nagajisの日不定記。
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教授部授業開始。体操・銃剣術。運動班運動は交換駈歩にて三年は取締の予が指揮し室園まで行く。今日の速さは真に二千米の如く一挙白川学園前まで十分かゝらずして行く。大部皆にこたえたるが如し。運動班切磋会あり。凡なる一日なるも体育には十分なりき。今学期こそ体育なり。近日毎日一日に二回は鼻血ありて困る。理由不明。解除
死後途中に山行がの茶部屋に呼び出された.行ってみればORJの内容に関する激論?が戦わされていて,いろんなお話しを伺えて大変参考になりましたです(ヨッキさんサンクス).
これで思ったんですが,やっぱりORJって不透明ですよねぇ.掲示板はないしMLも一方通行だし,編集部員(特にnagajis)は何を考えているか解らないし.
そもそも編集部員と読者という呼び方をしているのも,何か境界線を設けているような感じがしないでもない.勿論,自分たちはそんなつもりは毛頭無いのですけれども(ただ編集作業に深く関わっているか否かの違いでしかない,と書いたんでしたっけ?).でも,例えば次号の特集はこれこれをやります,いまここまで出来てますっていうのをすべて告知してしまうのも,読む側にとっては面白くないだろうしなあ.難しい.
いや,待てよ,次号はどうせ特集は休みな訳だし,それを一回やってみるのも手だな.などと思ってみたり.
粗悪な密造酒で三合(号)飲めば酔い潰れたことから「カストリ雑誌」とはいう。戦後間もなくの日本にはそんな粗悪な雑誌が満ち溢れていた。
そんなことはどうでもよくて、いや、ホントはORJもそんなカストリ雑誌にならないよう気をつけなきゃっていう話なんだけれども、その前にこの「カストリ雑誌」というものを頭に思い浮かべた時、必ずと言っていいほど連鎖的に
カストロ雑誌
という言葉が思い浮かばれては、なんというかこう、尻の辺りがむずむずする感じがする。
フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス。キューバ共和国の前国家元首であり、政治家、革命家、軍人。弁護士でもあり元アマチュア野球選手でもある社会主義者。彼のことしか書かれていない雑誌。
果たしてそんなニッチな雑誌が3号続くのだろうか。いや、カストロ前議長なだけにそういう雑誌がありそうな気もする。何しろ日本にだって同じような個人崇拝の雑誌が、しかも3号以上続いているしな(ナニとは言わないが)。ORJだってニッチの究極型だ。
で、人の性(さが)として、まん中の2文字を入れ替えてみたくなる。意識や思考の連鎖というものは得てしてそんな下の方向へ、原初の笑いへと向かうのが普通である(などと書いて自己を正当化しておく)。以上、たったそれだけの駄文。カストロ議長万歳。
本題に戻って、たった3号でもいいから雑誌を作ろうとし、また一応は売れていたのだから、戦後の人々はよほど情報に飢えていたのだろうと思う。情報の価値は今以上に高かったとも言えるかも知れない。
そんなこんなで戦後日本を席巻したカストリ雑誌も長続きせず、生き残った雑誌も、最近になって次々と休刊している。雑誌の愛読者ではないnagajisも少し考えざるを得ない。情報を売る、という行為がどこまで通用するものか。
インターネットの普及で情報がタダになったから役目を終えた、というのはよく言われそうなことだ。しかし実は、人々はもともと情報ではなく、情報のやりとりを通したコミュニケーションに飢えていただけで、その媒体として雑誌を買っていただけだったのではないか、と思ったりする。どこかで誰かとつながっている感じさえすればよく、そのためには携帯電話が究極のアイテムとして君臨する今日だ。よほど内容を盛り沢山にして情報の価値を高めるか、それとも消費されることを使命とする、それこそカストロリ雑誌のようなものでなければ生き残れないのかも知れぬ。作る側にしてみればどちらであっても辛い。よほどの使命感か自身のテンションがなければ、あるいは正反対によほど投げやりでなければ続かないだろう。
深い意味はない。写真整理中に出てきたヌコwithヨッキれん氏。
なかなか太々しい態度。
さらに太々しい態度。ダルそうでもあり腹黒そうでもある。
事実、ヨッキれん氏のパワーを持ってしても振り向かせること能わず。ツン猫とでもいうべき種族の猫であったらしい。
そうしてあれからさらに賞味期限の過ぎたきしめんを手製うどん出汁で食べている(※もう一袋残っていたのを忘れていたのである).通算約1ヶ月超過しているはずだが悪いところなど毫もない.冷蔵庫という文明の利器を手に入れた我々は無敵なのである.
しかしその一方,昨晩帰りがけに買って仕舞い忘れていた焼き鳥(もも)はあっという間に傷んでしまった.やけに酸っぱいタレだなと思ったら8/31製造9/2消費期限と書かれてあって驚愕した.道理で20%割引だったのだなと思いつつ,そして文明の利器を使い慣れていない我が身を恨みつつ,3/5まで食べたところで胃が受け付けず断念した.勿体無い.罰が当たるぞ.飢えて死ぬぞ.殖えて死ぬのは構わんが飢えるのは良くない.できれば植えるのも避けたい.のっとうぇるかもだ.
最近ロータリー復権のニュースをよく耳にするようになった.今はロータリーと言わず「ラウンドアバウト」というらしい.ロータリーとラウンドアバウトとどう違うのかよくわからなかったのでWikip.など眺めてみたけれども,やっぱりよくわからない.進入に一時停止が必要とか,ロータリー内に信号があるとかがロータリーで,そういうのでない現代的なのがラウンドアバウトみたいな書き方している.で,狭義のラウンドアバウトは国内に存在しないみたいな言い方.じゃあ寿ロータリーとか阪大近くの住宅地のあれとかは違うんかいの.
ロータリーは昭和9年に東京市内の交差点の交通整理のために導入されたのが最初.もちろん信号はなかった.進行のしかたなどは今のラウンドアバウトと変わるところがない(通行に優先順位があったかどうかはわからない).昭和14年までに25カ所以上が設置され成績はそこそこ良かった.この25箇所だけでも交差点での事故が3/5くらいに減ってる.最初に設置された和田倉門交差点のは道路の改良第17巻第8号に図がある.ここは若干特殊で大手町~皇居の路面電車が東西中心線を貫いていた.
戦後もそれを引き継いで各地に作られている.千葉の東金街道と成田街道(だったっけ)の交差点とか.
それが廃れてしまったのは,ひとえに「歩行者に優しくない」という点による.車が多くなるとひっきりなしに侵入してくる/出てくる車で人が渡るタイミングを失する.前掲道改の講習資料でも歩行者をどうするかが課題としている.完全に解決するには地下道を通すしかなく,すべての交差点にそれを設けるのは不可能だ.それよりか信号を設置して普通交差点にしたほうが安上がりかつ大量の車を捌ける.あと車の性能がよくなってスピードが出やすくなった結果横暴な運転者が増え歩行者を危険に晒すようになった.戦前の車はひとが伴走できるほども遅かったのだ.歩行者のマナーも悪くなってるだろうな多分.結局は資料にある断続的交通整理の信号間隔を最適化する方向で発展せざるを得なかった.
失敗の最大原因は車も人も多い市街地にロータリーを導入したことだろうと思う.そういう所ほど効率的な交通整理を必要としたのだろうけれども.ある程度交通が疎らでないとうまく機能しない.道路が車でぎゅうぎゅう詰めになるような時間帯のあるような場所ではあっさり閉塞するんじゃないかしらん(しかしそういう場所ははなからRA化しないだろう.2車線4車線をロータリーにできないものな).
放っておいてもこの先人口は減る一方なのだから,あと数十年もすれば交通渋滞も緩和されるんじゃないか.
http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/roundabout/pdf01/5.pdf
あとちょっとだー
自分の頭のハエを追え、と思わないでもないが面白くて面白くて。ワンクリックで破壊的に一括書き換えとか快感。余談だが整理整頓がスキな私はB型です。
説明見ずに買っといて「付録ついてないんですけど」っていけしゃあしゃあと言える神経がわからない。「マケプレ定期でggrks」と何度言いそうになったかわからぬ。
かと思うと、以前ORJを買ってくださった人にブツを先送りすることになったり。相手はきっとそんなこと微塵も思ってないだろうなあ。すげえ奇遇だなあ。そういやCD代払ってくれたんだっけか。うん、くれてるはず。でなかったら怒りの波長を高速フーリエ変換するノミナリー。
単にレールが傾斜していて扉の自重で滑ってくるだけという単純仕様。しかもそのコマの交換だけで4まんえんとか。そしてその交換費用をケチられ。そもそもキチンとアトゼキしたら解決する話であるのだ。あらゆる方向に向かってどないやねんと愚痴りたくなる。
そんなスライドドアを見ているうちに不憫になって、あれこれ考えていたら、要するに重りをつけて引っ張ればいいんじゃねと気がついた。パズーの家の扉方式とでもいえばよいか。倉庫にあるものを組み合わせて適当に作ったらそれなりに機能するようになった。重りの重さは要検討。コンビニ本一冊分+でかいクリップ一個分もイランと思う。文庫本一冊ぶら下げておいたら。
暗いと不平を言うよりも進んでハゲて世を照らせ(笑
そんな工作をしていて左手にマメができそうになった。ふとわが手を見てみれば昔はあんなにタコだらけだった手がつんつるてんになっている。タコの痕跡さえもない。そりゃそうだ、キー入力じゃ指先しか使わねえし自転車は朝晩しか乗らないしクッション効いたバーテープだし。
働き者の手じゃねえなあ。働いてないつもりはないけれどもなあ。
「明治前期産業発達史資料 別冊 36-1 鉄道局年報 自M20 ← 見るべきは多分これ
「明治前期産業発達史資料 別冊 36-2 鉄道局年報 自明治27年至明治29年
明治前期産業発達史資料 別冊 30-2 逓信省年報 第2・第3(明治22・23年)
明治前期産業発達史資料 別冊 30-3 逓信省年報 第4前編・後編(明治24年)
明治前期産業発達史資料 別冊 30-4 逓信省年報 第5(明治24年)
明治前期産業発達史資料 別冊 26-1 内務省年報 第1回1
明治前期産業発達史資料 別冊 26-2 内務省年報 第1回2
明治前期産業発達史資料 別冊 26-3 内務省年報 第2回1
明治前期産業発達史資料 別冊 26-4 内務省年報 第2回2
明治前期産業発達史資料 別冊 26-5 内務省年報 第2・3・4・5回
明治前期産業発達史資料 : 勧業博覧会資料 163← 見るべきは多分これ
第三回内国勧業博覧会の解説書の原本が、何故か一橋大のレポジトリに置かれてある。勢陽組→水谷工場の年月日記載あり。型抜して叩くタイプの作り方。
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/6934/1/kgh3mie02.pdf
ksg
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/sc/46934/kgh3mie02.pdf
検索かかるように変更しとけよ!!!(2022-1-18)
奈良県もあるんだけど肝心の第1部第2類が存在しねえ。
まほろばデジタルライブラリーにあるんじゃないかと思ったが、関連公文書が確かにあったものの、目次無しくずし字草書の400コマ超×3部構成で非常につらい。結局第三部の上京用運賃割引申請?に平松甚平氏の名を見つけただけ。基本的にここには解説は含まれない。(第一部→第三部の順に新しくなっているようなのであるとすれば第一部か)。
556000681 p.91 p.121の辺りに土倉庄三郎の筏出品に関わる文書。筏二連というすげえでかい出品だったため色々大変だったようである。規定外のものだが吉野造林の手法と規模を示して林業者に感動を与えるにはこれくらい必要云々と玉置郡庁が上申していて、移送費用とか現地の日覆い設置とかは出品者持ちということで許可されたようだ(つまみ食い読みの結果なので間違ってるかも知れぬ)。
考えてみればこの直後に玉置郡長は吉野郡大水害で亡くなるのだよな。。。
京都府 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801934/149
出品目録には平岡惣右衛門の名前があるんだが講評の一覧には出て来ないんだ。どういうことだ。
大阪府 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801934/221
横山善三 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801934/222
田中清助、津江[草冠+保]、旭株式会社喜多羅守三郎、九里庄次郎、堺煉瓦福本元之助、子師常次郎、摂津国西成郡木津村飯田久兵衛、摂津国西成郡難波村藤本甚右衛門、同中臣吉郎兵衛、大阪煉化石合資会社岡島嘉平次、川南村大阪窯業株式会社長尾藤三、耐火煉瓦石・広瀬倉平、宮本積徳、福島村田中盛秀、西成郡北野村近山太兵衛、摂津国住吉郷墨江村森本小兵衛、あんどそーおん。
兵庫県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801934/260
明石郡大久保村辰巳合資会社八木煉瓦製造所 中川浩平。講評では山陽煉瓦になってる。耐火煉瓦:播磨国神東郡粟賀村沼田政七、神西郡甘増村安積秀吉、煉化石:淡路国津名郡洲本町中村重次郎、おっと、関西煉瓦株式会社長和田半兵衛。
奈良県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801935/91
奈良町 平松甚平
滋賀県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801935/180
甲賀郡長野村 今村岩松 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801935/181
甲賀郡寺庄村 杉本喜三郎
和歌山県はなし。
この回に杉本煉瓦工場が厚65mmの大型煉瓦を出品しているのが興味深い。草津駅のいちばん端のホームに使われているのが多分60mm超の厚煉瓦。あと丹治利右衛門は瓦の出品がメインで煉瓦はあとで出てくる。
第1回〜第3回は第1部第2類、第4回以降は第1部第10類。出品解説は第1回は確かに存在するが他の回は不明。椎茸と美術品とか限られた類については近デジにあるが。第三回の解説というのは実在する気配がある。昭和の堺市史がそれを出典にしているし国立国会図書館にもあるげ。
仏生山隧道には作業局型(だと思う)が使われてある。「み〜な」で探検されていた東海道線新旧線の拱橋の煉瓦は一部めっさ厚いのがある。二重構造のは拡幅によるもんちゃうか。煉瓦サイズを厳密に測ってみたいものだ。。
https://archive.org/details/rudimentarythrea00dobsuoft/page/236?q=Rudimentary+Treatise+on+the+Manufacture+of+Bricks+and+Tiles+1868
Dobson "A rudimentary threatise on the manufacture of bricks and tiles"。ここにある説明がHoffman窯の原点。円形の焼成室、煙突根元の円形の煙道。煙道はただ排気のために開け閉めする。1856年発明、1859年特許取得。イギリスでは1862年に初めて建造されたらしい。Archive.orgのこれは1899 edだが1868 edから同じ内容のはず。当時プロイセン・ドイツでは特許の有効期間はとても短く3~5年程度だったらしい(石井正「特許廃止論から国際特許制度への転換の時代―ウィーン国際特許会議の前夜―」。なおイギリスでは窯のデザインを作成してたH.Chamberlineが英国内でのpatentを有してた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847643/38
農商務省『分析報文』第1冊(明治20:1887)のホフマン窯の説明。楕円形で副煙道がある。この副煙道を使い、冷却中の房の空気を入れたばかりの生煉瓦を入れた房に導いて予熱乾燥することが薦められている。この副煙道はDobson書にはない。
兵庫県商工労働部『赤煉瓦産地診断報告書』(1957)では播磨地方の煉瓦工場のホフマン窯は「本来ホフマン窯にあるべき送熱管」のないことを指摘している。おそらく副煙道のことを言っている。
以上をまとめると、たぶん、『分析報文』のホフマン窯の時点で元patentにない副煙道の改良が加えられているにもかかわらず「ホフマン氏楕円形赤色煉瓦窯」として説明しているんじゃないか。この報文は東京で最初に作られた石造の環窯(松材燃料)を粉炭で焼くやつに作り変えたのを説明したんじゃなかったっけ。で、その報文の解説を律儀に守ったうえで弁操作で熱の流れをコントロールできるような独自工夫を加えたのが大高庄右衛門の改良ホフマン窯。いわば車輪の大発明。
あるいはHoffmanの特許が円形のとは別に楕円形のもあったのかも知らぬ。円形の場合は12房が最適と経験的に知られてて、それは全房を1サイクルとする焼き方。楕円形のにすると房がもうちょっと増えて2箇所で焼くとかいうこともできなくはなかった。
磐田市誌 中巻 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3015367/95
磐田市中泉町御林。工場主:青山宙平。焼かれた煉瓦は磐田駅のプラットフォームに使用された。御林は現在の千寿酒造(株)のある辺り。
江尻については情報なし。『清水市史』には江尻が荷揚場になったとある。また東海道線工区を横浜~沼津間と沼津~熱田間の二区間とし、後者を南清が担当したとある(同様の記述が磐田市誌にもあり)。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2991038
『日本鉄道史』上編p.49にも。
もうひとつは島田市金谷。煉瓦工場が置かれた区間はやっぱり南清の担当区間なんだな。
島田市史が案外詳しいが工場の位置については言及なし。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3015384/172 あたり
東海道線建設が告示されたのが明治19年7月。てことは西尾士族生産所が稼働し始めた時にはまだ中山道を作る気でいたことになる。あれ?→違う違う、熱田までだから長浜~大垣~岐阜~名古屋~金山はすでに着工してるのよ。
青山宙平は青山士の祖父。なるほどそう繋がっていくのか。
Before...
_ nagajis [いや,変えるべきなのかなというか,みなさんはどう思っているのかなと. 別に忘れている訳ではないのですorz]
_ TUKA [なぜ板を置かないようにしたのかは判りませんが、 もしあれば、賛否両論、賑やかな板になる希ガス。 試験的に置いてみたらいかがですか。]
_ あきら@大阪 [感想意見などなどがあるのは構わないのですけど、とってもベクトルが違う人とか来たら面倒だなぁ。orz]