nagajisの日不定記。
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・・・あれ入れて無いです...気づいたのが遅かつた。
暫定的に0901、0812の分を作成。残りも少しずつ作っていきますので。過去の号(購読期間が切れた方)もログインすればDLできます。そのかわり1600x1200オンリーです。変則的なサイズが必要な方はnagajis(下記ツッコミ欄)までツッコムとnagajisが泣きながら作ります(どっちやねん)。
地味に大変。特濃が今回あれだけの量で来るということは次号もまたネムネムニャるだろうし、TUKAさんは別企画だし、熊野はとうとう矢の川峠の回だし。そうしてバックナンバーCD#2の仕上げと追加企画とHTMLつくんなきゃだし。最初にこのCD関係を片付けることになるな。
しかし、アレを導入しておいて良かった。今回15日中に発行できたのもそのお陰だと思う。ある意味masaさんのお陰である。あ、みかん食わなきゃ・・・
利用申し込みの件で岡町へ行って、資料室の方のお手を煩わせたのだけれど、今は試験期間中であるとのことで、そのうえちょっと取りつく島なしの允。ともかく来週火曜にもう一度岡町経由でお願いすることになった。
大学図書館でも一般開放しているところ(紹介状なしで行けるところ)とそうでないところがある。開放しているところも開架か閉架で扱いが違ったり。今回は対象の本が開架か閉架かも教えてもらえず(;_; 。仕方ないよな、前もって調べておかなかった自分が悪いし大学図書館の職務としてはそれもマタハリ。
その待ち時間の間に篆書字典を読んでいたnagajis。東方書店刊『篆書字典』、古代中国の著名人の篆書を集めた書体字典である。なんとなく『道』の文字を引いてみて、ひどく感銘を受けた。
この辺りはまだ見慣れている。左の『走』に似ているのはしんにょう、右は『首』だ。
このパターンがもっとも多いのだが、その一方で第二グループとでもいうべき傾向がある。
これなどはその筆頭。自由である。フリーダムである。前衛である。これで現代人に『道』と読めというのは少々酷だ。
しかし、この字でワンクッション置くと、なんとなくわかってくる。
左右にあるのは『行』であって、中に『人』が入っている。『人』が『行』く場所、すなわち道、ということなのだろう。あるいはさんずいが水に関係する文字についてるのと同様に、『行』に街区・街並みのような意味があるのかも知れない。そう言われてみれば何だか遠近法で見た交差点を人が歩いているようにも見えてくる(来やしないか)。
土木史研究会の講演集にもあったけれど、日本語でいうところの「みち」を表す語(語のもとになったイメージ)は世界各国で違う。細々と続く山道を表す語が最初にあって、それを一般的な「みち」を表す語に使っているところもあれば、方向を表す「ち」(あっち、こっちの『ち』)を使っている日本のような国もある。古代中国では町中の街路を一般的な「みち」と認識していたのかも知れない。なんてことを考えた(信じちゃダメだよ)。
さらに両者が混じったようなものもある。『行』と『首』がひっついたもの。何となくわからないでもないし、『道』といういまの字体に収斂していく過程の過渡状態のようでもあって面白い。
さらに、この篆書字典には金文フレーバーを含むものも掲載されている。特にこの字に注釈がついていたというわけではないが多分そうなのだろう。
ここまで来ればようやく、例の「周道如匡」に至ることができる。『行』+『首』を自在に配置した『道』であるとわかる。
そもそも論になってしまうが、金文・篆文・楷書などの区分はあくまでも便宜的なもので、当時の人にとってはそれが普段の文字だった。だからここからが金文、ここからが篆文というような明確な境界はない。そうして文字を自由自在に書いた。構成要素をよく変えた。しんにょうの点をどう表そうが、『首』の『目』の横棒を省略しようが自由だった。篆書体はとくにその傾向が強く、見栄え第一を狙って、いかに独自の文字を書くかがミソだったのではないかとさえ思う。
おまけ。実は旧道倶樂部印があったりする(手製)。使う場面がない。
朱文だったらもっとgood job!
面積彫るのヤだったんです(麦