nagajisの日不定記。
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拾ってみたのはいいがあまりウマくない。もう少しやり方を検討してからのほうがよさそうだ。例えば目次から煉瓦会社を拾ってリンクだけ貼るとか、通年拾って会社役員・規模の変化を見るとか。ここにあるからといって煉瓦を製造していたとも限らない。阪堺煉瓦とか泉陽煉瓦とかは工場通覧でも職工数ゼロのまま2、3年もせずして消えている@統計書。
大阪煉瓦石と津守煉瓦には直接の関係はなさげ・・・。むしろ大阪煉瓦石に伊藤定吉がいたのが発見。解散直後に高橋宇吉とともに阪堺煉瓦を設立している。
大和煉瓦は大和郡山に会社所在地があった。県の公文書でもそうだったはず。それを稲田氏が引き受けて経営を続けたのだったと思う。
朝日新聞明治19年12月4日の記事。強調筆者。
●開業式 明日は豊島郡小曽根村字白山に設立せし煉瓦製造場の開業式を執行し其余興には相撲烟花等の催ほしあるよし但し其持主は彼の衣食住改良の目的を以て設立せし北区桜橋南詰の四明楼なりとの事
その3日後の12月7日版には次のようにある。
●煉瓦製造開業式の景況 一昨日府下豊島郡小曽根村に於て行ひたる煉瓦製造場の開業式は予記の如く烟花あり相撲あり又招待に応じて来会せしは紳士紳商あり鎮台士官あり和洋折衷混合の饗応にて芸妓の席上に周旋するあり頗る盛なりしかど何分一小村中へ多人数群衆したるものなれば接待向等非常の雑沓を極め其盛会なりといはんよりは寧ろ混雑なりろいうの適評なるが如きありさまにてありし
というわけで、小曽根村の煉瓦工場は村に似合わぬ賑やかさで始まった。さらに後日、この煉瓦工場の好況を伝える報があった。増資したうえで「関西煉瓦会社」と改名するというもの(なのだがプリントアウトし忘れた……)。
『大阪府統計表』明治19年版の工業の欄を見ると、確かに小曽根村に「関西煉瓦会社」がある。しかし翌年には「小曽根煉瓦工場」という素っ気ない名前に変わって、21、22とその名前で掲載が続き、明治23年版を最後に消えてしまう。
その一方で、兵庫県明石郡垂水村(の内の山田村)に「関西煉瓦会社」が興る。明治21年1月24日創業、その秋にはジョン・ウェイクフィールドなる英国人を招いて煉瓦製造の教授を受け、英国流儀に則ったプレス式の煉瓦製造を開始した。そうして出来たのが例のH.J.△B.C.刻印煉瓦であるらしい。
明石の「関西煉瓦会社」は明治30年頃まで操業したらしく、その煉瓦は大阪紡績所@大阪市大正区、吹田麦酒製造所@大阪府吹田市、神戸市旧外国人居留地なんかで見つかっている。西九条の市街地の壁や阪急十三駅の東側路傍に埋まっていたりもする。案外広範囲に流通したようだ。
その間「小曽根煉瓦」は何をしていたのだろうか? どんな煉瓦を作っていたのだろう? ひょっとしたら明石の「関西煉瓦会社」の第二工場的な役割を果たしてたんじゃなかろうか。みたいなことを考えた。
少し前、小曽根煉瓦工場の跡地を探しに小曽根に行ったことがあるのだけれども、その時には上記のような関係があったことを知らなかったし、それらしい場所を特定することもできなかった。改めて「小曽根村字白山」という地名を頼りに探してみることにした。
まず文献で「白山」という字を探すところから始めたのだが、そこからして難航。大正年間に発行された『小曽根村誌』に字一覧があったのだけれども、そこに白山なる字はない。もちろん煉瓦工場の話も出てこない。
うーむーと悩みつつ字一覧を眺めていて、「字向山」というのがあるのを見つけた。「白」と「向」、草書でしゃしゃっと書けば似てないこともない。ひょっとしたら字白山ではなく字向山なのではないか。
図書館の方に相談したら『豊中市史』第一巻の付図を出してくれた。現在の地図に小字を書き込んだものだ。それによると字向山(正確には字向イ山)はこのへんであるそうだ。今は若竹町といって、以前自分が見て回った小曽根町の北隣にあたる。小曽根村がそこまで広がっていたとは思わなかったので見逃していた。
地形的にもそれっぽい。小さな丘になっていて、その南方には広い耕作地、西には2つの大池があって粘土は豊富に入手できそうだ。丘ならば登り窯を築くことも易かっただろう。
というわけで再度行ってみたのだけれども、現地はすっかり新興住宅街になっていて、地面が露わになっているところを探すのさえ難しい状況。大きな写真は住吉神社の下から西のほうを向いて撮ったもので、あったのならここだろうという場所だ。府道に面したところはすべて商工業の建物で埋まり、その裏手の丘の麓も新しい住宅が占拠めていた。丘に登ればさらに新しい住宅街があって、嘘臭いほどに小奇麗な日常が展開されていた。
隣の字も含めてあちこち歩きまわってみたけれども、ズバリな痕跡も煉瓦も見つけられず。大阪窯業とか岸和田煉瓦とか六稜星とかは見つかったんだけどもな。唯一琴線に触れたのは写真の煉瓦。定格でない大型煉瓦で、こればかり使われている花壇が住宅街の中にあった。手成型煉瓦だが刻印はなく、いつどこで誰が作ったものかわからない。そばに六稜星煉瓦が転がっていたが関連は不明だ。
西隣の字にはこんな地蔵堂があった。煉瓦が使われているけれども平が露出していない。隣の階段もコンクリートですっぽり覆われている。
まあ、そりゃそうだわな。。。今から100年以上前に、ほんのちょっとの間操業していた工場なのだから、痕跡が残っているほうが奇跡なのだ。しかもこんな市街地で。
計画だけで着工にすら至らなかった鉄道会社なんていくらでもあるのに、<br>載ってる会社、載ってない会社があるんだよなあ>日本全国諸会社役員録
釈迦に説法でしょうが、発起>免許取得>会社設立(その後未着工で解散)と、会社設立にも至らず修了したものとの違いではないでしょうか。<br>あるいはこの本の発行元である商業興信所の会員になっていたかどうか、かも知れません。年60円~200円の会費を払い、自社に関係ある会社の信用情報を連絡してもらったり、任意の会社の信用情報を取り寄せたりできる、というシステムだったようで、その加入者がこの本に載っているのかなと。