nagajisの日不定記。
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江浪峠の峠道で見かけた石垣は、やはり製鉄に関するもののよう。採取した土を水で流して比重でふるい分け砂鉄を取り出す「鉄穴流し」の遺構である可能性大。鉄穴流しをキーワードに検索するとそっくりな写真がいくつか出て来る(江浪のは少し小規模?)。もう一度、千種の教育委員会に聞いてみようか。製鉄はいつ頃まで行なわれていたのか確認。あと峰越、大通峠の開通年。
旧千種町の辺りは播磨風土記にも鉄が採れるという記述があるほどの場所。花崗岩に含まれる鉄(砂鉄)を採取したらしい。確かに峠道には花崗岩質の岩がごろごろしていたし、どこかで風化花崗岩の白茶色っぽい崖を見た覚えもある。それを考えると峠直下のナルい谷や北側の不自然な地形も、実は土砂を掘り出し山を崩した成れの果てなのかも知れない。自然地形に見えて実は土工の跡だったとしたら、ちょっと面白い。
花崗岩には鉄分を多く含む山陰型の花崗岩と、鉄分の少ない山陽型の花崗岩とがあるという。山陽側でも千種から波賀にかけて分布するものは山陰型に近いもの。この山陵にはかつて「カナゴ乢」という峠があって、若桜から砂鉄を運んだルートとされているが、もっと昔は千種でも豊富に採れたのだろう(西河内天児屋には大規模なたたら場・屋敷跡が残されている。資料館もあり)。
江浪峠は元禄の頃に製鉄業者によって開かれた道。製鉄に使う木炭を運び入れるためのものだったとか。それまで千種から鳥取(若桜)方面に出るには大通峠やその西隣の中江乢が利用されていたが、江浪峠の開削で荷役や交通も江浪峠が主流になった。若桜からの荷が江浪ばかりを通るようになって、西河内と東河内の馬追の間で諍いも発生している。明治20年代半ばに幅員6尺に広げられ、一応、県道若桜南光線。ただし松波さんの大正県道表には載っていないから、それ以降の指定らしい。いつ頃まで使われていたのか。。。MAZDAのB360がヒント。つーか天児屋国有林から当たれ?
島根県の主要道は明治20年頃に計画が建てられ改修されたものが多い。それが大部分残されているのも面白い。戸倉峠しかり、志戸坂・黒尾峠しかり、明智・四十曲然り。面白いことに、当時の国道(東京と鳥取を結ぶもの)は戸倉峠経由の道=若桜街道で、当時の県令も真っ先にこの道を改修しようとしたようだけれども(元々は山県有朋の案。それを山田県令が頑なに守り通し、県議会の反発を受けながらも改修を強行)、実際には智頭から志戸坂峠(駒返坂)を経由して姫路に出る智頭街道のほうが圧倒的によく利用された。この傾向は1900年代(以降)まで続く。輸出品の金額でいえば2倍近い差がある。
戸倉峠は昭和18年5月20日に改修工事に着手。しかし旧隧道は昭和30年に完成とあるから、戦争による中断があったものと思える(戸倉に隧道を抜く必要性は明治の改修直後から認められていた。というか、山田県令自ら「隧道を作らないことには十分な効果を引き出すことはできない」(明治21年・土木政策の引継書)などとカミングアウトしている)。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/htm/25-06.html