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2008-01-27 一庫穴OFF終了、そしてそれ以外の長い長い独白 [長年日記]

[ORJ] 写真多めです

参加者2名計3名。実は予想外に賑やかな探索だった。収穫も上々なり(最後にちょっと時間をオーバーしてしまったのはアレですが・・・)。お疲れさまでした。詳細はまた次号にて。少し写真をupしてみる。

画像の説明発電所側から見て2つめの隧道。湖岸道路の法面の落石防止ネットのアンカーにされている。ちょっと面白い使い方だ。反対側は意外かつ非常に目立つ位置に口を開けている。ただし南京錠つきで、(合法的に)入ることはできない。

画像の説明 ちょっと山行が風。キャッチコピーの繰り返し点が良い味を出している。生涯のどこかで飲んだことがある記憶があるのだが。中部地方では今でも手に入る?

画像の説明探索終了後、独り食う遅い昼飯。実はそういう昆布があるものだと考えていた。最近いろんな具が出てるみたいだからな。

…え、OFF報告になってないって? 当然だ。そんなに広い心の持ち主じゃないのよ>nagajis

車のおじさんの案内を済ませたあと、りんどう橋で別れ、自転車を回収したところでちょうど3時。時間が余ったので、朝行き掛けに寄っていた某鉱山跡へ再度足を運んだ。最近知ったのだがいわゆる多田銀山は銀山の辺りだけでなく広範囲にわたって鉱床があったらしい。その一つに奇妙山銅鉱床がある。奇妙山とはいまの知明山、つまり一庫ダムのまん中にそびえるあの山だ。

朝は15分程度の短い探索だった。石垣や周囲の谷を巡る小径、そして潰えた坑道らしきものを見つけていた。それがたぶん、全てだろうと、たかをくくっていたのだが...その奥に本体はあったのだ。

画像の説明ズリ。激しくズリ。江戸時代からこの状態のズリ。

画像の説明 画像の説明穴、穴、穴。
画像の説明

最後の一つ(10mほどで終わっている)を除き、いずれもフツーには入れない、立坑だ。ヤバい。ヤバすぎる。
すぐそこで塞がっているのかも知れないが、あのズリの量だ。奥が深いか、あるいは自分が見つけられなかった別の坑があるのかも知れない。

画像の説明多田の銀銅山は石英脈に混じって析出するタイプのものだという(多田では「ひ」と呼ばれた)。それっぽいものをズリから一つ拾ってきた。←の位置に水平に石英脈があって、黒っぽい鉱石が詰まっている。矢印の反対側にわずかに緑青が吹いている部分もある。

画像の説明下流の沢にはスラグも見られた。石に叩きつけてみると案外簡単に割れる。割ったときは綺麗な黒褐色だったのだが、空気に触れたせいか錆びてしまった。それでもこの造型はなかなか面白い。

さらに帰りがけに次回の北摂線描用の補完ネタを仕入れてきた。まさかあんな所に栄南団地がありアレがあろうとは。だが方角は確かに合っている。寄寓というか執念というか。

[独言] おまけ情報

平野にあった能勢電鉄三ツ矢鉱泉引込線(跡?)が消失。一昨年の5月にはまだあったのだが...。

画像の説明その時の写真。ホームセンターの敷地の一部になっているうえ、そのホームセンターがつぶれてしまっていたために立ち入り出来なかった。奥に見える段差の辺りが引込線のあった場所で、遠目には煉瓦積みなども残っていたように見えたように記憶する。

画像の説明 先日通った時、このホームセンター跡が跡形もなくなくなって更地になっていた。痕跡は微塵もない。三ツ矢サイダーの塔はかろうじで遺されている(写真左手の赤い頭の塔)。

無理してでも立ち入って写真を撮っておけば良かったかな・・・。

たまたま立ち寄った古本屋でたまたま入手した「街道を読む」(105えん)を読んで、司馬さんがうちの田舎に訪れていたことを知った。

飛行機で国東に着き、国東の半島を廻らずに(というのが「街道を読む」らしくて面白い)日出→別府→横断道路を通って由布岳の肩を越えて由布院へ(このルートを須田画伯が一度通ったことがあるというのも意外、確かに印象に残っただろうという眺めの峠だ)。翌日水分峠を越えて玖珠町の角牟礼(つのむれ)城に行こうとしている。

角牟礼城は今でこそ「穴生積み」が有名になった(なってないかも知れないが)戦国時代の山城跡で、町がポスターを作ったりするような場所になったが、当時は町の人はおろか役場の人間も知らなかったようだ。そちこちで尋ね回った結果、三島公園にたどりつき、そして司馬さんは角牟礼城のかわりに末廣神社を「発見」する。

末廣神社は久留島藩第八代藩主の久留島通嘉によって作られた、神社とは名ばかりの城郭だ。小高い山をぐるりと取り巻く石段石垣、天守閣の位置に鞘堂つきの本殿が置かれている。外様大名だった久留島藩は城を持つことが許されなかった。その鬱憤を晴らすために城まがいのこの神社を建てたのだ。そういう事前知識のないままやってきて、末廣神社に出会った司馬さんの驚きはいかほどだったろうと思うし、その本質を見抜く目も確かだ(探していた城がいつのまにかこの神社になっているような感じがしないでもないが。司馬さんは角牟礼城址へは至っていないようだ。何しろ歩いて数十分の山の上だしな)。

司馬さんお得意の「穿ち」もふるっている。役場や町の人がこの「城」に疎いのは、建設に狩り出され虐げられた先祖の記憶が冷淡にさせるのではないか、というのだ。たしかに神社の麓には「喜藤次泣かせの石」という大岩がある。庭石にするために運んできたもののあまりの重さに立ち往生してしまい、陣頭指揮を執っていた庄屋の喜藤次が地団駄を踏んで泣いたという逸話が伝わっている(そこから加持祈祷したりなどしてようやく今の位置に運びおおせた。何しろでかい。畳が八枚敷けるほどの大岩だ)。そんなこともあって、通嘉をダメ大名扱いにしていさえする司馬さんである。

確かに通嘉はそういうタイプの藩主だったようだが、彼は久留島藩400年の退屈な歴史の中でも際立った存在で、他の歴代藩主はそれほどの圧政者ではなかったようだ。末代の藩主などは一汁一菜の食事に質素な籠、時には籠を使わずに歩いたりすることもあったとか。通嘉自身も、神社に置く手水鉢(これがまた法外にでかい。八石入る)を作らせる時に「石の粉一升を穿り得たものには銭一升を与える」などという競争をさせたりするくらいの愛嬌はあったようだ。

真実はもっと別のところにあったのだと思う。大分県人はそもそも「よだきがりや」だ。城のようなものがあっても「そういうもの」としてしか扱わない。活用するのがよだきいのである。そんな町が我が町玖珠町であり、その停滞が我慢ならなかったから飛び出してきた私だ。彼の肩を持つわけではないが、通嘉公みたいな人がいなかったら、もっと寂しい町になっただろうと思う。


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