nagajisの日不定記。
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小人なので閑居して不全をなしている(このフレーズ2度目)。トークイベントの資料作ったり写真探したり大量のコピーを読んだりダレて寝たりして1日が終わる今日この頃。進歩のない生活。うーむ。いまのうちにネタを集めておかないといけないんだけどな・・・。
ともかく偏り過ぎだ。例えば国道9号(山陰道)の旧道とか行ってみたいがやっぱり偏っている。そんなに苦しくはないはずだが費用と時間が微妙。鳥取からどうするの? という話もある。というかその前に次号片付けておく必要がありまず不可能な塩梅だ。
あ、すんません、Tシャツは発注しましたです・・・。次号発行の直前に仕上がる予定。がんばって発行前に発送します。代金は何とか予想範囲内に収まりそうな予感で改めてご連絡します>注文された方々。少し余分に作ってあるのでサイトでも販売します(ただしサイズに限りあり)。
トークイベント(以下面倒なのでテと略す)ほかに絡んでいろいろ沈考中。「何故廃道なのか」を書いたことで書いた範囲のことはずいぶん固まったような気がするものの、それが続いていないことからも明らかなように、それ以外の部分が不安定なままで捨て置かれている。あれだけでないはずだと思うのだが(思いたいのだが)残っているのが言葉にしにくい形而上な良さなり理由なりであってなおさら困る。
自分なりの良さを主張するのは構わないだろうが、それしかないような、あるいはそれが王道であるような書き方になってしまいそうな気もする(これまで書いたものでもすでに充分そう思う。いいだしっぺの責任として数回書いてみたが「ちょっとショッパイのう」と思いながら回を重ねてきたのだった)。いろいろな楽しみ方があってよい、と主張してもいいのだけどそれも人の求める答えではないだろう。わかりやすい、読んでためになる、キャッチーなアンサーでなければ一般受けしない。そうしてそのようなものを書くつもりもない。どういうことだ>nagajis
時おり「廃道」という言葉を持ってきたことを後悔することがある。間違いではないのだけど、自分達がこの言葉に抱くイメージと一般的なそれとが乖離し過ぎていて間に説明を入れなければならないのが面倒だ。良くないもの、つまらないものを一生懸命良いもの面白いものであるかのように喧伝しているのではなく、良いもの面白いものだから喧伝していることを、いちいち説明しなければならない。
言葉を変えると自分の遊び場を守るためにワァワァ言っているだけだという言い方もできる。自分ルールが適用される範囲を確保するため廃道の楽しさを宣伝している、とか。要は公園の砂場を自分陣地と言い張る子供と同じである。テで廃道を語るというのは畢竟そういうことなのかも知れない。フンをしに来る犬猫を追っ払うのには吝かで無いが他人まで追い散らさないよう注意したい。
廃道探索とは考古学である。道路考古学と特記してもよい。みたいなことを考えてみたがそう主張するのはいろいろ問題がある。産業考古学というものがすでにあるのだからそれ以上forkせんでもええやろし。
未整理・未分類・矛盾の有無検証なしに書き連ねてみる.
・近世以前と現代との狭間で忘れられつつあること。古い時代の出来事のほうが解説してくれる書籍が多い(何故か)。このままではエアポケットのような位置付けになってしまわないか。わかりそうでわからないことを追究すること。
・スリル。自分の足で突破することの愉快さ。命懸けな場面もあるとはいえ遭難することはまずない。(過信ではなく)
・今この瞬間と同じ時空間にありながら忘れられている存在であること。山々に登山道が行き渡りどんな深山にも人が入っているはずの今日においてひとの通らない道。
・文化文明の行き止まりではない。新しい道ができ更新された結果として残された遺物であって、歴史の積み重ねの一薄層である。例えていうなら蝉の抜け殻のようなもの。だから心安く歩くことができる。
・廃道を歩くことにはうしろめたさを感じないが、そこで見た光景や歴史の幾星霜をうまく表現できないこと(人に伝えられないこと)にうしろめたさを感じるのだ。
・産業の根幹をなす「道」の扱いが低い件について。
・感性が試される・・・のかなあ。それって裏返せば感性がないと廃道歩いちゃダメみたいな論調になるぞきっと。
・何だかんだいう割に現地では感覚で歩いている。その場で歴史を反芻したりかつての往来をまざまざと思い描いたりはしない。
書いた辺りでヨッキ氏の.docがupされる。さて考えなきゃいけないぞと。
追記:前独言のよーにぐったらぐったら考えてるのがいちばんいかんなあ。だから阻害しているというのだ>nagajis
廃道に拘り過ぎるともっと重要なものが疎かになる。<br>廃道がメインであってはいけないとコメントしてみる。
グ。肝に命じておきます