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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-04-28 この日を編集

[陸幼日記]四月二十八日 月曜日 晴

近頃暑きには大変困りぬ。体操(五時限)終予後、教頭殿のもとへ行く。十五時三十分より十六時三十分まで自習を為す。夕食後は台上にて軍歌演習行う。それより二十時まで集会所にて読書


1942-04-28 この日を編集

[陸幼日記]四月二十八日 火曜日 雨

相変らず雨なれど陰気にして気暗し。されど気温は多くして裸体なるも変化なし。終日昨日の柔道の痛みあり。
午後は唱歌・自習ありて術科なし。
一日休養的な〔る〕日なりき。


1943-04-28 この日を編集

[陸幼日記]四月二十八日 水 曇

涼しき日なりき。倦怠も相当良くなり授業も実が入りたり。アンナ・ドル さんの独語会話も面白く出来たり。午後は三時間教練にて密集教練・着剣捧銃・射撃予行練習。地形地物の利用に付き行われたり。酒保なく、一年の大場淳二・浜・茂木・森田が自習室に遊びに来て、それと語る。放課後より消灯まで何も行わざりき。稍〃気を緩めたる故なりと思う。夕より雨。良好なり。


2008-04-28 淡々と作業報告 この日を編集

[ORJ] 旧橋、プチ濃up

一気に玉手橋をup。鉛色写真を調整するのが上手くなった。プチ濃は校正を入れて章扉の修正。方向はこれでいいのだろう。か。

昼間は図書館に行っていた。アホや、大阪市立では戸倉の旧版地形図は手に入らんのだった・・・高野山も然り。総本山別院へ行かねばならぬのか。

それよりも、だ。若桜町からいただいた資料にどえりゃーことが書かれてあってだな。ドキドキして眠れなかったりする。

あとは自分の体が持ちさえすれば。独言。

天気がいいせいか、夜の冷え込みがちょっと厳しめ。セーター一枚要るな>OFF


2010-04-28 この日を編集

[企画] 大杉谷

画像の説明

masaさん曰く、このルートのほうが早いだろうとのこと。地形図に道はないが山の登山コースにもなっているそうだ。だから2日朝に宮川発電所付近に集合ということになる。軌道跡では2泊ないし3泊する予定。うち一日で不動谷支線へアプローチする。参加希望の方はnagajis@the-orj.orgまで。

食料は大阪で用意していくべきかも知れない。大台のマックスバリュは9:00〜24:00営業であった。

そのまえに、、、ちゃんとフォローをしないと。謝んないと。


2011-04-28 晴雨不論 この日を編集

画像の説明

下市町某所にて.大峰渡りは講を結んで登るのが伝統的で,而してそれは平成のいまでも続いている.それに惹かれて撮ったわけだが,それに加えて「雨天決行」の意味で使われている語の覚書のつもりでもあった.いつか使っちゃろうと思いつつ毎回忘れる.そうなんだよな,雨天決行だと雨の場合しか言及してない.

金剛水力電気の件を調べていて,水越峠と大峰渡に関係があることを知った.大阪平野から大峰渡に出るには水越峠を利用するのが多かったらしい.洞川の宿から水越峠まで迎えが来たのだとか.この逸話,一言でそう書いて「ふーん」で終わらせるには惜しいいろいろが詰まっている.宿の迎えは山上街道を歩き通したうえに広橋峠を越えて重坂を越えて水越峠を登ってを2セットなのだ.今日の旅館のバス送迎とは訳が違う.

[] 安治川4/10

昨日を取り返すべく働いたが4/10しか畏寒買った.約分すると2/5だ.その必要性および意味はともかく小さくなった感じがしてさみしい.さもしいともいう.どのみち全部終わったところで通しで調整せなあかんのやからあと3/5日=次号間に合う!とか考えないほうがいいのかも知れない.

今日は沈埋管受け口の修正の意味がわかった.なんで最初からそうしなかったんだろう&アンカーなかったんだろう.ブツは早くに発注してたんだから早い段階に変更してたはずだが.あと,中間払の申請にいちいち出来形明細つけるな>清水組.

役に立たないまめちしき:
大阪市は自前の造船所をもってた.
西九条駅の反対看板は撤去されてる.
南口のシャッターが新しくなってる!

ホウ。切抜きは大阪朝日であったか。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentView.jsp?METAID=10075063&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ bnb206 [晴雨不倫と読んでしまったわたし・・・]


2012-04-28 この日を編集

[帰宅] 1ねんぶりのこうりゃく

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[キノコ] くさいきのこ

画像の説明

ええっと,何でしたっけ.

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ なき [アミガサタケの一種かな…。猛毒のシャグマアミガサタケではないでしょうから、加熱すれば食えるかも?]

_ tyaffic [とりあえず加熱して食べてみましょう。なきさまや私ではなく、jis氏自ら。食べて笑いが止まらなければ成功という流れで]


2013-04-28 この日を編集

[独言][近代デジタルライブラリー] メンテ

なんか調子が悪いと思ったら日曜日にメンテか・・・。そんな大事なことはTうぃってrで呟いて終いじゃなく、トップページに掲げて欲しい。

誰もかも、何でもかでもTwitterで済まそうとする精神はいまだに理解できない。

[独言][煉瓦] 明治〜大正期大阪府煉瓦業一覧

近デジがタコスになったお陰で入力済みデータの整理が捗った。大阪府統計書に工場一覧を発見し、6大会社が成立する直前の明治20年代~30年代に光をあてることができそうな塩梅。それによって2、3の刻印の出元も明らかにできそうな塩梅。ただし初年代~10年代は相変わらず闇のままだ。

大変なのはここから先なのだろう。会社<>刻印の対比が可能な資料はあらかた掘り尽くした感がある。これ以上やるなら工場跡地へ行って煉瓦を見つけてくるしかないのではないか。んでそれは大変な手間であり確実とも言い難い。

若井があるくらいなら、旭商社、大阪煉瓦、共立煉瓦のもどこかで見ている可能性がある。それとわかっていないだけで。○刻印とか英字の符丁なんかは実はそのどれかであったかも知れぬ(大多数の無刻印の煉瓦がそうであったかも知れぬ)。

近デジがタコスでなくなったら、兵庫、京都、和歌山のを確認したい。

[独言] 奈良公園

画像の説明

主張に忠実に奈良公園を歩いた。視点を違えるとそれだけで様々な発見があることを再認識。春日山遊歩道に架かる小さなこの橋がコンクリート実床板橋で、月日亭の下方に架かる同規模の橋が石桁橋であること、およびその相違の裏に秘められている理由。春日山周遊道路じたいの意味。今は通行止めの林道蝙蝠窟線。大仏殿参道前の吉城川に架かる橋、水谷川橋、春日大社万葉植物園の石柵、鹿苑。どれもみな忘れられた近代であり、奈良公園の看板役者を裏で支えた苦労人たちである。誰かに気づいてほしい。誰かに伝えたい。そう思って歩いたけれども、シンポジウムに参加してすっかりその気が失せた。

自分が考えている近代化遺産と世間一般の認識とはずいぶんずれているらしい。他人が求めているような見映えのするもの・他所に自慢できるもの・利用する価値のあるものは、自分の目に留まらない。分類するなら自分は原理主義的なのだと思う。どんな近代を経て今日があるのか知りたがっているのは自分だけであって、人々は今あるものさえ利用できればそれでいいのだ。過程などどうでもよくて、残ったモノさえ使えればそれでいいのだ。それを覆そうとして独り奮闘したところで何もできやしないのだし誰も望んではいない。誰も月報を読まないことが既にそれを証明しているじゃないか。それでも頑張ってみたが、無駄なものは無駄。だって人は空ばかり見ているのだから。それが「社会の総意」なのだから。

ああなけてくる。なけてくる。世界が、物的なものも精神的なものもすべて、結託して自分を無きモノにしようとしている。そういう疑心暗鬼が現実のものとなって自分を等閑死に追いやろうとしている。必要とされていないモノだと認識させられることほど心を危うくさせるものはない。キーボードのuの反応が鈍くなった。


2017-04-28 この日を編集

[煉瓦刻印] □×

やっとコピーが発掘できた…出典は「日本煉瓦史の研究」p.71。

山陽煉瓦では創立者の前谷茂久が修行をした、大阪の岸和田煉瓦綿業株式会社(後述)納入用煉瓦に図3-41の刻印を昭和17年から20年の期間押した。

この情報自体の出典は不明。聞き取り調査かな。山陽煉瓦と岸煉の関係は「赤レンガ物語」にも書いてあったような気がする(超うろ覚え)。

[独言] おめ

おめ。語るにやあらんの語るにやとカタロニアって似てる。

[独言] 技人一如

もともど土木科出身で意匠には詳しくなかった。橋専門でもなかった。それが福留並喜に引っ張られて大阪市の橋梁課に。はじめに建築のナントカ氏と組んで、その後?元良勲と組むようになって。欧米視察はその後。だからごてごてしい装飾よりも構造美に惹かれたところがあると思う。エンジニアとえーっとなんとかいうアーキテクチャだったっけとの協同というのも自分の体験を下敷きにしている。

監修した武田五一が都計橋梁の設計者として出てくることが多いけど橋の設計もやった。堂島大橋とか天神橋とか。秘密裏に大江橋をメタルで設計してみたりもしている。

重心のある橋をよしとした。重心。力学的質量的な重心でもあるが少し違う印象。求心力を発する何か、古い街並みのなかにある真っ白な白壁土蔵が風景を引き締めているような、祭りで賑わう境内のうちで「ここを見よ」というもの。そんな感じ。

堂島大橋は面白い設計だけれども橋全体の印象はぼんやりとしている。ここぞという重心が頭に浮かばない。天神橋は変断面の五連アーチがとても美しい。中之島の剣先のほうから見ても、橋のたもとから見通しても違和感がない。とくに後者の、浅いライズの大スパンの飛ぶ姿は素晴らしく洗練されていると感じる。この大スパンにも全体にも重心がある。後年つけられたスロープがとても邪魔。機能としては便利なんだけどな。

堀式突桁橋も単純な作りながら構造美がある。軽く反った吊り桁も橋台の突き桁も単純化すればもっとシンプルにできたはずだがああしているからホウと感じるものに仕上がっているように思う。直線直角だけでできていたら特になんとも思わなかったんじゃないか。

増田の橋はまったくもって隙がない。十三大橋はどこから見ても見栄えがする。歩道を歩きながら車道を見ても、車道から外を眺めても、橋たもとからも、離れて見てもよい。はしたもと脇から見た時のコロンコロンとした躍動感と橋上から見上げたアーチの力強さと護られているのだという安心感。違うものを見てるかのようだ。ひたすら重厚、どこから見ても重く感じる永代橋とは違う。旭川橋とか渡ってみたいと感じる。

全部が全部よいわけでもない。熊野大橋はどちらかというと平凡な感じがした。どこにでもありそうな橋という印象。チラ見だからアレかも知れんが。

あーどんどん脇にそれる。それそれ。


2020-04-28 この日を編集

[既出] 9割

画像の説明レンズはよごれているけれど。なかなか神々しいと思うんだ。

書いておかないと忘れそうなことのいろいろ。

この時期の新緑。ライムグリーン。茶色がかった緑のもこもこ感。色とりどりのまだらな緑が黴びた炊飯器みたいだと思ったが考えてみれば同じ天然なのであった。

そんな緑を、直射日光の下でコピーを眺めた後にみあげると赤茶が強くなって急に季節が変わったみたいに見える。底の抜けた青空を眺め続けているとどんどん暗くなっていくorセルリアンなブルーになってしまうのと同じ現象

電車の中でふと手を見ると蜘蛛の子が這っていた。ああ蜘蛛だと思ったらマダニだった。慌てて弾き飛ばした。

乗り継ぎがへんなのだ。6時台後半に乗れば園部回り嵐電経由で22時台に帰り着く。それを逃すと福知山回りで23時58分着。そのくせ綾部で30分、福知山で1時間待たされる。先に乗越精算すれば下車可能。

10%。

青木の海の青きこと及び海中のコンクリート塔。

吉原。

阪急宝塚で券売機にじらされる。

空気不足。

煉瓦の重さ。鼻黒焼過の黒い方のサイズ感。空の冷たさ。しっとり感。笹薮を抜けるのが下手になった。

[奇妙なポテンシャル] 関

画像の説明商店街のアーケードの柱に貼ってあった。これを見て「監視カメラがあるのだろう」と思ってしまったのだが、よくよく考えてみればそうとも限るまい。ただ「カメラ」と書かれているだけだ。カメラ取り扱ってますとかカメラ格安ですとかカメラの落し物ありますとかカメラ墓場だとかいう可能性もないわけではない。要するに監視されているかも知れないという怖れを抱いているから「監視カメラでもあるんだろう」と早合点してしまったわけだ。心がびくつく盗人そのものである。

それよりか台紙のほうが気になる。「最高の品質をお届けします」「登録商標」うんちゃらかんちゃら番と印刷されてあって、元が何か特別なものであったらしい気配がある。番号で調べればわかるだろうが、調べずにもやもや考えてつづけてみたくもある。

雲門和尚の「関」字って、きっと顔の象形なんだと思うよ。目えあって眉伸びててきゅっと結んだ口があって。要するに眉毛フサフサだよってこと、間違ったことは説いてないよと。ザ・全体作用。


2022-04-28 この日を編集

[独言][煉瓦] 終活

画像の説明

煉瓦の置き場を作るためにここ10年以上手を付けていなかった部屋の一角を片付けた。

ここまでするのにどれだけ手間がかかったかわからない。売れ残ったバックナンバーCD#2を大量に破棄し(当然紙プラ分別せねばならない)、溜まっていた地形図コピーも大半を処分した。2003年の旅で持っていった蠅帽子峠の地形図コピーから足怪我直後に行なった伊勢本街道探索で使ったものとか過去の探索で使用したやつとかしなかったやつとか、とにもかくにも現行図のコピーはあらかた廃棄した。いつかまた使うことがあるかも知れないと思って取っておいたものだが、考えてみればその機会に恵まれたことはまずないのだ。再訪したとしても前のコピーを探しあぐねて再コピーしたことのほうが間違いなく多い。無駄ではないか。

そもそもだ。思い出とかどうとか考えるお年頃ではなくなった。死ねばどうせ捨てられるのだし、その時まで取っておいても誰の役にも立たないし、そもそも自分自身がコピーの存在を忘れている(何でコピーしてきたのかわからないものも多かった。北海道の2.5万図なんて何をしようとしたのかも思い出せぬ)。そんなものをいつまでも取っておいて思い出に浸らなければならないほど、自分のしてきたことは少なくない。考えなければならないことや新たに考えたいことはエントロピーの如くに常に増えていく。それに追い落とされ忘却されていく思い出に構っていられなくなっている自分なのだ。すまんな過去のおれ。より鮮明な記憶と記録はORJに書いたやつを参考にしてほしい>未来のおれ。

もとは煉瓦をどうにかするための片付けだった。2019年の赤煉瓦ネットワーク大会から持ち帰って適当に積み上げた状態のまま放置されていたのをいい加減片付けて整理しておかなければならなかった。何しろ高さ1m余の煉瓦の壁だ。邪魔とは言いたくないが状況としてはそうとしか言いようがない。&、量が多くなりすぎて目的の煉瓦を探し出しづらくなっていた。煉瓦をくるんでいる緩衝材にその煉瓦の名前を書いていたので積んでいると見つけられないのである(壁に積んだ煉瓦の刻印が見えないのと一緒)。その緩衝材にふせんを貼って前から読めるようにはしていたけれどもすぐにくるくる巻き上がって意味をなさなくなるし積んだ時に逆にしてしまったのもある。2019以降に採取したものはその付箋すらないものも多い。

というわけで小口に養生テープを貼ってそこに書き込むことにした。ついでに各煉瓦に識別番号を振ってExcelでカタログを作成することに。名称、採取地、採取日、経緯度、寸法、斑紋、Y線、などなどをメモできるようにもした。自分以外の人にもこの煉瓦の意味がわかるようにしておかないと、という強迫観念じみた危機感を抱いている昨今である。

全部の煉瓦の採取地を覚えているはずだったが、思い出せないものが案外多くてちょっと落ち込んでいる。こんなの採取してたんだと驚くようなものもある(4/8の津守煉瓦とか。あれも採取地思い出せない)。写真だけ撮ったもののほうが、忘れないうちにbdbに登録したせいか記憶に残っている。写真を取らずに現物採取で持ち帰ったもののほうが忘れている。そっちのほうが重要なのに。ほんと申し訳なくなる。

自分の頭の中の消しゴムは安いだけのRabbitから、MONOになり、そしてまとまるくん(まとまるママ)になって、年々消えやすくなっていくのを感じる。一度忘れたら跡形もなくなってしまう。これが脳の劣化なのだとひしひしと思い知らされている。忘れてはいけないことを、今のうちに書き残しておかなければならぬ。

そうして煉瓦整理はまだ終わっていない。この壁がもう一枚分ある。その壁を積む前にある程度並べ替えておかないと後で困るだろう。そしてその壁の写真を撮って、どこにどの煉瓦を積んだかわかるようにしておかないと、元の木阿弥だ。

整理のお陰で気づいたことも多い。泉州系の煉瓦と堺系の煉瓦では胎土が明らかに違う。明石の煉瓦と播州印南の煉瓦も違う。京都川岡辺の煉瓦も特徴的。そして以前から気づいていた神崎煉瓦系。刻印で工場が判明していれば地域ごとの胎土の違いをも物差しにできる。そして播州の煉瓦は手触りでわかる。播州の煉瓦は使い込んだ#180の紙やすりくらい粗い。泉州堺の上質な手成形煉瓦は#320。船坂で採取したヤマ菱が山陽新型だとわかったり、手成形煉瓦は基本的に平表のほうが平裏より一回り小さい傾向があることがわかったり。後者は先にこの面を乾燥させるので収縮するのだろうと想像されるが、それが合っているかどうかはともかく、平表で測った長手小口と平裏のそれとでは3mmくらい違うのもザラにあって、そうすると測る場所によって1分も違うことになり、構造物に使われている煉瓦を計測する意義がさらに薄れてしまう。やはり寸法規格なんて深く考えるだけ損である。


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