nagajisの日不定記。
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いくつかの疑問を解決。刻印を押すタイミングとか押し方とか。以下聞き書き補完。
土はその辺りに露出(○○寺の辺り)。トロッコで運んできて、穴に入れ、砂や水を加えて調整。かなり粘い土であった。
機械成形を担当。機械がこね、型を通して押し出し、(仰りはしなかったが平を先頭にして出てくる:平で切るタイプ)それをワイヤーで切る係が一人。切ると長手で立った2個並んだのができる。これはゲタのような板(ゲタと呼んではった)の上に切り出す。
その2個並んだ煉瓦を少し離して、ゲタごと次の行程へ運ぶ。運ぶ先は一次乾燥場(とりあえずそう呼んどく。庭で積んで乾かす前の予備乾燥をする場所)。機械の押し出す速度が速いのでゲタがどんどん溜まってくるのが大変だった。
運んだ先でゲタを8個並べて置く(積み上げる?)。これは仮置きみたいなもの?
ある程度乾いたら一間板に10個並べ、本予備乾燥。この段階で刻印が打たれる。作業する板に「K」の文字が作りつけてあって、その上に煉瓦を押し付けて裏表に打刻。この時小口を持ってクルン、トン、クルン、トンとやる。ここ重要。刻印は上下平の対角位置につくことになる(K刻印は平天縁中央付近に押されていることが多い。そして長手方向を軸に回転させると同じ位置についとる。社宅付近で採取した活字Kも釘Kも同じふう)。
乾燥は1週間くらいか。小端立てて長手も乾燥させた(全部が全部だったか?)
乾燥させたものは天日に干す。長手下で枕木状に並べ、その上は斜めの枕木状に、その上に一間板を載せ、また枕木状に、と10段。天日干しは1ヶ月くらいかかることも。
弘栄の窯は2個所あった。西のものは昭和30年代の大きな台風の際に煙突が倒壊。火入れしていた最中だったからものすごい火の粉があがって危なかった。なお工場はいま住宅街になっている一帯がすべて、と仰っていた。あの広場の辺りだけじゃない。社宅に隣接して工場敷地があったと考えるべき。
刻印を押す理由は特に把握されていず。上等なものには刻印を打ったんやろねと(煉瓦には等級があって云々)。そうすると焼く前から良否が決定されていたことになり、焼き上がりの不安定要素はどうしてはったんやろと思う。予備乾燥の段階で歪んだもの・手形がついたものはnegって、焼いてうまく行きそうなものだけ押したのだろうか。
数字付きのものは「知らない」と明確に否定された。
上記の話は岸工場の話。昭和16年以降30年代後半までということになる。一方東山のK2は戦前からあるとの話だった。当初想像していたように、戦前の一時期は(KasinoにせよKumiaiにせよ)各社共通フォーマットのKn刻印を使っていて、その後沙汰止みになり、弘栄はKoueiのKとして数字の部分を潰して使ったということになるかも知れぬ。そして釘Kは機械成形のものにのみ見られる。足りなくなったとかすり減って作り直したとか、そういうとこか。
就業形態は播煉と似たようなもの。トロッコ・板出し・ナンチャラと家族でやっていたところもある。Yさんのところは個数ナンボではなかったようだ。
赤煉瓦産地診断再読のこと。特に機械ー本乾燥の行程のところ。でもあれはどこの行程か明示されとらんかったからな。
そこなんだ。機械成形は長手で立った状態で出てくからそのまま乾かすことができる。手成形では平が板に密着した状態で運ばれる。それを起こして立てねばならん。弘栄社宅で眺めていた手成形のは裏の荒れ方が顕著だった。筋より細い側は撫で跡がきれいに残っていたが広い側はそうでもない。なんだかザラッとした感じ。撫で跡はあるが縁ほどきれいじゃない。かといって小口方向に傷があるでもない。
そういや・・・播煉の方も乾燥の時に「器用にくるっと回して」って言うてはったっけなあ。8割わかって1割間違う感じがする。聞き取り調査は難しい。帳面にいっこいっこ書いてくほど几帳面でないし。