nagajisの日不定記。
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外食の時に料理の写真を撮らないのはマナー違反、という話があって、何を馬鹿なことをゆうておるか豚珍館め即席蝿めと罵ってみたものだが、それに対するコメントが擁護論ばかりであったのでますます驚いたことだった。曰く店側は写真を撮って貰えるように一生懸命盛り付けしたのだから写真に残さないのは失礼だと。
自分の意見と異なる意見に目鯨を立てる気はないのだが、異なる意見がいつのまにか常識のような扱いにされている現状を知ると危機感に似た感情を覚えずにはいられない。自分が望まない方向に世の中が進んでいることをまざまざと見せ付けられたような思い。戦時中に反戦の思いを抱いていた人が感じていたに違いない絶望感。
この間も、広島だったかで小学校の先生が生徒を引率して増水した川を見に行ったことが咎められていた。何故咎められなければならないのか。むしろ賞賛されるべきではないか−−−賞賛は行き過ぎだとしても非難される筋合いのないことではないかと思った。これくらいの雨が降ればこれくらいの増水をするという自然の道理、増水した川がどれほど恐ろしいものであるかを現物で学ぶことのできるよい機会ではないか。しかも先生という引率者兼解説者兼監視者がついている状況でだ。子供だけで見に行けば「コエー」「スゲー」だけで終わるだろうし、ちょけた奴が足を突っ込んで流されて死亡、などという無意味な犠牲も出るかも知れない。そういうのを抑制しながら自然の恐ろしさを学び、畏怖の念を抱き、ならばこういう時どうすればよいか(どう判断すればよいか)を教わるまたとない機会ではあるまいか。この経験が数年後数十年後の自分を助けるものになるはずなのだ。一見安全そうに見える堤防が洗掘され破堤するかも知れないことを教わったりすることもできたのではないか。無論先生も(このクレーマー体質なご時世故)あとで糾弾される可能性に思い及ばなかったはずはない。それでも敢えて引率して見せたのは賞賛に値する教育行動ではないか。
てなことを思ったのだけれども、やっぱり非難の声ばかりで、通り一辺倒なそれに辟易した。「見せたいんだったら一人で行って動画撮って見せればいい」などという輩もいて哀れだった。安全な場所でぬくぬくとしつつ平面なディスプレイに映し出される画を見たところで、真の「危険」がわかるはずがない。ただのこわい画像でしかない。ごうごうどろどろと流れる水の音、それによって押し流されていく岩がたてるくぐもった響き、泥水特有の匂い、とりまく環境の湿気た空気、暑さ。そういうのを感じたことのない人間が例の河原の川流れのような悲喜劇を起こす。動画でいい抔と宣う御仁はきっとストビューさえあれば旅行なんて要らないと思っているに違いなく、哀れを通り越して人間存在の終焉を思わせ心胆寒くなる思いがする。
そういう、自分とは異なる意見に対し、文句を言うのはたいへん簡単なことで、下策の下と心得ているつもりである。なんならむしろそういう大多数意見に迎合できない自分を呪う気もある。迎合しないつもりで居ても、結局は合流しなければならなくなることもある。本来ならそうあるべきだろうとも思う。けれども、特に昨今、どう頑張っても迎合できない(迎合したくない)と思うような大多数意見が次から次へと現れている気がしている。外出する時はマスクをしなければならないとか、web会議で上座が設定できないと不安とか、レジ袋有料化に腹を立てて店員を殴るとか。最後のは大多数の意見ではないが。
キャッチアップ能力の限界を感じる。固陋な古老になり始めているのかも知れないという不安がある。歳を取ることへの不安ではなく、新しい状況への適応能力が天井を衝いてしまったのではないかという不安だ。思考はつねに新鮮で柔軟でありたい。移りゆく世の中をいつまでも観察し続けていたい。そのためにはある程度世の中に付いていかなければならぬ。それができなくなりつつあることが怖い。それは自己の確立した証拠よ、と敢えて誤読して誤魔化しても良からんずらんが、そんな妥協こそ固執の経始点であり引き返せなくなるゼロ・ポイントではあるまいかと思う。
最近やっと岩波新書の近現代史シリーズを通して読んだ。通説として学んでいたこと、その時代に抱いていたイメージが、ことごとくひっくり返された思いがする。江戸期の一揆と明治期の一揆がまるで全然別物であったこととか、明治政府がずいぶんと自分都合で書き換えたところがあるとか、戦後が必ずしも1945年を境にパッと変わったわけでないこととか、押し付けられた憲法ではなかったこととか。これが真実!真実を知った!とは思わないが、抱えていた固定概念にヒビを入れ、疑いを差し挟む余地ができたことは嬉しく思う。
さらに色々を学んで、自ら割って再構築する作業が必要。それがしたいがために道路を探求したり煉瓦を拾い集めたりしてきたのかも知れぬ、と色々すっ飛ばして思う。技術や産業の歴史は、政治や外交の話ほどイデオロジカル?でないし、誇張したり歪曲したりする必要が乏しいから、とりあえずは鵜呑みにして信じておける。その側面から見た日本は思想史ほどややこしくない。要は自分が生まれたこの国が、どんなふうにしてできあがり、どんなふうに「今」に繋がっているのか、自分がどんな地平の上に立っているのかを把握して、安心したいだけなのである。把握して何か新しいことをしようという気はない。わかりたいだけなのである。そこがnagajisの弱さである。