nagajisの日不定記。
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片山・志摩・松元・手島等と生徒監殿宅にて独語の授業あり。前期になまけたることを遺憾に思う。十五時まで御やっかいになる。一日暑し。
〔nagajis:「御やっかい」原文は「御ヤククワイ」〕
午後柔道あり。三年一訓と合併にして初めに引き合いをなし後乱取なりき。さすがに此の時間は暑かりしが、よく奮闘を得たり。暑さを以て暑さを制す。
あと僅かにして三寝室ともお別れと感じたり。思うに此の寝室の者は最も愉快なりしが時と所を弁えずに無駄話をなすを常としたり。口述強き者には切磋なすもきかず。依って予は此度の寝室が今まで四回の中最も悪く。去年中期が共に良好なりしことを感じたり。
朝から大部張切りて行いたり。中期の勤務生徒の命令あり。模範生徒、二年へ木村・佐々木 一年へ井ノ上・田村。運動班長高橋・美作、副班長平川・志摩 ・門松・中神なり。昨年に鑑みて、特に二年へも護民を置くものと思う。必ずや二、三年うまく行くことを信ずる。剣術は銃剣術なりき。体操面白し。此の一週間十分に運動せん。斯様に好調なることは再びあらず。生徒監殿来られず。今日は特に時々胸(左)に痛を覚ゆ。一年半前より痛始まり今猶反応の病らしきもの無きは何ぞや? 夕立あり。
今日は35度を超える暑さだったという割には過ごしやすかったように思う。梅雨明けして空気が乾いているからだろう。夕方、西日の当たる窓辺に腰掛けて遠くの空を見て過ごした。
夜は熊野街道の復習。資料だけはやたらとあるから困らない。何しろFAXが掠れてしまうくらいの昔から(一次)資料は集めてあるからな。確からん丸さんが掲示板へ書き込みした以前からだから・・・。
復習のおかげで面白いことを発見した。地図の歪みなのか旧道なのか現時点では何とも言えず。
使用予定写真を拾っておく。Macの中に移している写真は時々破損しているものがあって難儀だ。この機会にバックアップで上書きしておく。
ついでに色調調整。s602で写した画像はたしかに発色が違うな。
明日(今日日曜日)、滝滑りが川開きだそうで。
次回以降のネタがないよー。次号お休みか? ま、だんだんテーマ不透明になりつつあるから、少し休ませるほうがいいのかもな。となるとその穴埋めになる記事を考えておかないといけない。そこまで手が回るかどうか、不透明だが。旧橋2本という手がないでもないな。
もしくは既ネタのTRDB版とか。旧笹部トンネルとか、杉本とか(これはしつこくなるか)、松坂とか。
だんだんダメになりつつあるなあ。いや元からか。もちっとしっかりしなさい>nagajis
柏木、上谷上道を書き始める。たちまち言葉が詰まる。柏木は第一期の道筋のこととIさんの案内のこともかかなければならない。そこをすっ飛ばして書いている。先に書いておかないとルポ部分をうまく取り回せないはずなのだが頭を使う気になれない・・・とりあえずやっと大迫ダムに辿り着いた。
上谷上道は気分転換のつもりで(どこが転換やねん)。歴史とルポと半々になるはずだがやはりルポのほうから先に。写真を見直してみると思っていたより短い印象。でも長く書けない。煮詰まってるなあ・・・。
一週間とは言わないまでも、2、3日パソコンに触らないで、どこかに出かけるとか何とかして脳味噌変えたい。しかし汗をかくと蕁麻疹がひどくなるのは自明だからなあ。いやだなあ。
兵庫県の煉瓦工場はなぜか『帝国銀行会社要録』のほうがよく載ってるうえに住所地番まである。大正年間の分しか収録されていないのが残念だが全部あったらさらに壺だろう。
印南郡でたくさん刻印を見つけられたのは昭和~戦後に営業していた会社の分だったのがよくわかる。大正期のは「ハ」1個と「山」2個、あとは大正煉瓦だけだものな。
播陽窯業>伊藤煉瓦。
なんだよ!昭和のもあるのかよ! しかしなぜか大正煉瓦とか弘栄煉瓦とか伊藤窯業とか和田煉瓦とか載ってねえ。使えねえ。
印南郡阿弥陀村の内魚橋村
●設立 大正6年3月
満期20ヶ年
総株数2000株
●資本金 100,000
内払込額 25,000
●取締役 原田四郎作
米澤久次郎
山本正
濱本挺治
渡邊壹次郎
監査役 大西米太郎
加古儀平
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
●取締役 原田四郎作
米澤久次郎
山本正
濱本挺吉
渡邊豊次郎
監査役 大西米太郎
加古儀平
支配人 中筋拙蔵
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
濱本挺吉
→ 濱本弥七
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 50,000
‐取締役 渡邊豊次郎
+取締役 鎌谷二郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
●(締)原田貞作 原田四郎作 原田栄吉 細尾藤太郎
原田四郎吉 (監)原田広吉 細尾克巳 (配)中筋拙蔵
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
加東郡来住村黍田
●設立 大正6年5月
満期20ヶ年
総株数4000株
●資本金 200,000
内払込額 50,000
●取締役 稲岡猪之助
近藤常三郎
近藤源吉
蓬莱市松
黒田辛五【←播州鉄道大株主】
監査役 山本千賀治【→加古川煉瓦取締役】
堀増治
小西吉五郎
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
同
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
内払込額 80,000
‐取締役 蓬莱市松
+取締役 蓬莱安太郎
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 80,000
‐取締役 近藤常三郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
‐取締役 蓬莱市松、黒田辛五
+取締役 野喜治良
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
印南郡曽根町2554
●設立 大正5年5月
満期20ヶ年
総株数2000株
株主人員18名
●資本金 100,000
内払込額 50,000
●取締役社長 入江光蔵
取締役 梶原貞一
中谷与八
小田千代蔵
角谷勝次
監査役 岡田卯市
森本玄良
●別所分工場 印南郡別府村内北宿村
開設大正5年5月 主任田中卯之松
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
内払込額 60,000
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
+株主人員24名
●決算 大正8年5月31日〔第6期〕
資本金 100,000
内払込額 60,000
諸積立金 9,200
借入金 47,000
当座借越及仮受金 8,616
買掛払金 1,005
動不動産 82,126
諸立替金及仮払金 34,299
売掛未払金 13,889
預け金現金 1,801
常期総収入金 59,980
当期総支出金 56,100
当期純益及前記繰越金 7,296
内配当 3,000
●(長)入江光蔵
(締)梶原貞一 中谷與八 岡田卯市 山田千代蔵
(監)伊達由太郎 森本玄良
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
印南郡曽根町1777
●設立 大正6年4月
満期20ヶ年
総株数1000株
●資本金 50,000
内払込額 12,500
●取締役 伊藤政太郎
関野與平
鹿間松蔵
田中卯之松
服部種吉
八木孫次郎
監査役 岸野松太郎
中谷與七郎
名島友吉
池上栄吉
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
‐監査役 池上栄吉
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
内払込額 30,000
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 40,000
‐取締役 服部種吉
+取締役 吉野大三郎
監査役 原川慶作
糟谷集次
門川棄三郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
同(岡野?八十?)
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
資本金(払込済)50,000
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
同
〔帝国銀行会社要録第十四版(大正15)〕
姫路市南町25
●設立 大正6年3月
満期20ヶ年
総株数5000株
●資本金 250,000
内払込額 62,500
●取締役(代表)濱本八治郎
取締役 田口久吉
山本栄太郎
竹田柳吉
赤藤松二
監査役 吉中猪之吉
赤藤勇太郎
福永宇吉
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
内払込額 75,000
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
印南郡伊保村中筋
内払込額 100,000
‐取締役 竹田柳吉
‐監査役 福永宇吉
+監査役 池田彌七
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 175,000
●(長)濱本八治郎
(常)赤藤松二
(締)山本栄太郎
山本市次郎
福永宇吉
(監)吉中猪之吉
赤藤勇太郎
池田彌七
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
内払込額 200,000
‐締 山本栄太郎
‐監 吉中猪之吉
+監 弓岡栄次郎
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
揖保郡神岡村ノ内東觜崎村689
●設立 大正5年12月
満期20ヶ年
●資本金 10,000
●出資社員(代表、無)
清水覚治(4,000)
清水修治(3,000)
清水ことゑ(1,500)
清水まさ(500)
広瀬慶治(1,000)
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
●資本金 6,100
●出資社員 清水覚治(100)
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
同
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
同
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
同
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
●(代無)清水覚治(1,000)
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
●(代無)清水覚治(100)
〔帝国銀行会社要録第十四版(大正14)〕
飾磨郡余部村ノ内飾西村66
●目的 煉瓦製造販売
●設立 大正5年12月
満期30ヶ年
出資人員4名
●資本金 5,000
●代表社員 内海角治(出資等分)
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
印南郡別所村北宿860
●目的 煉瓦石の製造売買
●設立 大正7年3月
満期二十ヶ年
総株数2000株
●資本金 100,000
内払込額 25,000
●取締役 金川栄治
高谷耕司
渡邊市太郎
佐野濱吉
白井観光
中野長太郎
監査役 池上栄吉
黒田房次
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
内払込額 60,000
+取締役 金井利一
‐監査役 池上栄吉
+監査役 岩田虎治
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
●決算 大正10年5月31日
〔第四期〕
資本金 500,000
内払込額 125,000
諸積立金 11,250
借入金 31,610
当期総収入金 121,665
当期総支出金 136,708
当期純損金 15,033
前記繰越金 3,378
後期繰越損金 11,656
‐取締役 渡邊市太郎
+(専) 渡邊市太郎
‐監査役 岩田虎治
+取締役 岩田虎治
+監査役 堀田孫次郎
+監査役 藤尾丈次郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
決算期 5月、11月
●(長)金川栄治、(専)渡邊市太郎、(締)高谷耕司 岩田虎治 高橋市蔵 白井観光 金井利一 (監)黒田房次 堀田孫次郎 藤尾丈太郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
内払込額 125,000
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
‐(締)白井観光 金井利一
+(締)堀田孫次郎 黒田房次 桂三代次
‐(監)黒田房次 堀田孫次郎
+(監)白井観光 金井利一
〔帝国銀行会社要録第十四版(大正15)〕
川辺郡伊丹町大鹿
●設立 大正8年4月
●資本金 13,000
●(代、無) 井原馬之助(2,600)
(無)榊原勇一(1,950)
湯原正太郎(1,950)
大串彦五郎(2,600)
法西宇之助(2,600)
久間佐吉(1,300)
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
加古郡天満村六分一
●設立 大正7年12月
●資本金 8,000
●(代、無) 植田正(1,000)
(無)藤本周治(1,000)
(無)橘亀吉(750)
(無)植田武治(1,800)
伊勢藤吉(2,000)
梶原淀吉(750)
植田芳太郎(500)
植田健一郎(200)
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
(植田正のみ)
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
加古郡八幡村上西條306-32
●設立 大正7年8月
総株数 1000
●資本金 50,000
内払込額 12,500
●(締)馬場岩吉 清水延二 山本市五郎 松尾淳次 松尾勇吉 (監)林栄一 藤原松蔵 三枝浅太郎 (配)末沢豊太郎
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 27,500
●(締)馬田岩吉
‐締 藤原松蔵
+締 松尾熊蔵
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
内払込済 37,500(10から?)
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
内払込済 43,500
‐締 松尾熊蔵
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
神崎郡香呂村
●設立 大正7年10月
総株数 1000株
●資本金 100,000
内払込額 80,000
●(締)伊賀徳三郎
岩田虎治【←播陽煉瓦取締役】
岩田清治
播戸林之助
尾田徳次
藤本栄太郎
(監)山口大治郎
高田幾太郎
鯉田熊太郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
同
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
●設立 大正6年10月
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
総株数 2000株
+(締)尾田徳次
〔帝国銀行会社要録第十四版(大正15)〕
やりたいこととやらねばならぬことが不一致してる。人はそれを頭皮坑道もとい逃避行動という。うん、そろそろ慌てなければならぬ。やりたいことは十二分にやったしな〜。
Wordで作成しなきゃいけないのに写真はぜんぶMacのほうだ。まずその写真をピックアップして移すところから始めなければならぬ。図ぅなんかどうしよ。
近遺調の打ち合わせのついでに行こうと思っていたのだが、いくら待っても日程が決まらないので、諦めて単独用件で行ってみる。昭和24〜35年頃あったという戦後の煉瓦工場。
住所が地番までわかっているのでその場所に行くだけでよいのだが、美濃庄ってすごく中間な場所にあり、アプローチに悩む。JR奈良線と桜井線のちょうど中間だ。結局近鉄郡山駅で降りて東へ歩くことにした。ついでに郡山の市街も歩いてみたが、ここでは刻印煉瓦を発見できず。JIS規格で手成形の煉瓦が多かったような気がする。大和煉瓦の本社は大和郡山にあったのだから、大和煉瓦くらいはあるんじゃねえかと思っていたのだが……。
歩いて歩いて美濃庄。地番の辺りは水田になっている。それは航空写真でわかってたのだけれど( すぐ近くに近畿タイルという会社があったが、関係あるのかな?) 、長20数cmの物体までは見せてくれないからな。行ってみるしかない来てみるしかない。そういうわけで来てみたわけだが、畑のふちにいくつか煉瓦が転がっているのを見つけ、しかしやはり無刻印JIS規格手成形であった。
美濃庄の中も歩き回った。人が出ていれば捕まえて話を聞こうと思っていたのだが、みんな昼寝をしているのか、さっぱり人気がない。歩き回って何かを見つけるしかない状況。これは空振りかなあ……と気弱になったところで……
焼損煉瓦を塗り込めにした土塀を発見! 廃屋の納屋の腰壁だ。残念ながら平を確認できるところがなかったが、手成形であることは間違いない。たぶんこれが朝日煉瓦の遺児ならん。
そのほかにも結構な数の手成形煉瓦を発見した。家の裏手にあって立ち入れない畑でもシートの重石に使われていた。手成形煉瓦の出現頻度は間違いなく市街より高い。しかし相変わらず刻印はなし。この煉瓦には「へ」に見える凹みがあるのだけれど偶然ついたものであるだろう。
集成2016を、と思って振り返ってみたが新規に発見した刻印って片手で足りるほどだったのだな。
・五本線+○@生石山第三
・*@友ヶ島第二
・カナ@深山第一
・■の試し押し?@大谷川上軍橋
と耐火煉瓦くらい。そりゃま、以前に比べて煉瓦探しに出かけることが少なくなったからなあ。
新規刻印よりも既知刻印とか工場とかの裏書をせねばならないものが多い。東山窯業所とか男山とかホーム聞き取りとか弘栄とか。主に印南郡か。
古くからの知り合いが次々と死んで自分だけになるという夢。知っている人間が一人もいない(自分のことを知っている人間がいない)という状況はひどく寂しく、そういう状況を想像してみたことは幾度と無くあるけれども、実際にそういう状況下に置かれるとやはり骨身に沁みるものがあった。黙っていても確実にそうなるはずのことなので(その前に自分が死ねば別だが)その予行練習みたいなものか。
そうか。1920年2月って八幡製鉄所で大きな労働争議があったのだな。前年秋から不穏な空気があって、労働団体(労友会)の幹部が解雇されたのをきっかけに2月5日未明から2万人余りがストに突入。幹部が逮捕され9日に平常運転に戻ったけれどもこの間高炉の火を落としたりしてる。んで労働側の要求が全然受け入れられなかったので24日に再度ストに入った。しかしこれも製鉄所側が高圧的態度で臨んだので3月2日には元通りにならざるを得なかった。要するに1920年2月は1-4日と10~23日くらいしか稼働してなかった。後者は高炉再点火とかでもっと短かっただろう。
そんなごちゃごちゃした月だったので「○S 60 A 1920 2」だったり「○S A 60 1920 II」だったり「○S 60 A 1920 II」だったりがあるのに違いない。それまで刻字を担当してた労働者がストってしまったんで慌てて他の人がやったために間違った、とか、罷業がうまいこといかなかった腹いせにわざと間違えたったざまーみさらせ>機能的には問題ないのでこのままでおk、とかなったんじゃないか。
「○S 60 A 192_〔blank〕」と重ね合わせて考えると面白いかも知れない。数字の書体だとか字間だとかは各年度で微妙に違うから、拓本とって比べてみたら1920年代のいつのものなのか突き止められたりしないだろうか。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00101846&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00101818&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
外食の時に料理の写真を撮らないのはマナー違反、という話があって、何を馬鹿なことをゆうておるか豚珍館め即席蝿めと罵ってみたものだが、それに対するコメントが擁護論ばかりであったのでますます驚いたことだった。曰く店側は写真を撮って貰えるように一生懸命盛り付けしたのだから写真に残さないのは失礼だと。
自分の意見と異なる意見に目鯨を立てる気はないのだが、異なる意見がいつのまにか常識のような扱いにされている現状を知ると危機感に似た感情を覚えずにはいられない。自分が望まない方向に世の中が進んでいることをまざまざと見せ付けられたような思い。戦時中に反戦の思いを抱いていた人が感じていたに違いない絶望感。
この間も、広島だったかで小学校の先生が生徒を引率して増水した川を見に行ったことが咎められていた。何故咎められなければならないのか。むしろ賞賛されるべきではないか−−−賞賛は行き過ぎだとしても非難される筋合いのないことではないかと思った。これくらいの雨が降ればこれくらいの増水をするという自然の道理、増水した川がどれほど恐ろしいものであるかを現物で学ぶことのできるよい機会ではないか。しかも先生という引率者兼解説者兼監視者がついている状況でだ。子供だけで見に行けば「コエー」「スゲー」だけで終わるだろうし、ちょけた奴が足を突っ込んで流されて死亡、などという無意味な犠牲も出るかも知れない。そういうのを抑制しながら自然の恐ろしさを学び、畏怖の念を抱き、ならばこういう時どうすればよいか(どう判断すればよいか)を教わるまたとない機会ではあるまいか。この経験が数年後数十年後の自分を助けるものになるはずなのだ。一見安全そうに見える堤防が洗掘され破堤するかも知れないことを教わったりすることもできたのではないか。無論先生も(このクレーマー体質なご時世故)あとで糾弾される可能性に思い及ばなかったはずはない。それでも敢えて引率して見せたのは賞賛に値する教育行動ではないか。
てなことを思ったのだけれども、やっぱり非難の声ばかりで、通り一辺倒なそれに辟易した。「見せたいんだったら一人で行って動画撮って見せればいい」などという輩もいて哀れだった。安全な場所でぬくぬくとしつつ平面なディスプレイに映し出される画を見たところで、真の「危険」がわかるはずがない。ただのこわい画像でしかない。ごうごうどろどろと流れる水の音、それによって押し流されていく岩がたてるくぐもった響き、泥水特有の匂い、とりまく環境の湿気た空気、暑さ。そういうのを感じたことのない人間が例の河原の川流れのような悲喜劇を起こす。動画でいい抔と宣う御仁はきっとストビューさえあれば旅行なんて要らないと思っているに違いなく、哀れを通り越して人間存在の終焉を思わせ心胆寒くなる思いがする。
そういう、自分とは異なる意見に対し、文句を言うのはたいへん簡単なことで、下策の下と心得ているつもりである。なんならむしろそういう大多数意見に迎合できない自分を呪う気もある。迎合しないつもりで居ても、結局は合流しなければならなくなることもある。本来ならそうあるべきだろうとも思う。けれども、特に昨今、どう頑張っても迎合できない(迎合したくない)と思うような大多数意見が次から次へと現れている気がしている。外出する時はマスクをしなければならないとか、web会議で上座が設定できないと不安とか、レジ袋有料化に腹を立てて店員を殴るとか。最後のは大多数の意見ではないが。
キャッチアップ能力の限界を感じる。固陋な古老になり始めているのかも知れないという不安がある。歳を取ることへの不安ではなく、新しい状況への適応能力が天井を衝いてしまったのではないかという不安だ。思考はつねに新鮮で柔軟でありたい。移りゆく世の中をいつまでも観察し続けていたい。そのためにはある程度世の中に付いていかなければならぬ。それができなくなりつつあることが怖い。それは自己の確立した証拠よ、と敢えて誤読して誤魔化しても良からんずらんが、そんな妥協こそ固執の経始点であり引き返せなくなるゼロ・ポイントではあるまいかと思う。
最近やっと岩波新書の近現代史シリーズを通して読んだ。通説として学んでいたこと、その時代に抱いていたイメージが、ことごとくひっくり返された思いがする。江戸期の一揆と明治期の一揆がまるで全然別物であったこととか、明治政府がずいぶんと自分都合で書き換えたところがあるとか、戦後が必ずしも1945年を境にパッと変わったわけでないこととか、押し付けられた憲法ではなかったこととか。これが真実!真実を知った!とは思わないが、抱えていた固定概念にヒビを入れ、疑いを差し挟む余地ができたことは嬉しく思う。
さらに色々を学んで、自ら割って再構築する作業が必要。それがしたいがために道路を探求したり煉瓦を拾い集めたりしてきたのかも知れぬ、と色々すっ飛ばして思う。技術や産業の歴史は、政治や外交の話ほどイデオロジカル?でないし、誇張したり歪曲したりする必要が乏しいから、とりあえずは鵜呑みにして信じておける。その側面から見た日本は思想史ほどややこしくない。要は自分が生まれたこの国が、どんなふうにしてできあがり、どんなふうに「今」に繋がっているのか、自分がどんな地平の上に立っているのかを把握して、安心したいだけなのである。把握して何か新しいことをしようという気はない。わかりたいだけなのである。そこがnagajisの弱さである。
いつまで経っても終わらねえ…それもそのはずS34の時点で504も認定されているのだった。しかもこの告示の後に区域の決定告示があるのを忘れていた。区域決定告示は認定告示にある県道を再録したようなもののはずなのだけれど(路線認定後速やかに区域の決定をしなければならない)、もしかしたら後者が遅れたやつがあったりするのかも知れない。整理番号と県道名くらいはチェックしておかないと。
路線認定→区域決定後はその区域が道路管理者の管轄下に置かれることになって無断で土地を改変したりできなくなる。用地買収が済んでいるか否かに係わらず。旧道路法にはないこの仕組はそれによって実際の道路建設を促進する狙いがあった(名ばかり県道を無くす目的があった)ことが土木学会報の新道路報解説 http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/37-10/37-10-13701.pdf にある。けれども未だに不通県道は多く有るわけで。原因はいくらか考えられる。用地買収が難航したとか(例、請取峠)、トンネル建設を予定していてそれが着手できずに居るとか、当時は意味があったけれども今となってはわざわざ改良して車道にする必要がなくなったとか。
所々番号が飛んでいるのは他府県の都道府県道と接続するものかも知れない。告示末尾の付記にそのような注記がある。他府県の路線認定の日と合わせる必要があるので今はしないといった内容。そういえば請取峠もそうだったな。戦後の指定は奈良県三重県で同日だった気がする。そのくせ峠で県道指定が食い違っているという。江浪峠もそうだった。兵庫側は江浪峠道を通らずにその西の岡山県境の峠まで行っている。鳥取県側は峠道を踏まえて峠までが都道府県道。兵庫側は西の峠から江浪峠へ向かう新線でも作るんだろうか。それとも鳥取県に別ルートを希望してたりするんだろうか。いったん岡山に入って再度若桜に出るようなルートだったりすると三県同時に変更しなければならなくなって面倒臭そうだ。そういやこの道はいつから県道だったんだっけ。ルポの時に多少調べた気がするが頓には思い出せない。
戦前の県道指定の最終形はS34県道認定告示の次の次にある廃止告示を見ればよい。ここで旧県道がまとめて、いや一つ一つ丁寧にというべきか、とにかく廃止されている。
Before...
_ nagajis [日常の安定が保証されていない私ですので…個人的には旅に出て面倒臭いこと全部忘れて日が登ったら起き日が沈んだら寝る生活のほうがのほほんとできていいです。でもあまり出かけると今度はそれが日常となってし..]
_ とと [……旅、良いですよね…。私は、ここ15年以上拝んでいない海が見たいです…。ほんと。]
_ 二枚橋 [定義に来ましょう。 やませが吹いていれば涼しいはずです。避暑オブで。 ちなみにミニ投稿で写真は何点まで許されますか?]