nagajisの日不定記。
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午前中より胸鳴らせたる野球試合は午後に行わる。生徒は十二対五にて教官殿に破る。我は二訓の選手として出場したれども十二対六にて破。残念なれども奮戦したるなり。
運動班運動は中止の故訓育班にて十日に泳ぎたる坪井川の同場所に於て共に水泳をなす。心身の鍛錬にはよろし。
午後は十三時より査閲あり。軍装・不動の姿勢・速歩行進・分隊密集教練の課目なりたれど此の暑き日に、部長殿の批〔講〕評にては概して良好と云われたり。それと同時に、二年は一般に胸囲・体重が身長に比し少なき故、漸次努むべし との注意ありたり。聞く所に依るに水泳鉄棒が胸囲を広むるに最も良き方法なりと。
一昨日暴風警報あるも今日は風が強く雨来らず。昨夜零時頃非常呼集あり。校庭に至り三等になりたり。中生徒舎の者としては一着なりき。少なからず自信を生じたり。緊張を促す為のものなりと。折しも満月にして見るべき月なりき。武道大会、柔道を一に剣術を六に敗れたり。三学班としては大分進歩したるも実に今一歩の所なり。我柔三位、剣四位なるに驚く。唯今後も実力本位に頑張らん。今日は予柔道に熱入らず敗る、又思うに捨身的なる点に於て欠けあるを感じ残念なりき。体操に出る。好調愈〃良好。
反省(一週間)
一、夜の自習時間頗る気が入らず。されど授業中は真剣になれたり。今後の自習は主として後期に備うる〔「る」朱取消〕べきなり。
二、健康状態頗る良好にして、特に体操・作業に精を入れたり。今最も良く時機を失すれば不可能になるべし。夕食前五分まで運動せしこと度々なりき。
三、内務真面目に行いたり。
四、一般にのんびり過ぎるなり。
版下作成にかかる。構成は前回書いたような感じで、航空写真を基礎にして配置。左上に区間の概略を入れて、残りは写真+コメント。それでもスペースが足りなさげなので(特に閉塞隧道の辺りは)そこだけ別ページにするか。久しぶりにアーティクル使うかな。
そのほか写真をeps化する作業。点数が多いとこれが結構面倒だ。全て終えたのであとはガンガン配置して行くのみ。
日曜日の台風は(自宅周囲は)それほど大変なことにはならなかったのだけれど、太平洋に面した地域でかなりおおごとになったようだ。新潟では地震も加わってさらに大変なことに。お見舞い申し上げます。
そんななか、静岡県の蓬莱橋が流失[Googleニュース]というニュースも入ってきた。この橋は世界最長の木橋と表現されることが多いけれど、自分はむしろ作った人々のことにまず思いを馳せてしまう。大井川右岸に広がる牧ノ原は今でこそ茶畑が広がる土地だが、それを開いたのは明治という時代に取り残された旧幕府側の人々だった。曰く徳川家直参の武士たち、曰く大井川に架橋されたことで職を失った川渡し人夫。徳川慶喜の護衛隊だった新番組や彰義隊の生き残りも加わった。そうして数多の苦難を嘗めながら一大茶畑に仕立てあげたのだった。
最初の蓬莱橋は明治12年、その茶畑の茶を対岸の島田へ運び出すために作られたという。当時は簡易な丸太橋で、もちろん維持管理は開墾者たちの受け持ちだった。昭和33年7月の台風で壊滅的な打撃を受け、災害復旧事業として再建、40年4月に作られたのが今日の蓬莱橋。橋体は木製だが橋脚をコンクリートにして災害に耐え得るようにした。そうして今でも、基本は土地の人によって維持管理されている。人20円、自転車1台30円の通行料を取って(以上、参考文献:松村博・日本百名橋)。
今回のような流出はたびたび起こっていて、平成に入ってからでも7度も壊れ、今回で8度目だとか。また地元の方が懐を痛めなければならないことに、いらぬ気を揉んでしまう。
記録によるとこの日にようやく病院へ行ったことになっている。小さな皮膚科兼小児科だったと思う。診察の時には蕁麻疹がほとんど収まっていてアレだったのだが、状況を説明すると「激しい発汗や気温差により自律神経が参っていて、それが原因」と言われた。とりあえず謎の伝染病だったりしなかっただけ良かったが、しかしそれで腹が痛くなったり喉が詰まったりするものなのかは聞いてもわからんかった。さらに「薬を飲めばすぐに直るというものではなく、月単位で出たり引っ込んだりする。休養しても旅行を続けても同じ」との仰せ。うーむ、としか言いようがない(実際この蕁麻疹、旅行から帰っても長い間患っていた。最近は出なくなったが、そういやいつ治ったんだろう?)。
失礼な話だが、どうも自分はお医者さんの診断や薬なんかが信用できない。何に限らず「薬で治る」と思ったことがなく、成るようにしか成らんと思っている。そんな自分がその通りの診断をされて、ハタと困った。
とりあえずかゆみ止めの薬を貰ってーーーそれが何という薬なのかも忘れたーーー病院を後にしたが、それ以降はさほど激しい腹痛もなかったし、かゆみも少し和らいだような気がする。単に精神的な何かだったのかも知れない。
柏木以南の部分を書いているのだが、累積日数としては何日もかかっているはずなのにちっとも進まない。あとで困らないよう沢山写真を撮ったのが裏目に出たようだ。
現状のフォーマットでは一写真につき200文字くらいは必要になる。たった200Wだがなかなか埋まらない。最初のほうはいいのだが後半どんどん言葉が足りなくなる。場面場面はいい写真なので(なのだと思っているので)使いたいのだが、それに見合う解説文を破綻すること無く入れることができない。この辺りに素人の赤坂見附が垣間見える。
ルポを書く時、こういうパターンで悩む場合と、それとは正反対に様々なイメ−ジが湧いてきて、それを言葉にするのに悩む場合とがある。後者はまだ楽だ。書かなければ済むから。無い所を無理繰り紡ぎだして見せることは難しく、そもそもそうやって紡ぎ出したwordsはツクリゴトでしかない。
写真に頼らず、言葉で何とかすべき場面なのかも知れない。しかし能力的にそれが可能だとも思えない。この区間は第一期街道という確信が持てないまま歩んでいた場面が多いというのもややこしさを加速させる。
写真を取捨選択するのが最適解なのだろう。この日の探索は迷ってばかりでMission Imcomplete!だしなぁ。それを全面に出して後の伏線にするのもありかなあ。幸いなことに時間だけはたっぷりある。せいぜい独りで悩んでくれ給え>nagajis
予報の通り午後からしとしと雨になった。やはり梅雨は明けていないようだ。先日はあんなにカラッとした空気だったのにな。
気圧配置とか梅雨前線とかいう概念のなかった昔は、梅雨明けをどのようにして把握していたのだろう。ようけ雨降るなあ=>いつの間にか降らなくなったなあというような曖昧な境界線だったのだろうか。それともあのカラッとした空気をもって梅雨が明けたと感じただろうか。いずれにしてもそういう季節のうつろいを情報としてではなく実感で感じられていた頃がちょっと羨ましく思う。今でもテレビやラジオなしで暮らしていれば梅雨の終わりを体感できるのかも知れない。
2002年の旅では7月22日だったか23日だったかが梅雨明けだった。それまで執拗なほどに降っていた雨が、雲の切れ間から青空が覗いた蛭ヶ野のあの日を境にパッタリと止んだ。あの時ほど梅雨明けというものを実感し有り難く思ったことはない。そういう感触をもっと幼い頃から感じておけば良かったと思う。梅雨明けを梅雨明けと理解できるような感性を、もちっと若い頃から持っていれば、世界に対する興味はもっと真摯なものになっただろうに。
同様な観点から、昔の人が台風に対してどのように感じていたか興味がある。今なら到達するはるか以前から予測することができて、それに備えることもでき、過ぎ去った後の行き先を気遣うことさえできるけれども、そういう便利なものがなかった昔は台風の接近をどのように察していたのだろう。吹き荒れる風と雨とをどのような心持ちでやり過ごしていたのだろう。そういうところに思いを馳せて行くと、神や仏のような形而上的不可抗力的存在が自然と受け入れられるような気もしてくる。
台風の古語たる「野分け」という言葉が好きだ。得体の知れない風の塊り雨の暴力が突き進んでゆくさまを、その言葉の背後に感じることができる。
野を分ける主は何処か颱風裡よみびとしらず
本年度登録の有形文化財が公表された。
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/yukeibunkazai_toroku_110715.pdf
交通関係は少ないかな。長野県の小渋橋(昭和32年竣工)が登録されているのはちょっと意外な気もするが築後50年を経ているのだからモンダイないのである。
それより今回解除になった物件が一つある。茨城県の石岡第一発電所施設のうち水槽が解除になった。3月の震災で大崩壊してしまったそうだ(pdfに写真あり)
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/bunkazai_kaijyo110715.pdf
既出原稿をぎうぎう言いながら&書き飛ばしながら書きなおしてようやく13kw。そこに最後の一つをコピってきたらあっさり10kw増えていとをかし。整理を加えないといけないのはもちろんのことだが何となく先行き明るく感じてしまった。そうやねん。この調子で半月書いたら終いやねん。
岸和田煉瓦のレア・バージョン。先月の終わり頃だったか、野田の路地の舗装に使われているという情報を聞きつけて探しに行ったことがあるのだけれども、その時は半日歩き回っても見つけられなかった。今日またKINIAS幹事会で市街に出なければならなかったので、開始前の30分間を賭けて行ってみた結果、捕捉することができた。諦めて駅に戻っている道すがらだったのでなおさらうれしい。
風雨に晒されていた割には結構よく残っている。例の作戦を実行してみようと思う。念のため断っておくが夜中にハンマーとタガネを持って、とかじゃないからな。
社章がシンプルな割にいろんなバリエーションがある岸和田煉瓦。一つひとつの使用時期が特定できれば結構便利なものさしになるのだろうけどなぁ。無理だろうなあ。
バリエーションはだいたい4つのクラスタに分けられる。ひとつは十字の刻印だけ押されたもので、太さや大きさがまちまち。ふたつめは棒状の副印が押されているもの。棒の数や配置が変わる(例えば左右に一本ずつ〔|☓|〕だったり、二本ずつ〔||☓||〕だったり、横棒〔-☓-〕だったり、T字〔├☓〕だったり。中崎町に行けば一列に複数の配置のが並んでるのを見ることができる)。みっつめはカナが添印されているもの。今までにイとウと井を見たことがある。イと井があるというのがとても厄介。
上の刻印は第四のクラスタということになる。「岸☓泉」のほかに「商☓標」というのが存在し、旧大阪府庁舎跡から出てきた。「岸☓泉」は枚方の禁野弾薬庫跡や神戸市街の発掘現場、同志社大の建物などで見つかっているが「商☓標」は府庁舎くらいしか知らない。ブラックゼウス並にレア。
あ、記憶違いだ。「商☓標」は同志社ジェームス館でも見つかっている。この建物は1912(明治45/大正元年)に竣工。旧下関領事館は明治39年が上限。
前回野田へ行った時にこんなものを見つけていた野田った。どういう由来があるのかわからないが頭に砲弾型のオブジェクトがついている。名前もずばり「特許砲弾優秀号」らしい。
日常品に砲弾と聞くと、なんとなくだが日露戦争前後の印象がする。ロシアから分捕った機雷を奉納したり分捕った大砲を奉納したりした頃なので。しかしこれは「優秀号」の文字が右書きで刻まれている。そもそもそんな骨董品が道端に立ちっぱなしで朽ちてないはずがない。
いくつかの疑問を解決。刻印を押すタイミングとか押し方とか。以下聞き書き補完。
土はその辺りに露出(○○寺の辺り)。トロッコで運んできて、穴に入れ、砂や水を加えて調整。かなり粘い土であった。
機械成形を担当。機械がこね、型を通して押し出し、(仰りはしなかったが平を先頭にして出てくる:平で切るタイプ)それをワイヤーで切る係が一人。切ると長手で立った2個並んだのができる。これはゲタのような板(ゲタと呼んではった)の上に切り出す。
その2個並んだ煉瓦を少し離して、ゲタごと次の行程へ運ぶ。運ぶ先は一次乾燥場(とりあえずそう呼んどく。庭で積んで乾かす前の予備乾燥をする場所)。機械の押し出す速度が速いのでゲタがどんどん溜まってくるのが大変だった。
運んだ先でゲタを8個並べて置く(積み上げる?)。これは仮置きみたいなもの?
ある程度乾いたら一間板に10個並べ、本予備乾燥。この段階で刻印が打たれる。作業する板に「K」の文字が作りつけてあって、その上に煉瓦を押し付けて裏表に打刻。この時小口を持ってクルン、トン、クルン、トンとやる。ここ重要。刻印は上下平の対角位置につくことになる(K刻印は平天縁中央付近に押されていることが多い。そして長手方向を軸に回転させると同じ位置についとる。社宅付近で採取した活字Kも釘Kも同じふう)。
乾燥は1週間くらいか。小端立てて長手も乾燥させた(全部が全部だったか?)
乾燥させたものは天日に干す。長手下で枕木状に並べ、その上は斜めの枕木状に、その上に一間板を載せ、また枕木状に、と10段。天日干しは1ヶ月くらいかかることも。
弘栄の窯は2個所あった。西のものは昭和30年代の大きな台風の際に煙突が倒壊。火入れしていた最中だったからものすごい火の粉があがって危なかった。なお工場はいま住宅街になっている一帯がすべて、と仰っていた。あの広場の辺りだけじゃない。社宅に隣接して工場敷地があったと考えるべき。
刻印を押す理由は特に把握されていず。上等なものには刻印を打ったんやろねと(煉瓦には等級があって云々)。そうすると焼く前から良否が決定されていたことになり、焼き上がりの不安定要素はどうしてはったんやろと思う。予備乾燥の段階で歪んだもの・手形がついたものはnegって、焼いてうまく行きそうなものだけ押したのだろうか。
数字付きのものは「知らない」と明確に否定された。
上記の話は岸工場の話。昭和16年以降30年代後半までということになる。一方東山のK2は戦前からあるとの話だった。当初想像していたように、戦前の一時期は(KasinoにせよKumiaiにせよ)各社共通フォーマットのKn刻印を使っていて、その後沙汰止みになり、弘栄はKoueiのKとして数字の部分を潰して使ったということになるかも知れぬ。そして釘Kは機械成形のものにのみ見られる。足りなくなったとかすり減って作り直したとか、そういうとこか。
就業形態は播煉と似たようなもの。トロッコ・板出し・ナンチャラと家族でやっていたところもある。Yさんのところは個数ナンボではなかったようだ。
赤煉瓦産地診断再読のこと。特に機械ー本乾燥の行程のところ。でもあれはどこの行程か明示されとらんかったからな。
そこなんだ。機械成形は長手で立った状態で出てくからそのまま乾かすことができる。手成形では平が板に密着した状態で運ばれる。それを起こして立てねばならん。弘栄社宅で眺めていた手成形のは裏の荒れ方が顕著だった。筋より細い側は撫で跡がきれいに残っていたが広い側はそうでもない。なんだかザラッとした感じ。撫で跡はあるが縁ほどきれいじゃない。かといって小口方向に傷があるでもない。
そういや・・・播煉の方も乾燥の時に「器用にくるっと回して」って言うてはったっけなあ。8割わかって1割間違う感じがする。聞き取り調査は難しい。帳面にいっこいっこ書いてくほど几帳面でないし。
草いきれの海を泳いだ記憶がある
あまりに暑いと思考がまだるくなり、言葉を重ねて表現するのが面倒くさくなる。できるだけ手短かに済ませてしまいたくなる。そういう蒸し暑い亜熱帯気候の夏が575を生み短歌俳句出したのではないかと、河川敷の叢を漕ぎながら思ったことだった。ロシア語の「 Здравствуйте(こんにちは)」が唇をほとんど動かさずに発話できる、みたいな因縁(あまりに寒いと口を動かすのもつらいから。さらに寒いと「Здра」だけになる )。しかしまあそんな真夏の藪漕ぎも久しくやっていない。懐かしくもあり愚かしくもあり。昔は元気だった。今は現金。
今号記事で触れ損ねた話。素人的にはこういうのも面白く思われたのでどっかに入れようかと思っていたのだけどもあまりに枝葉末節過ぎるなあと思い直してやめたのだった。
レールのあの形を作るには熱した鋼材をロール(圧延機)に通してのして作るわけだけれども、その行程は結構面倒で、かつ様々な工夫が凝らされていた。自分は勝手に「四角の鋼材を一気にレールの形に圧延するのだろう」と思っていたのだけれども、そんなことはなく、少しずつ一回り小さな形にのしていって、徐々にレール型に近づけていくのだそうだ。右は「国産軌条に就て」(九州冶金学会誌、1935)掲載の図。最初の■い鋼材(資料では「鋼片」と呼ばれている)から9度の圧延を重ねてやっと製品ができあがる。矢印動線の示すごとく、ロールを抜けたらロールを逆転させて別の穴にさしこんでいく。鋼片は前に後ろに行ったり来たりしつつ流れていくわけである。なお日本製鉄では第一ロールに突っ込まれた時の鋼材の温度は約1150度。これが冷めるまでに製品形状にしなければならない。Darlingtonの頃には大の大人が寄ってたかって大ヤットコでひっつかまえてロールに放り込んで、と人力でやってた。さながら戦場のような光景だったろうと思う(そのシーンを描いた絵があるそうである。「近代機械講話」)
同報別図を引用。例えば50-PSだと最初の鋼片は210×155mmの直方体。これをのしてのしてのしてのして製品にする。わずかずつ変形していくその形状の変化のさせかたも地味に工夫の塊である。単にレールの形にするだけなら「工」を寝かせた形を一回りずつ小さくしていけば早いだろうけれども、そうするとウェブの部分の金属組織がウェブ方向に引き伸ばされたような形になってしまい、いわゆる「樹状組織」と呼ばれる偏った組織を形成してしまう。これはウェブがポッキリ折れる一番怖いタイプの破断の原因とされた良くない偏頗だ。だから一度伸ばしかけたものをぎゅっと押し縮めてみたり(第二形態→第三形態)、右から圧したり左から圧したりして(第四-第七形態)、ベースからウェブにかけての組織をほぐすようにして圧延してゆくのである。海外のものなんかだとほんとに潰したり伸ばしたりグニグニ揉んだりするような圧延を重ねているものがある。そうした処理は断面形状によっても必要性がかわってくるものと思う。
昭和13年アルス社発行「アルス工学全書」第11巻より、イリノイ製鋼会社南工場の軌条圧延工程図。最初に鋼塊圧延機で■鋼材を整形し、少し細くしておいて、一次荒仕上機→二次荒仕上機→中間仕上機→最終仕上機と、軌条圧延だけでも10回通していたことがわかる(前掲新日鉄の工程図は鋼塊圧延機を出たところから始まっている)。
工程中できるだけ温度を下げないために各ロールの作業は連続的に行えるようになっていた。上記「仕上げ機」も互いにさほど離れておらぬ場所に置かれて次々と通されていたものと思う。そのためにロールを縦に3個重ねて1圧延機で7パターンの圧延が行えるようになっていたりもしたようだ。
いうまでもなくレール標記の刻印字母は最後のロールに刻まれていた。刻印が摩耗してしまったりとか文字を間違えちゃったテヘペロ☆という時にそう簡単に交換できなかったことがこの図からもわかる。最後の型ロールだけ交換、というのはできず、上図Illinoisの例でいうところの「最終仕上機」のロールを全部交換しなければならなかった。ちなみにロールの交換時期は、日本製鉄ではだいたい15000トンから70000トンくらいで訪れておったようだ(「国産軌条に就て」)。同報文には製鉄所の重レール製造トン数と推移グラフがあるのだけれども、明治44年〜大正13年の間は5万〜7万トンで推移している。60ポンド以上だから75ポンドも随分含まれているはずで、そうすると1ロールの使用量はさらに少なくなるはず。たいていの場合は翌年度まで持ち越すことができ、そういう時には刻印の打ち替えが行なわれたのだろうと思う。
製造するレールの断面が変われば勿論ラインのロールを全交換せねばならぬ。何の資料だったか忘れてしまったが、DarlingutonだったかDowraisだったか、そんなロールを何十個もも保管している一角を写した写真を見た記憶がある。Archive.orgの図だったかなぁ。
キーボード不良、筺体ぼろぼろのCorei7
+
HDD死亡のCorei5、筺体はきれい
÷2の魔改造。クリックパッドのあたりの内部構造がわずかに違うのでルーターで削ったりエポキシ接着剤でくっつけたりしてマジ手術になった。馬鹿過ぎる。そんなに手間かけたって誰も褒めちゃくれんのだ。
でもやっぱり、Corei7のノートは早くていい。
全分解せずに済んだ。シートと基板の接点辺りがいまいち良くなかっただけらしい。Y打てるのはいい。ちなみにY入力不可なのはREAR TYREのプロパティ作る頃に気づいた。
_ とと [写真と言葉の関係は“磁石”と似ている。惹きつけるという効用は同じながら、互いを近付けると反発しあう事もある…。私なりに考える事ここ数ヶ月、現状としては“このへん”にたどり着くも、まだ奥があるだろう..]
_ nagajis [そのお説に12億3000万ジンバブエコスモ。最近写真1枚のページが増えたのもそのせいかも知れません。]