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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2009-01-16 やあやあ終わった この日を編集

[ORJ] 33号発行しましたよ〜ん。

なに? 緊張感がない?

緊張感あったほうがいい?

今回も大変だった差。大変だったけどグチグチ言ってもどう仕様もないからねむはは(前向き)

[ORJ] こっそり壁紙を仕込んだ

・・・あれ入れて無いです...気づいたのが遅かつた。

暫定的に0901、0812の分を作成。残りも少しずつ作っていきますので。過去の号(購読期間が切れた方)もログインすればDLできます。そのかわり1600x1200オンリーです。変則的なサイズが必要な方はnagajis(下記ツッコミ欄)までツッコムとnagajisが泣きながら作ります(どっちやねん)。

[ORJ][バックナンバーCD] 次号

地味に大変。特濃が今回あれだけの量で来るということは次号もまたネムネムニャるだろうし、TUKAさんは別企画だし、熊野はとうとう矢の川峠の回だし。そうしてバックナンバーCD#2の仕上げと追加企画とHTMLつくんなきゃだし。最初にこのCD関係を片付けることになるな。

しかし、アレを導入しておいて良かった。今回15日中に発行できたのもそのお陰だと思う。ある意味masaさんのお陰である。あ、みかん食わなきゃ・・・

[独言] 奈良大図書館

利用申し込みの件で岡町へ行って、資料室の方のお手を煩わせたのだけれど、今は試験期間中であるとのことで、そのうえちょっと取りつく島なしの允。ともかく来週火曜にもう一度岡町経由でお願いすることになった。

大学図書館でも一般開放しているところ(紹介状なしで行けるところ)とそうでないところがある。開放しているところも開架か閉架で扱いが違ったり。今回は対象の本が開架か閉架かも教えてもらえず(;_; 。仕方ないよな、前もって調べておかなかった自分が悪いし大学図書館の職務としてはそれもマタハリ。

[] 篆書体の妙

その待ち時間の間に篆書字典を読んでいたnagajis。東方書店刊『篆書字典』、古代中国の著名人の篆書を集めた書体字典である。なんとなく『道』の文字を引いてみて、ひどく感銘を受けた。

画像の説明この辺りはまだ見慣れている。左の『走』に似ているのはしんにょう、右は『首』だ。

このパターンがもっとも多いのだが、その一方で第二グループとでもいうべき傾向がある。

画像の説明これなどはその筆頭。自由である。フリーダムである。前衛である。これで現代人に『道』と読めというのは少々酷だ。

画像の説明しかし、この字でワンクッション置くと、なんとなくわかってくる。

画像の説明画像の説明左右にあるのは『行』であって、中に『人』が入っている。『人』が『行』く場所、すなわち道、ということなのだろう。あるいはさんずいが水に関係する文字についてるのと同様に、『行』に街区・街並みのような意味があるのかも知れない。そう言われてみれば何だか遠近法で見た交差点を人が歩いているようにも見えてくる(来やしないか)。

土木史研究会の講演集にもあったけれど、日本語でいうところの「みち」を表す語(語のもとになったイメージ)は世界各国で違う。細々と続く山道を表す語が最初にあって、それを一般的な「みち」を表す語に使っているところもあれば、方向を表す「ち」(あっち、こっちの『ち』)を使っている日本のような国もある。古代中国では町中の街路を一般的な「みち」と認識していたのかも知れない。なんてことを考えた(信じちゃダメだよ)。

画像の説明さらに両者が混じったようなものもある。『行』と『首』がひっついたもの。何となくわからないでもないし、『道』といういまの字体に収斂していく過程の過渡状態のようでもあって面白い。

画像の説明さらに、この篆書字典には金文フレーバーを含むものも掲載されている。特にこの字に注釈がついていたというわけではないが多分そうなのだろう。

画像の説明

ここまで来ればようやく、例の「周道如匡」に至ることができる。『行』+『首』を自在に配置した『道』であるとわかる。

そもそも論になってしまうが、金文・篆文・楷書などの区分はあくまでも便宜的なもので、当時の人にとってはそれが普段の文字だった。だからここからが金文、ここからが篆文というような明確な境界はない。そうして文字を自由自在に書いた。構成要素をよく変えた。しんにょうの点をどう表そうが、『首』の『目』の横棒を省略しようが自由だった。篆書体はとくにその傾向が強く、見栄え第一を狙って、いかに独自の文字を書くかがミソだったのではないかとさえ思う。

画像の説明おまけ。実は旧道倶樂部印があったりする(手製)。使う場面がない。

[独言] 忘れてたー

画像の説明鏡開きー。

カビのつきかたで豊凶を占うところも多いと聞くが、ウチではやらなかった。代々教師の我が家で作付け占っても仕方ないものな。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ multi [朱文だったらもっとgood job!]

_ nagajis [面積彫るのヤだったんです(麦]


2010-01-16 この日を編集

[奇妙なポテンシャル] #144

仕事中の人に酔メールを送ってしまった罰として早く目が覚めてしまい困っている。それは置いておくとして(個人的に)大変味わい深いインターホンを発見した。

画像の説明

たった5文字に全てが詰め込まれている。状況を過不足なく書き表しているが説明的な感じがしないのは何故か。裏にドラマが潜んでいるような気さえしてくるのはどうしてか。左の門柱に付いた手形もいい。絶望して肩を落とした誰かの支えの左手か。いや掌紋から判断すると右手だ。押そうとして「こわれてる」に気づき咄嗟に逸らした右手なのか。

[コアダンプ] 激しく遭難中

下品な芝居で定刻でなかっただけマシになったなと思う>nagajis

[コアダンプ] 今年は日曜日なのか(汗

T/O


2011-01-16 この日を編集

[] 明治8年三重県:地第61号(道路等無断改変の禁止)

これはあまり関係ない。

○地第六十一号 八年四月十日達

道路堤溝敷狭隘之場所前々古形の旨を以取広候村方も有之哉に相聞即今地形の侭修繕候は無差構候得共総て現地の景況変換候を不経伺猥に取計候は不都合に付心得違無之様厚注意可致此旨相達候事

[出典:三重県令達全書前集

[] 明治13年三重県:甲第90号(仮称県道以上地方税を以て支弁

○甲第九十号 十三年六月廿八日

仮称県道以上道路橋梁等修築費の儀従前官費或は地方税の外地元町村の民費又は地価役人夫仕様致来候処右民費及地価役の分本年七月以降は地方税を以て支弁候条此旨布達候事

[出典:三重県令達全書

三重県史資料編に引用のあったもの。結局地方税が増税されて人民の苦労は変わらなかった。

[] 明治13年三重県:甲第91号(旧三等道路修繕補助規則)

○甲第九十一号 十三年六月廿八日

旧三等河港道路橋梁用悪水路溜井樋管井堰等修繕費土木賦課金及非常予備金等の賦課法を廃し本年七月以降は其町村の協議費を以支弁候儀と可相心得尤工費多額にして実際民力に堪えがたき者は左の規則に依り地方税を以て補助候条此旨布達候事<十七年甲第廿参号を以て廃止>

[出典:三重県令達全書

明治13年甲第100号(十三年八月二十日)によって修正(内容不明)。十七年甲二十三号により消滅。

[出典:三重県令達全書

[] 明治14年三重県:甲第116号(土木費官費下渡金廃止)

以降は県費(地方税)で支弁するよ、と。

○甲第百十六号 十四年七月九日

明治十三年(十一月)第四十八号公布を以て府県土木費中<即ち河港道路堤防橋梁建築修繕>官費下渡金は十四年より廃止せられ候に付爾来地方税を以継続支弁候条工事之方法及請願順序之儀は従前の通可相心得此旨布達候事

[] 明治14年三重県:甲第117号(旧三等道路修繕補助規則改正)

<=my'20110116#p03','明治13年甲第91号'%>の改正。「左の通」がない。

○甲第百十七号 十四年七月九日

明治十三年(六月)甲第九十一号布達旧三等道路修繕補助費規則中左の通改正増補し当七月より施行候条此旨布達候事<十七年甲二十三号により消滅>
但従前の伺指令等本文改正増補に抵触する分は全て消滅の侭と心得べし

[出典:三重県令達全書・後集甲号

[] 明治13年三重県:乙第111号〜第113号(「旧三等道路」関連)

○乙第百十一号 十三年八月七日 郡役所

左の条件本年七月以降委任候条此旨相布達候事
 但右条件取扱手続別紙に相示すべし

一 旧三等河港道路橋梁用悪水路溜井樋管井堰等修繕の事
 旧三等河港道路橋梁用悪水路溜井樋管井堰等修繕取扱手続

(以下省略・帳簿の書き方、検査届出の事、一ヶ月分取りまとめ毎三ヶ月分取りまとめ届出の事)

[出典:三重県令達全書・後集乙号

○乙第百十二号 十三年八月十七日 郡役所 戸長役場

本年(六月)甲第九十一号を以て旧三等河港道路等修繕之儀布達候に付ては右に属する橋梁樋管等の古材古鉄物類払下代金は本年七月以降総て其町村修繕費に可充此旨相布達候事

但払下の義は戸長に於て公入札を以取斗其時々郡役所へ届出該金は戸長役場に預り置該村に修繕あるに当り限度<地価掛り>外協議費として遣払うべし<十四年乙九十四号を以但書増加>

(原文は斜体部に丸傍点)

[出典:三重県令達全書・後集乙号

○乙第百十三号 十三年八月三十日 郡役所

旧三等河港道路橋梁用悪水路溜井樋管井堰等工費金高帳本年七月以降別冊書式に準じ一郡取纏め毎三ケ月分調製し翌月十日限り可差出此旨相達候事<十六年乙百四十二号を以改正に付別冊略す>

[出典:三重県令達全書・後集乙号

少なくともこの頃までは「旧三等道路」という言葉が生きていた。

[] 明治15年三重県:乙第93号(仮称県道以上急破修繕)

○乙第九十三号 十五年五月廿二日 戸長役場

仮称県道以上道路橋梁等破損のケ所寸時も猶予なしがたきものは所属戸長に於て一時仮修繕等の手当を為し<危険の井溝其他凹所等には蓋亦は防囲等をなすを云>通行人危険の憂無之様可致此旨相布達候事

但破損の景況並費金請取方は時々申立べし<十五年乙百七十九号を以文中四十字削除>

(原文は斜体部に傍点)

[出典:三重県令達全書・後集乙号

これは・・・仮称県道の出始めで拾った?

[] 明治12〜16年三重県:郡役所河港道路改修請願の件

和歌山街道が出てくるので反応。河港道路の改修を請願する際、郡役所が取調べを行い、意見書を添えて県庁へ提出することを定めたもの。郡役所の監督義務とでも言っとけ。ただし主要河川と東海道、伊勢街道、伊勢別街道和歌山街道は除く。和歌山街道を別扱いしていたことの証<明治11年の測量と関係があるか? 伊勢別街道はあれか。

○乙第百六十八号 十六年十月四日 郡役所

左の事件検査の儀は自今別紙手続書に依り取扱うべし此旨相布達候事
明治十二年(三月)乙第四十六号達中(里道興廃検査)并同号追加明治十五年乙第百五号達(河川橋梁樋管堰[土+逮―之繞]溜池及用悪水路興廃并変更検査)の二項は廃止とす

一 河川道路橋梁樋管堰[土+逮―之繞]溜池及用悪水路興廃并変更検査ノ事

但木曽川流域及員弁川朝明川三滝川鈴鹿川雲出川櫛田川宮川永田川東海道伊勢両街道和歌山街道は此限にあらず

 右手続書

河川道路橋梁樋管堰[土+逮―之繞]溜池及用悪水路興廃并変更を出願せしときは実地に就き其利害得失を考[草冠+敷?]し何等障害無之ものはその変更に係る潰地亦は従前の潰地を他の地目に変換せんとするものは該反別共之を調査し<潰地上地と為すと否らざるとの区別及び代地下渡を請うものは下渡の上使用すべき地目共詳記致さすべし>該一筆限帳を製し[人偏+乃]お近傍の形況を模写したる絵図面をも調製し且水利上に関する工事は其関係町村の承諾書を徴し其事業全体に就き意見書を添県庁に差出すべし

(以下略)

[出典:三重県令達全書・後集乙号

続いてこれを発見。郡役所に委任する案件の手続きなので前掲達と関連するものかと思い・・・

○乙第百十三号 十六年六月廿九日 郡役所

本年乙第七十八号達委任条件取扱手続別紙の通可相心得此旨相達候事<十九年訓令二十六号を以委任条件改正)

河川其他修築等取扱手続

一 河川修繕の事
 但木曽川流域及員弁川 朝明川 三滝川 鈴鹿川 雲出川 櫛田川 宮川 長田川は此限にあらず

一 仮称県道修繕の事

 但伊勢別街道 和歌山街道は此限にあらず

一 里道及之に架する橋梁并用悪水路溜池樋管井堰修繕之事

右三項は本年甲第三十九号土木費支弁法に拠り緩急斟酌し一工事金五十円以下<地方税支出額を云>及工事着手中実地の都合にて止を得ず模様替等を為すときは最前目論見高金五拾円以上の分は工費の二割迄の増費<地方税支出額の金五拾円を度とす>を生ずるものは直ちに施行し其他は目論見帳相添経伺すべし 但非常天災等にて臨時費を要するときは金額に拘らず目論見帳相添伺出べし

(以下略・仮称国県道に架設する橋梁の工事金50円以内修繕=時々経伺すべし、道路橋梁修繕の際車馬往来止めの報告を警察署にすること)

掘っていくが・・・

○乙第七十九号 十六年五月廿六日 郡役所

明治十五年乙第百五号達中(旧三等に属する)の七字悉く削除し港は(川)に悉く改め及但左書之通改正す且取扱手続四行目潰地を調査しの次へ(一筆限減租取調帳及)の九字を増補此旨相達候事(改訂)
 但木曽川流域及員弁川朝明川三滝川鈴鹿川雲出川櫛田川宮川長田川東海道伊勢両街道和歌山街道は此限にあらず

[出典:三重県令達全書・後集乙号

たらい回しのたらいにされ・・・

○乙第百五号 十五年六月廿六日 郡役所

明治十二年乙第四十六号達中左の一項追加候条此旨相達候事<十六年乙百六十八号を以廃止に付追加文略す>

[出典:三重県令達全書・後集乙号

結局原文まで辿れなかったorz。これは§冒頭の乙第百六十八号で廃止されてるので似た内容のものだったんだろう。

○乙第四十六号 十二年三月十七日  郡役所に於て実地検査すべき件及手続 公十二、九号 四十五丁

[出典:三重県令達全書・前集

この達に何か書いてあったんちゃうんか・・・。

[] 明治16年三重県:地籍編纂

統計書「明治16年調」の出元か??? しかし和歌山街道は除くとあるから町村の地籍調査結果が反映されるとも思いづらい。

○乙第二百二十二号 十六年十二月二十八日 郡役所 戸長役場

地籍編纂の義に付ては其筋達之次第も有之に付地籍表及び図面共別紙心得書に依り雛形に倣い一町村限り之を調製し明治十七年六月三十日限り可指出此旨相達候事 地籍編纂心得書

一地籍は明治十六年十二月三十一日現在の地籍地目を限り其方積集計し以て一町村の全積を詳悉すべきものなれば最も精密に取調苟も遺漏の地所若くは錯誤の編纂なからんことを要す

(略)

一 官有地第三類中左に記載する地目反別は所属町村に於て実測し別紙雛形に倣い官有地取調表を製し之れを地籍表に掲記すべし
但実測せん地所は官吏派出し実地点検すべし

溝渠 池 沼 沢 河 井戸敷 河岸地
波止場 附寄洲 道路 並木敷 堤塘 電信架線柱敷地
火葬場 墓地 斃牛馬捨場 塵捨場 濱洲

右の内木曽揖斐鍋田の三川に限り県庁に於て実測す

(略)

(以下略)

[出典:三重県令達全書・後集乙号

これ以外にはM16乙号に関連報ないしな。

[] 明治16年三重県:土木費支弁法

実質的な最初の土木費支弁法。冒頭で「改正」とあるのはおそらく明治9年?の土木費支出法に関する暫定措置法?明治12年道路取扱法に対するものだと思う。これは原文見つからず。三重県史資料編参照のこと。合併したばかりで混乱してるので当面は旧三重県、旧度会県のやり方でやってねというやつ。

○甲第三十九号 十六年五月二十六日

土木支弁法来る七月以降別紙之通改正候条此旨布達候事

 土木費支弁法

第一条
旧二等以上河港の工費は左の各項に拠り支弁す
第一項
地元及関係町村地価千分の一以内<則地価千円に付金一円以内>の工費は都て其町村の負担とす
第二項
地元及関係町村地価四十分の一以内<則地価千円に付金二十五円以内>の工費は第一項其町村の負担額<則金一円>を引去其残額の八分を地方税の支弁とし二分を其町村の負担とす
第三項
地元及関係町村地価四十分の一を超過する工費は第一項第二項の町村負担額<即金五円八十銭>を引去りその残額は都て地方税の支弁とす
第二条
仮称県道以上道路の工費は左の各項に拠り支弁す
第一項
桑名、四日市、津、松坂、山田、宇治、伊賀上野、及び之に連続する場所は両側宅地前の工費三分の二片側宅地前の工費三分の一を其宅地持主の負担とし其残額を地方税の支弁とす
第二項
第一項の場所を除くの外は両側宅地前の工費六分の二片側宅地前の工費六分の一を其宅地持主の負担とし其残額を地方税の支弁とす
第三項
宅地前にあらざる工費は都て地方税の支弁とす
第三条
第二条に属する橋梁<宇治橋を除く>は都て地方税の支弁とす
第四条
旧三等以下河港道路橋梁並用悪水路溜池井堰樋管の工費は左の各項に拠り補助す(十八年甲四十九号を以て文中八字を削り第二項を再び改正)
第一項
河港道路橋梁費は其町村地価千円に付金六円を超過する分に限り其超過の分は地方税より補助す
第二項
用悪水路溜池井堰樋管(従来県庁直轄の分とも)工費は其水掛地価千円に付金八円を超過する分に限り其超過の分は地方税より補助す
第二項
用悪水路溜池井堰樋管費は其水掛の地価千円に付金十円を超過する分に限り其超過の分は地方税より補助す其補助金額は地価百分の五に至るを以限度とす
但一工事金五円未満は補助する限にあらず
(十七年甲四十三号を以て改正)
第二項
樋管費は旧一二等川及沿海並に其直接被害の場所に在るものにして其水掛の地価千円に付金十円を超過する分に限り其超過の分は地方税より補助す其補助金額は地価百分の五に至るを以限度とす但本文に依り補助すと雖ども内法十坪<平坪>未満のもの及び一工事金五円未満のものは此限にあらず(十八年甲四十九号を以て本項再び改正)
第四条
旧三等以下何河港道路橋梁の工費は其町村地価千円に付金六円を超過する分に限り其超過の分は地方税より補助す<十九年甲十二号を以て本条改正十七年甲四十三号及十八年甲四十九号改正の産悉く消滅>
第五条
前条々の如く地方税より支弁し或は補助すと雖ども各負担<町村域或は水掛>の限度は其年度中工差継をなさず工事の都度前条々に照し之を取扱うものとす
第六条
溜池用水悪水路浚渫費は地方税を以て補助する限りにあらず
第六条
土木費及町村土木補助費を以て支弁し亦は補助する限にあらざるもの左の如し<十六年甲第七十号を以て本条補訂>

一 工事の検査に属する費用
一 新田の囲堤等自費修繕の契約あるもの及鍬下年季中の者
一 新規起工及廃業或は中止の工事継業し自費支弁の許可を得たる者
一 作場道及之に属する橋梁並に溜池用悪水路の浚渫費
一 出水防禦費

[出典:三重県令達全書・後集甲号

わけわからんちん。放置。

[][] まとめ

M16=明治16年調であれば地籍調査が関係している可能性があるけれども不明。この年に土木費支弁法が定まっているが県道以上は宅地徴収ありの地方税支弁ということで路線は不問、詳しく書かれちょ欄。M19に戻るのは土木費支弁法の大改正で一等道路・二等道路ができ路線明示されてからか? といってもこの時も国県道やからなあ。

統計書見なんか。


2012-01-16 この日を編集

[ORJ] 発酵しました

と9時間後に書く非道.まあよいではないか.特濃にはあとでTUKA氏提供の写真が入る予定.

新淀川新橋補遺は何故か非常に入れなくてはならないような気がして終了間際に突っ込ませてもらった.モノは橋台しか残っていないがismはちゃんと伝わってたんだという発見を,書いて誰かに伝えたいのではなく,書いとかないと前記事が半端で終わってしまいそうなのが嫌だったので.今後何かが追加で出てくる気配もないし,次号に回すと自分が忘れる.後ほど68号のDLページからも落とせるようにしておく.

[独言][料理] お好み焼きをくう

発行後から慌てて生野報告書を書き始め今に至る.書きたいことはたくさんあるがまとめ方がいまいちわからない.書いてまとめるしかないのがもどかしい.

一息ついたというか書き疲れたというかという現在,ゾウさんのバスが奏でるボンボンボンボン@ラジオ深夜便を聴きながらお好み焼きを焼いて食べている.前回作った時は粉が膨らみ過ぎで参ったので(所謂広島風お好み焼きなので生地は薄くて構わない),小麦粉を加えて薄めてみたのだが,安い粉で水増しするみたいなのがなんだか貧乏臭く思えてしまったことだった.決してそういう意図があるわけじゃないんだ,みんな,と虚空に向かって同意を求めてみる午前3時である.

オタフクソースをかけたあと,容器の圧搾を開放した瞬間「ヒュョッ」と鳴った.この間もそうだった.今まで気づかなかったがオタフクソースとはそういう容器なのかも知れない.広島の人々にとっては幼い頃から聞き慣れたソウル・ミュージックの如き音なのかも知れない.「オタフクソースの容器が鳴った時のような」という比喩が通用するに違いないとも思った.しかしそんな比喩を使う場面が思いつかない.それほど特徴的な音がする.そうしてそんな私を措き去りにしてオタフクソースの容器は鳴り続けるのだろう.「ヒュョッ」と.

[独言] 黙っていると

黙っているととことん無視されるのはかえって有難い.おかげで産経新聞に載ったことなんて誰も知らないんだぜ.自分も忘れてたが.いつの話だっけ???

[独言] 体裁

報告書のながれが悪い.現況と遺構の説明とを分けたほうがわかりやすいのかそうでないのか,よくわからんくなってきた.ORJ的ルポ的には不可分であるのだろうけれど報告書の体裁としてはそのほうがすっきりするような羊羹がする.これは一度その方向で書いてみるしかあるまいと思う.おかしいと思えるなら現況にa~を突っ込めばいいのだし.あっちこっちするが仕方ない.して,最後にまとめ的所見を(偉そうに)入れてみては如何.そこだけ読めば概略わかる(求められてる答えが載ってる)みたいな.

[独言] うげごがぎごぐ,ギギギ

だんだんあたまがわるくなって

状況は廃でありこそすれ,元をたどればいずこにもあった峠集落のそのままである.

などというわけのわからないもじれつをうちならべたりしてみたりいる.にほんごですらない.にほんごすらでない.

[独言] 二人のお母さんと券売機

おばあちゃんの域に達しつつあると認められる二人のお母さん.片方が券売機で切符を買おうとしていた.その後ろで自分は待っていた.買おうとしているほうのお母さん(仮に田中さんと呼ぶことにする),よくありがちなことだが動きが緩慢である.手提げ鞄を券売機前の棚に置きパチっと口をあけて中から財布を取り出しその財布の小銭入れから小銭をひいふうみいよう.しながらそのうえもう一人のお母さん(同・斉藤さん)に話をする.「~から~まではな,定期があるねん,定期が.せやからな,乗り越ししてな,中津から梅田までの分,150えんのを買うたらええねん」そんな内容の話をする.二回くらい繰り返して.斉藤さん相槌を打つだけに飽きたらず問い返したりもしさえする.「ほな,~は~でもええのんか?」.田中さん振り出しに戻る.

ようやく切符を購入したと思ったら,逆のスキームをなぞって財布をしまいつつ,やはり会話が続けられていく.券売機の前で.離れてくれればこっちも切符を買えるのだが.そういうことは微塵も考えてはらんらしい.駅名運賃表示板を指呼しつつ「せやらかな,梅田,中津,十三やろ.十三の~で~を買うたらええねんよ」「なるほどなあ.かしこいなあ」.

そんなこんなで,3分ばかり切符を買うことができなかった私.

取るに足らない日常の一齣だがいろいろな教訓が含まれている.1,短気を起こさずに我慢することは難しいことだがやってやり遂げると悟りを開いた気分になれる. 2,我慢するには対象物にとことん感情移入してみるのがいい. 3,そうやって感情移入して「それ犯罪ちゃうん」ということをいかにやんわりと伝えればよいかを考えてみたりすると効果絶大. 4,年を取ると気を配ることのできる範囲がものすごく狭まってしまうらしいので気をつけようと思う. 5,その時になって覚えていればの話だが. 6,なんにしろ自分のことばかり考えるのはよくないことで,しかしそれってなかなか難しいことだよね. 7,待てよ,迎え酒という概念がある以上,迎え天一というのも理論上あり得る対処法なのではないか. 8,そういえば参考資料の探索の栞をDLページに載せてなかったのでは(汗 9,以上のことを部録”に書いたらどんだけassのちいせえやつだと思われるぞそうに違いないぞ. 10,オラ何だかワクワクしてきたぞ! 等々.

人の振り見てわが振り直せとはよく言ったものである.

[独言] ふぎゃー

この期に及んで時間軸の齟齬に気づいたり軌条≠エ形であったりエ形=明治20年以降であったりといったことに気付かされるなどしている@日本鉱業発達史(上).M初軌条(≠エ形)導入M18頃馬車軌道M20にエ形レールが導入されM20半ばに軌道化されたのである.上部軌道が鋳鉄橋を引き寄せたのではないっ.

巨智部忠承の地質調査はM22から.
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1964/07/64_07_05.pdf 
ということはM22~29に絞り込まれる.ますます鋳鉄橋の後である.ずわんねん.


2013-01-16 この日を編集

[橋梁] 瑜伽橋という名前すら忘れられているかあいそうな橋の話

あるに違いないと思っていたものがなかったり、そうなってるとは思ってなかったという新事実が見つかったり、まさかあるまいと鷹を括っていたことが出てきたり、ただの参考情報だと思っていた一枚の絵葉書が無上な価値をもつものだと知ったり・・・。今日一日でずいぶん忙しい思いをし、それだけで満腹した。 叩かなければ扉は開かれず誰が為にも鐘は鳴らず故に自ら鳴らして和田アキコにあなた呼ばわりされるのだ(意味不明)。

いまこの世に存在しているものの来し方素性を知ることが、いかに大変で、そして面白いことであることかを書いてみたい。どうだわかったぞスゲーダロ、ではなくてその考察過程が間違ってないか検証してもらうためにね。

ついでに奈良跨線橋を「喪われた~」でやったら如何という姑息な案を検討中。また奈良かよ!というご意見は甘んじて受けるが聞き流す。だって仕方ないじゃん。他に世の中に役立つことないんだし>nagajis


2014-01-16 この日を編集

今回ばかりはヤキが回ったなあと思わざるを得ない。謹慎したい。

いや、謹慎したところで休んでるだけと思われるだろ。

アンケートフォームは私が作成し私の校了で発行している。他の二人にはチェックをお願いしていない。作業時間がまちまちだし。

本日のツッコミ(全5件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [? 更新情報のメールでせうか?]

_ おこぜ [さいでおま]

_ nagajis [多分それはお使いのメーラーの所為でしょう。こちらからはプレーンテキストで送信していますので。 文中のURL部分を自動でリンクに変換してくれているのでしょうが、そのときに「]」(全角大カッコ)まで拾..]


2015-01-16 この日を編集

[独言] FinePixViewer

初期設定の関連ファイルを全部ほうったったら治った。フォルダもあるとは気が付かなんだ。

ようやくMacのデータを片付け始める。USB1.1でコピーだから10数GBに10時間かかるとか抜かしよる。勿体無いが塩漬けのデータの保存先にしよう。

250GBのほうはどうしようか。WindowsでもMacでも読める便利な外付けなのだが160GB以上入れるとMacがフリーズするといううんこ仕様。フォーマットしたらどっちかの専用になってしまいそうなので躊躇している。

[煉瓦刻印] 西川窯業

西川窯業耐火煉瓦刻印

右を見ても左を見ても三石耐火、という状況の中に、たった一つだけあった耐火煉瓦。「NICIKAWA TOGYO」と書かれてある。手書きっぽい線描だ。

工場通覧昭和7年版に「西川窯業合資会社」が載っている。所在地は和気郡伊部町。三石と並んで耐火煉瓦製造が盛んだったところだ。昭和5年3月設立、従業員数はこの当時でAだった。そこそこ大きな会社であったようだ。

これくらい古い耐火煉瓦だと産地や分布が気になる。敵地?に乗り込んできたこの一個はいったいどういうわけがあったのだろうか。

[煉瓦刻印] K■@三石

K□煉瓦刻印

耐火煉瓦の街・三石で見かけた普通煉瓦はどれも播州産だった。和田煉瓦とか推定播陽とか。Knの数字の部分を潰したものさえあった。同じ並びに書体の異なるK刻印が並んでいた。大半は潰してさえいない。あとセリフとサンセリフとが混じっている。どういう意味があるのだろう。組合仮説で説明しづらい。弘栄のKと言えたらどんなに楽か。

煉瓦のことを書くのはそれがいちばん無難だからだ。いまコアダンプでも書こうものなら再起不能なまでに黒くなれるだろう。


2017-01-16 この日を編集

[ORJ] 発行

淡々狸の禁則事項と発行を終える。だから何でこのDL数で503なのだっと。

[独言] 電池を買いに行かねばならない

目覚まし時計の電池が切れかかっている。この間1時間ずれてるのに気づき、寝ぼけて回したもんだとばかり思っていたが、今日見たらまた1時間ずれていた。そりゃ遅刻するぞなもし。

しかしお外は寒いんだなあ……着込んで行かなきゃ。


2018-01-16 この日を編集

[ORJ] 発行する

15日に書かないのがミソと見た。

[独言][煉瓦][近代化遺産] 堺紡績所始末記

大層なタイトルだが大した話ではない。堺市立図書館でたまたま手にしたスクラップブックで堺市にあった堺紡績所の保存運動とその挫折を見通す機会があり思う所多々というだけである。

昭和48年頃までは堺市出島町に堺紡績所の建物が残っていた。当時は喜福工業株式会社というベニヤ板製造会社が所有していたみたいだが、その敷地を今のURに売却し建物も取り壊されることになったという辺りから?保存運動が展開された。結局解体撤去は免れなかったが、一応の学術的調査がなされ、発電所建屋の窓部分だけモニュメントとして残されることになったという。また解体の際に丹治煉瓦の墨書きのある煉瓦が見つかったり、柱の一つが鉄管柱になっていて雨樋を兼ねていることが判明したりもしている。

解体完了は確か昭和53年のこと。窓枠は喜福工業の社員寮の庭に移設されたそうである。

それから約40年後の今日、どうなっているかというと、これがさっぱりわからない。喜福工業はすでに存在していないようだし、調査の報告書が刊行されたようでもない(←OPACで調べた程度なのでどこかには存在するのかも知れないが)。そして勿論今現在に堺紡績所の遺構として知られている物件はない模様である。

近代化遺産の保存と活用。どう考えても分が悪い。どんなにそれが貴重なものだ(と主張)としても「保存するのに必要な金があるか否か」「残したものが金になるか否か」で裁断されてしまう。貴重なものだ(と思われる)から残そうということになった試しはまずない。特に問題なのは()のところ。ものの価値をわかっている人にとっては壊すなんてとんでもない話なのだが、そうでない人にとっては無益な古物でしかなく、そもそも価値があると考える人の主張する価値が理解できない。たまたま同じスクラップブック(これは明治建築研究会から寄贈されたもののようだった)には浜寺町役場の建て替えに際しての悶着も載っていた。役場を利用する側にとっては旧態然のぼろっちい建物でしかなく、建て替えて便利なものにしたいという意見が圧倒的に多かったようだ。

出発点が、いかんのかも知れない。貴重だからという理由で残すことを主張するのは理解を得にくい。むしろそうだ、残っているものをうまく活用すれば「こんだけ金儲けになるんだよ」とか「活用すれば便利だよ」ということを前面に押し出してやったほうが、実は理解が得やすいんじゃないだろうか。その結果として貴重なものが金儲けの手段となり本来の用途・意図から逸れていくことになるが、そのことによって貴重だと思っている人の純心が苛まれることは我慢してもらう、しかないのではないか。どうせ器でしかないんだろうから、残してテナントか何かに利用する他に生きる道はないのだし、それだって100%成功するわけではないし、未来永劫続くとも思えぬ(結局は資本のある者が余力でやってゆくしか)。土木構造物の場合はまた違うことになるだろうが……。少なくとも一部分だけ切り取られてよくわからないモニュメントにされてなおかつ数十年もしないうちに行方知れずになってしまう、ような醜態を演じさせられるよりかはマシなんじゃないだろうか。

大阪中郵のポータルとか、哀れだよなぁ。

[煉瓦工場] 工場表の限界と偽り

統計書から取ってきたデータの中には「諸会社」欄にあったものを持ってきたものもあって、南山城のM30代の煉瓦工場のは大半がそれだ。そのデータは「本社の所在地」であって「工場所在地」ではない場合がある。よほどの大工場でない限りは工場と本社が一致していると思っていたのだが必ずしもそうではなかろう。工場は非常に零細だったり零細工場を束ねていたりする場合もあったと思われる。京近煉瓦、吉野煉瓦のように会社として拾えても工場通覧には出てこない工場はそういう経営態だったのではないか。こういうものを区別する手立てを現在の工場表では施しておらぬ。ううむ。どうしたものか。

要するに平岡窯が木津煉瓦株式会社の工場だったという可能性はあるんじゃないかと、お手紙の返事を書きながら考えてみたりしている。

[煉瓦工場] 日本煉瓦と初期の大阪窯業

@堺市史史料類纂。関西鉄道と奈良鉄道に納入実績あり。前者は淀川橋梁橋台が証明していて、まあ間近だからわかるんだけれども、奈良鉄道まで送っていたとは意外な気がする。だとすると関西本線方面にも行ってるんじゃないか。いやそうでもないか、M29-33頃といったらまほろば線辺りでもいいわけか。

@同。川口にあった頃の大阪窯業は西成郡住吉村産と淡路国志筑産の土を使っていた。前者はわかるが後者は(略)。そもそも工場周辺は淀川の末の堆積州を開墾して水田にしたようなところだから赤土なんてなかったのかも知れない。堺に移転してからは堺近郊の畑地から取得。

[独言] 撃つ

性懲りもなくまたバッティングセンターへ。夜中に走るせいか服部緑地公園を過ぎた辺りで毎回迷う。緑地公園を半横断して自動車学校の前を通っていくのが最短距離なのだが、植物園を右に迂回していった先でいつもわからなくなる。そのまま高架を下っていってしまうと小曽根のほうへ出るはずなので脇の歩道を通っていくのだがその次の曲がるべきところがわからなくなる。今日はそこから真っ直ぐ行ってしまい気がついたら小曽根にいた。なぜだろう。

正解は高架歩道を下りて左にある橋?を渡り、渡りきったところで左に折れねばならないのだった。そうやって植物園の南縁に沿って進めばバッティングセンターのすぐ下に出られる。新御堂沿いを余計に登らなくて済む。 このコース、帰りはすごくわかりやすし、早いんだけどなあ。行きで迷って10分15分無駄にしてしまうのがここのところ続いている。

今日は少年野球の講習会があったらしくて大変賑やかであった。自分よりも数段上手い子供もいて負けてられぬと思ったりしたが、別に勝ったところで得るものも活かす場もないのだ。そうしてやはり会心の当たりはわずかなのだった。当たる時は当るんだけど、だんだん疲れてきてボールのタイミングで振ってしまう。そうやないねん、いわゆる「よおく引き付けてひっぱたく」やないとあかんねん。くるぽかあんと撃たなあかんねん。

妙な振り方なものだから左の脇腹が痛くなった。空振りすると覿面に痛い。また治癒に時間がかかったりしたらやだな。

[独言] 九州編修正

S15、16のデータを入れた。長崎がさらに圧縮されてごちゃごちゃしてきた。一方佐賀のS15をコピーし忘れている模様。なんだかなあ。それだけ取りに行くとなるとまさしく愚の骨頂だ。S16はデータがあるのでさほど影響はないと思われる。

それ以外にもいくつかデータの誤りを発見。今はまだパブリックベータ的な状態で、あと何度か目を通さないと正しくならないように思われる。


2019-01-16 この日を編集

[煉瓦] サイズ考

すでに書いた気もするけれど、煉瓦のサイズがいくつもある理由について。特に並型の厚さが1寸7分5厘などという中途半端なサイズなのは何故か。

その大きさに作ることが前提としてあったわけではないのかも知れない、と思う。出来た煉瓦の平均的なサイズがそれだったから、結果的にそれが規格になったという可能性もあるのではないかと。例えば第一回内国博覧会の福島県の製造者の出品解説には「8寸4寸2寸の木枠」で作ると書いてある。生煉瓦は焼くと収縮するので、それが結果的に東京型とか並型とかのサイズになるのではないか。この8x4x2というのは大阪の煉瓦製造を報じた新聞記事にも出てくる。ただし出品解説のやつほど明瞭な書き方ではない(だいたいの形がそれ、という感じ)。しかし本当に8×4x2寸の型枠だったとしたらどうだろう? 7寸4分x3寸5分x1寸7分5厘くらいにはなりそげ。東京型は56の2寸。

関東と関西では使う土の質が違っていた。関東では関東ローム層を砂を加えずに使っていたかんじ。関西では素焼きに使うような赤土に砂を混ぜてるのが基本。土が違うと収縮のしかたが違うはずなので同じ大きさの型で作っても違うサイズになりそう。しかし東京型は厚2寸なんだよな。2寸厚木枠で2寸ができるものだろうか。

型枠に強く詰め込むか否かでも収縮率は違いそう。兵庫バンレンは型崩れしない程度に限りなく柔い土を叩き込んで、そのあとあまりバンバンしなかったようだ。何かで叩くっていうこともしなかった。日本煉瓦製造(煉瓦要説)ではかなりしつこく叩いて詰めたって書いてなかったっけか。>のー、記憶違い。そも、しっぺいはくえた角を均す道具よ。

並型と作業局型が違うのはなんでなんだぜ? 鉄道寮で作り始めたのは堺が最初だったはず。その流れでいくと同じものになりそうな気がする。そもそもそっか、作業局型がいつできたかもわかってないんだな。大高が言い出した頃にあったというだけで。

最初のころはキリのいいサイズの型枠からキリの悪いサイズの煉瓦が作られていた。やがて煉瓦サイズのほうが主となって「このサイズで作らないといけない」となり、例えば関西から関東に売り込もうとした時にはそのサイズが要求されて、あるいは鉄道省納入の規定ができて、慣れないことをせにゃならんくなった。そんな感じだったりしないだろうか。山陽型は特殊。はじめにサイズありきで規格ができた節がある。

あるいは、インチの中途半端なサイズ(2・1/4とか)を寸で再現しようとしたのかも知れぬ。建築はどの方面からだっけ?イギリス?ドイツ?その標準的なサイズで西洋館が設計されたので煉瓦もそれに合わせる必要があったとか。だとすると縮小を見込んで大きめの枠で作らなければならない(それはサイズが前提で在ったとすればどれにもあてはまることだけれど)ので大層面倒だったろう。以前メモった各国サイズをもう一度チェックのこと。

銀座煉瓦街の建設に使う煉瓦、大阪にも打診がきて、実際に見本をいくつか送った、てな話がどっかになかったっけ……。その時にも寸法が決まってたはずなんだ。銀座煉瓦街の煉瓦規格は小野田さんの「鉄道と煉瓦」にあったと思うけど。違ったかな。

あと何だったかの煉瓦製造の教科書では約一割収縮するのでそれを見越して大きな型枠を作るとあった。[資]か[近デジ]タグつけて放ったやつ。それは規格が定まってからの話だと思う。あの手の製造法はM後半にならないと出て来ない。最初期には8x4x2寸型枠で作ってそれになるという時代があったんじゃないか。

しかしあれだな、壁体に積む場合は適当でも大丈夫だろうけど、アーチに巻くとか円型橋脚作るとかいう場合にはかなり厳密でないといかんかったと思う。逢坂山とかどうしたんだろうね。

例によってまとまりのない思いつきを並べた。要はそういうサイズの議論が常にサイズありきで考えられてるのは見直す余地があるまいかということ。

[近代デジタルライブラリー] メモ

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152362/28 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779114/339 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801248/40 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954576/15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972772/9 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183610/53 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847644/66 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801688/69

以上ちゃんと確認のこと。青森県は大正時代の統計書にも工場記載あり。煉瓦要説は手成形のをがっつり省略しとった。記憶違い。だとしたらどこで読んだんだろうと「煉瓦 製造」で検索しているのが以上。最近物覚えが悪くなってそこまで書かないといけなくなった。

[独言] ミッションひとつクリア

もりもりうんこが出たので採取し放題である。しかし意外と難しかった。うまい具合いに採取棒に付着してくれぬ。ついたらついたで多すぎるし。

採取した検体は冷蔵庫に入れて保存せよという。いくらケースに入っているとはいえ喰うものとうんことを同じ庫内で保管するのはためらわれる。同じ悩みを悩んだ人は結構いるんじゃないだろうか。しかし考えてみれば6時間前までは体内にあって我が身同様に取り扱っていたうんこなのだから、体外に出た途端に汚物扱いするのもちょっと可哀想ではある。

[煉瓦工場] S47〜53了

佳境前に手に入れておいたコピーを片付ける。米沢煉瓦はS51から復活するのな。それまでしばらくサブマリンだったのに。丸二北海煉瓦もS40代は耐火煉瓦製造を前面に押し出していてS50代から普通煉瓦になる。以降今日まで続いているのだから偉いものだ。

日本煉瓦製造の潮止工場はS49くらいから消える。上敷免の本社も資本金18,000千円・従業員Gになってしまって寂しい限りだ。これからどのくらい続いたんだろね(って検索すりゃわかるか)。帝国煉瓦も姿を消して独り石黒煉瓦工業が頑張っているのみ。あ、あと岩手の製瓦工場もあったか。

この頃には関西の煉瓦工場は軒並み姿を消している。岸和田と大阪窯業くらい。大阪窯業も赤煉瓦はやめていたはず。印南郡にも残っていない。

[独言] 久保栄「のぼり窯」

うーんこのくどさはちょっと読みにくい。さらさら読み流すことができないタイプ。慣れるまで少しかかるな。あと登場人物が仮名なのはちょっとアレだな、解読するのがたいへんだ。そもそもどこまで史実でどこからフィクションなのかわからんちんなのな。館林工場を買い取って拡大というのは多分事実なんだろうけど、伯父が信越線の煉瓦を焼いている最中とか、碓氷線のアプトの煉瓦も仁志組(≒久保組)だとか、イリヤマに大とか、どこまで信用してよいやら。あ、でも熊太郎は新潟に工場があったっけ。あれが要するに信越線なのだろ。


2020-01-16 この日を編集

[]妹尾河童『少年H』

何冊手にしたかわからないようなベストセラー本なのだが、このたび改めて読む気になった。この間訪れた駒ケ林やライジングサンの引き込み軌道のことが出てくると知ったからだ。ライジングサンの軌道の件は冒頭に出てきてしまうので続きをどうするか悩んだが結局読んでしまった。うん、読むべきだった。すごく意味のある場所だった。

長田空襲の時に少年Hが逃げ回った辺りを知らずに歩いていたことを知る。阪神大震災のことは頭にあったけれども戦時中の悲劇については思い及ばなんだ。経験したこととしてないことの違いは大きい。2度の悲劇を被った地区……と考えてみて、おそらくそれでは足りないのだろうなと思ってみたりした。さまざまな災害。近世以前のいろいろの戦。亡くなった人が弔われたり同情されたりするのは記憶している人がいる間だけなのかも知れない。記録としては残されてもそれに親身の同情を寄せ得る人がいなくなっていく。これは道理であり仕方ないことだろうと思う。

8月15日を境に少年Hが情緒不安定になっていくこと、その理由、に同情を禁じ得なかった。誰もが右を向いていたのが一夜にして回れ左して正反対になる。戸惑わないわけがない。生き延びるためにはそうせざるを得なかったというのはわかるけれども、端から見ていたらどんなに腹立たしく思っただろう。自分の意思とは無関係な流れが右に左にうねるさまを見せつけられては酔ってしまうだろう。

戦争と流行は似たようなものかも知れない。いつのまにか時流ができていて、確固とした考えを持たない人間はとりあえず従ってしまう。寄らば大樹の影というか、逆らわないほうが楽だからというか。そうやって無意識に時流に流されていく人々が増えていくうちにいつのまにか後戻りできないラインを超えて戦争に突入したり流行が始まったりする。誰もがそれに乗っかって世の中それ一色になったかと思うと、それがまたパタッと止んで、今まで熱狂していた人はどこへ行ってしまったんだろうということになる。それが怖い。自分の預かり知らない祭りが突発的に起こっては止んでいく。見ていると目が回る。だから距離を置く。自分の場合は確固とした信念もなくただ距離を取っているだけだ。

恋ダンスなんかどういう踊りなのか知らないままに終わった。タピオカミルクティーだって飲んじゃいない。MixiとかスマホゲームとかSNSとか数え上げればきりがない。流広告は一切信用できなくなった。巷を賑わすニュースも鵜呑みにできない。されずに立ち止まっている方がエネルギーを消費する。ものである。無駄な神経すり減らしだわな、とは思うが、そうしてきたお陰でやっと、自分なりの考えとか処世術とかが身についたようにも思う。


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