nagajisの日不定記。
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粗悪な密造酒で三合(号)飲めば酔い潰れたことから「カストリ雑誌」とはいう。戦後間もなくの日本にはそんな粗悪な雑誌が満ち溢れていた。
そんなことはどうでもよくて、いや、ホントはORJもそんなカストリ雑誌にならないよう気をつけなきゃっていう話なんだけれども、その前にこの「カストリ雑誌」というものを頭に思い浮かべた時、必ずと言っていいほど連鎖的に
カストロ雑誌
という言葉が思い浮かばれては、なんというかこう、尻の辺りがむずむずする感じがする。
フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス。キューバ共和国の前国家元首であり、政治家、革命家、軍人。弁護士でもあり元アマチュア野球選手でもある社会主義者。彼のことしか書かれていない雑誌。
果たしてそんなニッチな雑誌が3号続くのだろうか。いや、カストロ前議長なだけにそういう雑誌がありそうな気もする。何しろ日本にだって同じような個人崇拝の雑誌が、しかも3号以上続いているしな(ナニとは言わないが)。ORJだってニッチの究極型だ。
で、人の性(さが)として、まん中の2文字を入れ替えてみたくなる。意識や思考の連鎖というものは得てしてそんな下の方向へ、原初の笑いへと向かうのが普通である(などと書いて自己を正当化しておく)。以上、たったそれだけの駄文。カストロ議長万歳。
本題に戻って、たった3号でもいいから雑誌を作ろうとし、また一応は売れていたのだから、戦後の人々はよほど情報に飢えていたのだろうと思う。情報の価値は今以上に高かったとも言えるかも知れない。
そんなこんなで戦後日本を席巻したカストリ雑誌も長続きせず、生き残った雑誌も、最近になって次々と休刊している。雑誌の愛読者ではないnagajisも少し考えざるを得ない。情報を売る、という行為がどこまで通用するものか。
インターネットの普及で情報がタダになったから役目を終えた、というのはよく言われそうなことだ。しかし実は、人々はもともと情報ではなく、情報のやりとりを通したコミュニケーションに飢えていただけで、その媒体として雑誌を買っていただけだったのではないか、と思ったりする。どこかで誰かとつながっている感じさえすればよく、そのためには携帯電話が究極のアイテムとして君臨する今日だ。よほど内容を盛り沢山にして情報の価値を高めるか、それとも消費されることを使命とする、それこそカストロリ雑誌のようなものでなければ生き残れないのかも知れぬ。作る側にしてみればどちらであっても辛い。よほどの使命感か自身のテンションがなければ、あるいは正反対によほど投げやりでなければ続かないだろう。
深い意味はない。写真整理中に出てきたヌコwithヨッキれん氏。
なかなか太々しい態度。
さらに太々しい態度。ダルそうでもあり腹黒そうでもある。
事実、ヨッキれん氏のパワーを持ってしても振り向かせること能わず。ツン猫とでもいうべき種族の猫であったらしい。