい>multiさま
他の人の書いた文章を校正するのはとても勉強になる。誤字脱字を訂正するのは(ある程度)間違いようはないのだけれども、例えば「ここはこうしたほうが読みやすい」と思う個所があったとして、その通りに書き直したものが、果たして万人にとって読みやすいかといえば、多分そうではない。新聞のように5W1Hどころか文章構造起承転結まで定型な文章を読み慣れている人もあるだろうし、難読字の連なりにたゆたう心地よさを求める人もあるだろう。また流し読みでざっと眺め読むタイプの読み方と一字一句を理解しながら読むのとでは読みやすさの基準も変わってくる。きっと。単に「こうすれば読みやすい」という考えから書き直したりすればそれこそnagajisくっさい文章になる。「自分ならこう書き直すだろう」というのはすぐに出てくるけれども、作者の意図を汲み取りつつ、それを最大限に活かしながら、最大公約数的な読み易さにすることが難しい。
そのうちだんだんと、自分の文章感覚が疑われてくる。自分が読み易いと思っている文章は実はnagajisにしか通用しないんではないかと。校正することで自分だけが面白い・分かりやすい文章をこさえてるだけなんじゃないかと。恐ろしいことである。
文章に「正しい文章」というものはなく、あるのは「自分こそが正しい」という過信である。んなことを以前考えたことがあるような、ないような。それでも校正したくなるのは一種の業みたようなものなのだろう。などと書くと校正作業に嫌気がさしたように取られかねないな。そんなことは全くなくて、校正はそうやって自分の書き方を見直す良いチャンス、というより唯一無二の機会であるからやりたくなるのだよきっと。
月頭に発注すればちょっとだけお安くなりそうな塩梅。タイミングよく2月になるから来週月曜には片付けてしまうだろう。ナガカッタ。
前回BeOSで焼いて94%の認識率?だったから、今回は別のマシンで焼いてみることにする。実はMac(OS9)のデフォ(HFS+/ISO9600)で焼くのが最強だ。WindowsやUNIXではISOで読め、Macからはリソースフォークつき(即ちフォルダアイコンとかラベルとかついた状態)で読めるという、誠に玄妙なCDになる。スタンパーを使う本当のCD量産、要はCD-Rの鏡面の凹凸を引き写しにするわけで、ちゃんと焼けてさえいればフォーマットは何でもいいのだ。
そうして出来上がりは発行日の前後になるはず。それまで手を放して次号作成に勤しむ。んで、15日以降にWeb販売やら何やらの手筈を整えてと。こう見えてもちゃんと考えてるのよ。確度(傍点)とか。
先日奈良大学図書館へ向かう道すがらで見つけた公園遊具。色合いといい煤け具合いといい何とも言えない気を放っている。成分の一つは「倦怠感」だろうがそれだけではやや言葉足らずな感もある。映画版『AKIRA』のナンバーズの部屋や部屋にあるものものは「寂れた遊園地色」で描かれたそうだが、白日の下に曝したならばきっとこんな色具合になり物体になるだろうと思う、などと突然な例えをしてみたくなるのも無理からぬ話に違いない。
(この角度からは)モチーフが何なのかよくわからないのもいい効果となっている。顔として作られたようでもあるしたまたま顔に見えるだけのようにも取れる。いずれにしてもその顔は色合いに似つかわしい虚ろ具合でこれが何よりもいい。私のように反対側へ回ってそれがピエロであることを知ったりなどせず、この角度のこの物体を純粋に鑑賞し味わうことをお勧めしたい。
最近うちのガスコンロが不調。
ガチャコンガチャコン回して点火する古ーいタイプのガスコンロである。剛の者である。何回回しても点かないこともあれば一発で点くこともあるし、ガチャコンガチャコンガチャコンガチャコンガチャコンガチャコン回してイライラした挙句ライターを持って来たら次の一ひねりで点火したりもする。ガスコンロにからかわれている気がしてならない。
このタイプのものはシンプルだがうまく計算されていて玄妙である。ノズルからガスが出て、点火に最適な量の空気混合割合になる場所に点火プラグがあって、回すタイミングに合わせて火花が飛んで点火する。どっかで微妙な狂いが生じているのだろうと思うが、具体的にどこが狂っているのかがわからない。ノズルにごみが入ってガス比率が下がっているのかも知れないし、下手に掃除したときにガスの流れを変えてしまったのかも知れず、はたまた空気取り入れ孔にモノが詰まっているのかも知れない。中でおチビちゃん達がフーフーしている可能性もある。
不調の原因に思い当たる節がありながら「かも知れない」と考えるばかりで何も行動していない。「不調だ」と嘆きながら何もせずガチャコンガチャコン回している。そんなnagajisがいちばんの不良品かも知れない。
最近の料理の使い回し(食い回し?)がひどい.
カレー大量につくる→2/5食う→2/5食う→1/5カレーうどん→残った汁に二合飯投入・何を勘違いしたか卵2ヶ投入→3/5くう→残り2/5を炒めて食う,でやっと食べ切った.足掛け3日の一大スペクタクルドラマである.
焼き飯にする時に何迷うことなくキャベツを刻み始めたnagajisが意味不明.
_ ocoze@三重 [キャベツにタコ焼き,一番下げっちゅー!]
以前小曽根の煉瓦工場について字向イ山だったんじゃないかと書いた者だが。どうも自分の早とちりであったらしい。コピーし損ねていた新聞記事を取得しに行った時、他の記事でも関西煉瓦石のことが載っているのを発見して、そこでもやはり「字白山」となっていた。1つ2つじゃない数の記事で。故に「字向山」を書き間違えたものではないと訂正せざるを得ない。
加えて、明治29年に豊島煉瓦が設立された時、その本社は桜塚に、工場は小曽根村字紅山と豊中村字市ヶ谷に築こうとした。ここでも小曽根が出てくるのだ。何か関係があるんじゃないか。
それで、24日のエントリに書いた予定地跡散策に相成ったわけである。この日は特にこれといった発見はなかったが、帰り道に、ふとした閃きがあった。
字市ヶ谷の近くに「城山町」という町名がある。
城山。しろやま。白山。ひょっとして小曽根の煉瓦工場の字白山って、いまの城山町のことなんじゃないか?
城山町は字市ヶ谷の東隣といってよい位置にある。城山という小字もある。しかし「新修豊中市史」の小字図ではどちらも大字小曽根の範囲に入っていない。中之島で見つけた小字リストでも旧小曽根村の村域でないらしく書かれてある。が……考えてみたら明治19とか20とかの話なんだよな。その後市町村制が始まって町村整理された結果小曽根村や豊中村が成立した。資料に書かれてある小曽根村はそれからさらに半世紀以上経った頃、豊中町と合併して豊中市になる直前の小曽根村なのだった。昔は小曽根が城山町のほうまで拡がっていたんじゃないだろーか。
字城山はこの辺り。岡町の丘が落ち込んでいく辺り、古墳時代には岬か鼻かであったような場所。今はそのてっぺんに墓地があり、丘の麓には寺社が並んでいる。その周辺はマンションや住宅街が連なっている。どこにでもありそうな「住むための空間」に今はなっている。
けれども、元「白山」であるとしたら、山全体が煉瓦素材の粘土であったかも知れない。煉瓦に使う土は白かった。「焼くと赤くなるんは不思議やねえ」とバンレンのあの方も仰っていた。
段丘のどこかにあったというのもあり得る話。登り窯で焼くことが当時は多かったから。平地よりも傾斜が必要なのだ。
というわけで、24日も少し歩き回ってみたのだけれど、これといった発見はなし。今日また散歩がてらに歩き回ってみた。関西煉瓦石に直結するような発見はなかったけれども、意外な刻印煉瓦が出てきたりして、ちょっと面白かった。
例えば兵庫県印南郡阿弥陀村で見かけていた「日」刻印。 山陽窯業を重ね合わせたものだと勘違いしていたやつだ。それがこんな近くにあるとは。チョボがついているのまでそっくりだ。藤井寺の前にある樋の固定用に使われていた。
上に写真を掲げた墓地の片隅にはこんな刻印煉瓦も。『/』を三分割したような刻印。阪鶴鉄道で見られるものにも似ているが、向こうは歯車を転がしたような感じであって、これとはちと違う。むしろ『/』を割ったというほうがあっている。
収穫はいろいろあったのだが、肝心なことが何一つ解決しなかったという困った結果になってしまった。知りたいと思うことがあることはいいことだと思うけれども、新しい方程式が一つ得られるごとに変数と未定係数もまた増えていくようで、いつまでたっても解ける気がしない。
市古なんちゃらの丸印は愛岐トンネルでも見つかっているそうなのだが、「三河国碧海郡北大濱町」というのは明治25年8月1日に新川町になっていて、M29から建設が始まった愛岐トンネル群でなぜ出てくるのかちう新たな問題が発生する。木曽川橋梁の改築はM25.2.なのでまだ間に合う。木曽川橋梁は井筒は生きていたが水面下数フィート以上は積み直してある。ただその積み直しの前から3インチ煉瓦が使われていたらしいことは揖斐川橋梁の偶数番橋脚と東側橋台の井筒が証言している。
三川のどこにも勢陽組印は見つからず。しかし「エー」「ビー」「シー」は確かに使われていて、それに□で囲った小さなカナ印が添えられていて、多度や諸戸家で見たのとは違う。同じ会社の異なる時代のものと見るべきなのか、そうでないのか。「エー」「ビー」「シー」は斜め井桁も使ってるしな。しかも「エー」と「シー」とで形状がほとんど変わらない。困ったことである。
せっかくいろいろ見つけても関西地方ではないのでbdbに載せられない。困ったことである。
_ multi [お手数をお掛けして大変申し訳ございません。 主題を明確にしつつもダラダラと長くするのもどうかと思い簡潔な内容にしたつもりなのですが・・。 編集部の手によってどう変わるか楽しみにお待ちしています。]
_ しとろん [一応雑誌編集者だったりした事のある身としましては、校正に関する稿、まったく同じように思いながら仕事をしていましたよ。]