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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2010-03-13 [長年日記]

[原稿] 東熊野@AM4:20

喪に服しつつ、やっとできた・・・北山郷に入るんだったら地図作りなおさないかんのやった。それで時間を取られて上北山のみで終わる。せっかく作るんだしね。もう一回くらい使いたい。手抜きじゃないぞ。アーティクル貼り直すのしぬるんだぞ。(表に出ない付加価値にならんところで幾らでも苦労している>東熊野)

[独言] one year 顎 mosikuha one yea穴子

そういえば昨年の今頃東熊野街道計画を立ててワクワクしていたはずだ。正確には08年11月末頃からひと春寝かせて3月末から探索にかかったのだっけ。当初思っていた以上に広がりを見せて、いまだ終わってない状況に加え幸せな今の身の上など予測もしていなかった。そもそも生きているとは思っていなかったからな。odysseyはまだ4回くらいは続きそうな塩梅だし(何しろ最初の宇野峠越えすら書けてないもの)。

・宇野峠、川端線と周辺街道

・中奥道

・高原木馬道

この辺りはB面小根田でよいかも知れない。文書がまだ手つかずなのがつらい(そのせいで土倉翁置き去りなのが最大の心残りだ)。モノレールも一章立てたいが追加調査が要る。井戸旧道、多古旧道、上多古木馬道、瀬戸索道と調査すべき場所もある。幸せなことじゃないか。

なお、大津古道は追加調査のうえ大根田に。恐らく川上村史上最大の隠れ物件。再調査行きましょうよ!>masaさん

次号から土倉街道も進める。今回切り上げた分余力ができそうだ。いや、廃道本の校正が入るか・・・。あと、まとめる構想も立てんとな>東熊野。それ以外が予想以上に増えた。

[原稿] 廃毒

書き直す過程でいっぱい間違い発見。最終的にだいたいこうなる。


 久しぶりの本企画である。かつて「村田鶴ヲ読ム」と題し、名隧道の数々を設計した村田鶴のことを紹介した(第27号〜29号参照)。その後新たにわかったこと書きまとめておきたい。

おさらい・村田鶴とは

 大正から昭和初期にかけて滋賀県に勤務していた土木吏員(土木技手、のちに土木技師兼道路技師)。横山隧道、佐和山隧道という煉瓦隧道を手始めにいくつもの道路トンネルを設計した。特に昭和期の観音坂隧道、谷坂隧道は意匠性に富むコンクリート隧道として全国的にも珍しい存在。道路隧道の設計者の名前が後世に伝わることはほとんどなく、それだけでも珍しいことなのに、意匠的な隧道を継続して設計し続けたらしいことがわかっている。詳しい経歴や隧道建設に関わるようになった経緯を知りたくて私的に調査を続けてきた。

 以前の回では、村田が茨城県出身で、工手学校を卒業していること、卒業後から大正七年春まで埼玉県に務めていたこと等を書いた。埼玉県から滋賀県への移動は辞令によるものではなく、一度病気退職し、そのうえで相手方で採用され直すという少々イレギュラーな形で行なわれていた。また村田だけでなく複数の技手が同様の移動をしていることもわかった、といったことを書いている。今回はそうした移動の背景に何があったのかを中心に書く。といっても明確な記録は相変わらず見つからないままなので、推測に推測を重ね、外濠をちまちま埋めていくようなものになると思う。

1.埼玉県<>滋賀県の職員の移動

 村田が滋賀県にやってくる前後、彼以外にも5人の土木技手が埼玉県から滋賀県へ移ってきていること、そのきっかけとして大正4年の山田博愛の異動(埼玉県内務課長↓滋賀県内務課長)があったことはすでに書いた。もう少し詳しく見ていくとそれ以前にきっかけがあったらしいことがわかった。大正2(1913)年、滋賀県内務部長だった添田敬一郎が埼玉県知事になっている。埼玉県と滋賀県という、一見何のつながりもなさそうな二県に橋を渡したのは彼だといっていいだろう。山田の移動も彼の口添えがあったのではないかと推測される。内務省官吏(知事、部長、課長)の異動はそういう人的コネクションが鍵になっていたことは『内務省史』にも見えている。戦前の都道府県知事は内務省官僚が勤める制度(官選知事)であったし、各府県庁の内務部長・課長の人事も内務省本局の人事課が取り扱っていた(『内務省史』P605)。

 山田博愛という人物について少し書き添えておきたい。村田より4歳年上の明治13(1880)生まれ。同38年東京帝大土木学科卒、東京市職員等を経て41年に埼玉県内務部土木課長。大正4(1915)年に滋賀県内務部土木課長になるが、村田が来滋する約半年前(大正7年5月)に内務技師となり大臣官房都市計画課に入っている。日本で都市計画というものが議論されるようになったのはこの頃のことで、都市計画課は政府が初めて設けたそれ専門の課であった。関東大震災で帝都復興院が置かれた時、山田は同院の計画局第一技術課長に抜擢され、東京復興案の第一案を作成している。この案は予算削減で復興院が縮小され、復興局となったあおりを受けて実行に至らなかったものの、翌年復興局東京第一出張所長となって復興に心血を注いだ。内務技師を辞したあとも日本大学工学部教授として都市工学を教え、群馬、神奈川県等の都市計画に携わっている。総じていえば都市計画のエキスパートであり日本におけるこの分野の草分け的存在であった。彼の人となりについては理事を務めていた都市計画協会の会報『新都市』の追悼特集(第12巻1号)が詳しい。ここで語られる彼には必ずといっていいほど「清廉潔白の人」という評がついていて、その一方、子や孫にとってはとびきり厳格な家長として君臨していたらしい。いかにも明治生まれの頑固な技術者という感じがする人物である。

6人の技手(“移籍組”)の異動について

 次に、埼玉県から滋賀県へ異動した技手達(以降“移籍組”と呼ぶことにする)について。前回、埼玉県立文書館で各人の履歴書を入手したことを書いたが、一部手に入れ損ねていたものがあったため、うまく活用できなかった。その後再び埼玉県立文書館に足を運ぶ機会に恵まれ、また滋賀県の内部文書も参照できるようになり、それらも交えることで移動の実際を浮き彫りにすることができた。ここではそのことを書いてみる。

 次ページ図は、埼玉県に残された職歴書(いつどの工区に配属されたか、あるいは賞罰の有無を記した内部文章)を解析し、彼らが埼玉県時代にどのような仕事をしていたか示した(つもりの)図である。黄色の背景は埼玉県内の各工区、線が各人の動きを示す。私の理解不足であいまいな所もあるが、概観としてはこのような感じになるはずである。

 まず気づくのが、各人が何らかの形で脈絡を持っていたらしいということ。誰か2人はどこかで必ず同じ工区に勤めていた期間がある。6人が6人ともというわけではないだろうが、“面識のつながり”とでもいうべきものががあった可能性が高いのだ。埼玉を病気退職↓滋賀で再採用というイレギュラーであった以上、例えば県から「このような職がある」と斡旋されたものであるはずがなく、純粋に「ツテ」あるいは「口コミ」による人選だったのではないかと思っていたが、それが裏付けられた格好だ。

 なかでも遠山貞吉(滋賀県時代は隧道工営所主任、のちに大津出張所長)と村田との関係は密のように思える。同じ工区に勤めていた時期が2度あり、かつ、その期間が長い。特に大正2年4月から4年3月までの川越工区勤務は大きな意味を持っているように思われる。というのもこの直前に飯能市(当時は飯能町)の畑隧道が作られ、工事に遠山が関わっていたからである。

 順を追って書こう。明治40(1907)年に飯能町の直轄工事として青梅街道改修工事が始まり、遠山は町嘱託の土木技手になっている(埼玉県行政文書・遠山職歴書。資料請求番号を控え損ねたが郡吏員進退のうちに含まれていたと記憶する)。青梅街道の峠には県下で最初の近代的な道路隧道となる畑隧道が作られ、遠山がその監督をしていた(『飯能市史』資料編二。引用されている行政文書に「監督遠山君給料」という文言がある)。隧道は大変な”難産”で、工事中に崩落したり中途で請負人が変わったり煉瓦巻の巻数を変更したりなどした末、明治43年3月に完成した。遠山も嘱託を解かれ、飯能町を工区に含む川越工区の勤務に戻っている。しかし隧道は完成後にも何度も災害を被り、その復旧のため県の工事出張所が置かれ、大正6年頃まで改修が続けられていたという。例えば明治44年には南側坑口前の法面が崩落し坑口前を埋め尽くした。明治45年には道路下への樋管埋込みがなされている(以上埼玉県行政文書[直轄(明2954−1ほか)]。そういう時期に遠山と村田がこの工区に勤務していた。滋賀県時代、遠山が初代の隧道工営所長として招かれ、村田がその後を継いでいることを考えると、ともに隧道工事の経験があって、それが畑隧道の後始末だったのではないか(そこで2人が面識を持ったのではないか)と推測されるのだ。

 遠山はちょっと面白い経歴を持っている。明治30年に埼玉県に採用されたが、それまで土木技術を学んでいたわけではなく、地元の学者に就いて漢籍を学んでいた程度だったという(http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/kawarabuki/index2.html)。しかし埼玉県採用後に攻玉社に入学、専門教育を受けていたことが、2回目の資料調査でわかった。これは埼玉県の「治水生徒制度」によるものであるらしい。埼玉県では昔から水利土木に力を入れていて、採用した吏員を県費で工学系学校(特に攻玉社)に進学させ、技術を習得させていた。いわば県が養成した県職員であり子飼いの技術者だった。県職員として働いただけでなく、方々の市町村の嘱託を受けて出向している(例えば北足立郡の見沼代用水水利組合嘱託、飯能町嘱託等)のも、そういう経緯を反映したものなのかも知れない。

 他の5人についても見てみよう。最初に滋賀県へ移った吉田勇も攻玉社卒で、熊本県出身。埼玉県では浦和工区一筋で、職歴書からは具体的にどんなことをしていたのか掴むことができない。佐藤道之介は5人のなかで唯一の地元出身者。工手学校卒で、村田の1年後輩にあたる。特に目につく動きはなく、村田同様各地の出張所を点々としている。この2人が山田の異動の直後(大正4年)に滋賀県へ移っている。いずれも病気退職をしたうえでの滋賀県採用である。佐藤の異動はとくに象徴的だ。大正4年9月20日、疾病を理由に依願退職していて、埼玉県側の行政文書には医師の診断書も一緒に綴じられていた。しかしながら翌日の9月21日にはもう滋賀県で採用されているのである(滋賀県行政文書)。吉田の場合も2週間と間を置いていない。真に病気であったはずがないのだ。

 中澤徳次郎は三重県出身・攻玉社卒で、埼玉県土木技手採用後に千葉県へ出向したりと遠山に似た動きをしている(余談だが彼の実家は熊野街道の沿線にあった。08年の熊野街道旅の時もそれと知らずに傍を通っている)。杉山豊吉は最後に移籍した人物で、埼玉県の在籍期間も短い。実家の農業を継ぐが陸軍召集を受け入隊、歩兵工廠射撃検査部で射手をする等したあと早稲田工手学校に入学、というちょっとユニークな経歴の人である。

 埼玉県時代の村田はおもに河川改修に従事していた。埼玉県自体が治水に力を入れていたし、彼が着任した直後(明治43年)に過去最大の大水害を被っているので、他の職員もみな同様であったかも知れないが、村田は特に水利関係の仕事が多かったように読み取れる。明治42年に雇として採用され、最初に着いたところは大落古利根川出張所であった。43年12月には忍(おし)工区中条工場勤務となっている。この工場はfactoryの工場ではなく工事現場のことで、中条堤の復旧工事に携わっていたものらしい。

 中条堤は古くからある水防堤で、利根川が洪水を起こすとこの堤と利根川の堤との間に水が流れ込み、遊水池を形成して、それより下流の被害を最小限にするという仕組みのものだ。明治43年7・8月の大水害では中条堤も決壊し下流域に大きな被害が出た。復旧工事では元通りにするどうかで関係町村が激しく対立し(何しろ中条堤の外側は洪水の時水没する前提に置かれていたから、撤廃されることを願っていた)、工事が大きく遅れている。そんな現場に勤めていたわけだ。その後も各地を渡り歩いて、最後は小山川の改修工営所勤務となっている。村田の辞職理由(辞職願)は「病気ノ為メ職務ニ堪エ難ク」となっていて、医師の診断書では胃潰瘍となっている。小山川改修工営所の所長による、依願退職を認めてほしいという上申書も綴じられていて興味深かった。

村田と大阪府

 村田の埼玉県辞職は大正7年4月30日の日付になっている。滋賀県への採用は10月2日。その間は純粋な休養期間だと思っていたが、実はそうではなかった。滋賀県の内部文書(村田来滋の際に提出された履歴書)によると、5月7日から9月28日まで大阪府に勤務していたことがわかったのだ。

 最初は内務部土木課江ノ子島出張所勤務。江ノ子島は大川(旧淀川)下流の河口付近で、いまの阿波座付近といったほうがわかりやすいかも知れない。当時の大阪府庁もこの辺りにあった。6月11日には水防委員を命じられ、8月30日には三島郡味舌(ました)村(現・摂津市味舌)の直営工事場主任を命じられている。この直営工事が何であったのかはまだ把握できていないが、三島郡一帯は前年に大水害を被っており、味舌でも安威川が決潰して被害が出ている。それに関係する復旧工事だったのではないだろうか。

 他の仲間が滋賀県へ移っている頃、同じ関西圏である大阪に移ったうえで滋賀県へ、という動きはいささか不可解なものがある。何故埼玉から大阪へ?という疑問もある。この辺りのことは大阪府の行政文書を調べれば判るのだろうが、悪いことに府の行政文書は橋本政権下で大変なことになっている。ドタバタはもう1、2年続くだろうという話で、アクセスできるのもそれ以降になりそうな塩梅だ。とりあえず今は、ここでも水利関係の仕事をしていたらしいことに注目しておきたい。(主に私のせいで)隧道一筋だったように捉えられがちな彼だが、本来は水利土木屋であったと思われるのである。

“移籍組”その後

 滋賀県に集結した“移籍組”は、異動後すぐに蒲生郡吏員になるなどボランチ的な仕事をした中澤を除けば、各工区の工区長、工営所の所長等、比較的大役を任されている(比較的というのは技手が工区長に任命されるのが普通で、彼らのような専門知識を学んだ人間なら当然そうなるだろうという役職だから)。特に遠山は着任早々隧道工営所主任に任じられている。この隧道工営所が何をした部局なのか記録がなく、同年建設された家棟隧道の建設にかかわる設置(そのために遠山が呼ばれてきた)と推測していたのだが、実際はそうではなかったようだ。滋賀県の県議会議事録を見ていてずばりな答えを発見した。

 大正5年末に開かれた、翌年の経常予算を審議する議会において、知事からこのような説明がなされている。

「第十六疑ノ県吏員費、此県吏員費デ弐千四百弐拾壱円ト云フモノガ前年ニ比シテ殖ヘテ居リマス、夫レハ後程説明ヲ致シマスル来年度ニテ継続事業トシテ計画シテ居ル、墜(ママ)道工事ノ事業ガ二ツモアリマスルカラ現在ノ技術者ヲ以テ監督ニ当タラシムルト云フコトハ迚(トテ)モ出来ヌノデアリマス、夫デ五十円ノ人ヲ雇イソウシテ両方懸ケ持ヲシテ監督ヲサセヤウト云フ為メニ一人ヲ増ス(以下略・吏員の退職金増加額もあわせた額だという説明)」

 ここでいう隧道工事とは佐和山隧道・横山隧道のことで、これら2つの工事のために技手が招かれたことがはっきり述べられている。技手の名前はもちろん出てこないが、これが遠山であったと見てよい。遠山の滋賀県技手任命の辞令([滋賀県内部文書])によれば、着任当初の俸給は月45円で、これに加えて滋賀県技手としての俸給も加わったのだろう(官吏に具体的な職務を与えることを補職といい、県技手であることと土木課勤務であることは別々にカウントされ、俸給が加わった)。また、移籍組のなかで遠山だけが前職の肩書きを持った状態で異動してきているのも、県議会で正式に認められた人事だったからだと思われる。

(これに気づいたのはKINIAS論文を提出した後のことで、そちらでは違う考察をしている。いずれ修正しなければならない。なお、彼が家棟隧道の工事に関わった可能性は相変わらずだ。彼の着任は7月24日で、大演習に向けた準備が進められていた最中ということになるが、『大正六年陸軍特別大演習滋賀県記録』(大正8年・滋賀県発行)では吉田、佐藤とともに大演習工営係を務めている)。

 この吏員費問題と絡んで、いくつか興味深い質議がなされている。例えばこの議会の議事録第13号、二十六番丸橋茂平による質疑。

「(略)尚ホ一ツハ土木吏員ガ近頃課長ガ更迭スル後ニ於テ多数ノ異動ガ生ジテ居ルノデアリマス、是ハ何レモ当局者ノゴ都合デ更迭スルコトト思ヒマス、元来官公吏総テノモノ、総テノ吏員ノ更迭ヲ行フト云フコトハ一面ニ利益ガアツテモ又一面ニハ害ヲ伴フモノデゴザイマシテ其人ニ依リマシテハ随分経歴トシテ総テノ方面ニ長所ノアルモノデアリマス、ソウ云フモノガ上司ノモノガ代ルト多ク異動ヲサレルト云フコトハ大イニ考慮スヘキ問題ト思フ、是等ハ何ウ云フ事情ニ依テ更迭サレルノデアルカ、課長ノ考ヘデ前ノ吏員ノ内ニサウ云フ経歴ノアルモノガ少イカラ之ヲ改善スル上ニ事務ニ精通スルモノヲ必要トシテ更迭サレタモノデアルカト云フコトヲ承リタイ」

 要するに、課長の異動に伴って土木吏員も入れ替わっていることを懸念した発言だ。しかも「近年更迭スル後ニ」とあるからには、山田の異動にともなう“移籍組”が前例のないものではなかったことが伺える。上級官吏と同様、技手クラスの人間の異動もさほど珍しいことではなかったのだろう。

公務員制度の変遷と村田の職歴

 村田が官吏をしていた頃は公務員制度がコロコロ変わっていて、きちんと把握することが難しい。自分が理解し切れていないところもあるが一度まとめてみたいと思う。間違いがあったらご指摘願う。なお戦前の官吏(内務省の制度・公務員制度)については内務省OB団体が発行した『内務省史』や日本公務員制度史研究会『官吏・公務員制度の変遷』等の資料がある。前者は内務省本局や府県知事レベル(勅任官・奏任官)の話が中心で、技手クラスの人間(判任官)に関してはあまり詳しくないが、本庁勤めの経験者の声が多数載っていて当時の雰囲気がよくわかる。『公務員制度の変遷』は高等官・判任官ともに詳しく書かれてあって網羅的だ。

 さきに高等官と判任官という言葉(戦前の官吏の身分)についておさらいしておく。図を参照されたい。戦前の官吏は大きく2つの階級に分かれていて、上級のものを高等官、下級のものを判任官といい、高等官はさらに勅任官(大臣、知事等)と奏任官(属、技師等)に分かれていた。この他にも雇、傭人といった職もあるが、これは各局が一般社会的な雇用関係で採用した者で、官吏のうちには含まれない。高等官・判任官のなかでも一等、二等などの等級があり(これを官等という)、その等級により給与が決まっていた。また高等官の給与は内務省から、判任官は所属する省庁(都道府県庁)から支払われるという違いもある。

 技師と技手は似て非なるもので、技術系官吏の場合は技師=奏任官、技手=判任官である。これに加えて奏任待遇、判任待遇という身分もあった。これは職の内容や給与が該当官並みということで、身分の上下は「待遇」がつくほうが低かった(これについては後述する)。

 これらの身分差はかなり厳格に通用していて、担当する仕事の軽重はもちろんのこと、例えば内務省や地方庁には「高等官食堂」があって、高等官しか利用することができなかったという。そういう差別は今からすれば時代錯誤はなはだしいものと笑われるだろうが、明確な区分を設けることによってかえって立ち位置を明確にでき、公僕としての職務に徹することができた側面があると思う(上の者は上の者として振る舞い、下はそれに就き従うという役割を自然に受け入れられただろう)。また、本省からその出先機関である都道府県庁の末端に至る膨大な数の人間が内務省を構成していたのだから、ネットワークが機能するためにはそういう区分を設けたほうがスムーズに行ったのかも知れない。しかもその区分内では実に柔軟な意思疎通が行なわれていた。あながち悪い側面ばかりではなかったように思う。

 話がそれた。まず、採用について見てみたい。村田が吏員として働き始めた頃、判任官の採用については明治32年に改正された『文官任用令』によっていた。第二条が採用資格に関する規定で、簡単にいえば

  1. 文官普通試験・高等試験の合格者
  2. 官立・公立中学校等の卒業者又は文部大臣がこれと同等以上と認めた者
  3. 満二年以上文官の職にあった者(一部例外あり)
  4. 満五年以上同一官庁に在職する雇員で、文官普通試験委員の銓衡(せんこう)を経た者

 ただし、技官、技術官、特別の学術芸術を要する行政官は特別で、普通試験等を経ずに試験委員会の銓衡によって任用することができた(第三項、第四項)。土木技手にはこの例外が適用されることが多かった、というよりもほとんどすべてがそうやって採用された。要は技術系官吏は県が必要とした人間であれば自由に採用できたのだった。大正2年の改正で規定はさらに緩められている(『文官任用令』大正2年勅令第261号)。

 大正9年には、道路法施行に伴って『道路管理職員制』『地方土木職員制』『地方待遇職員令』の三職員制が定められた(神戸大学新聞記事文庫・道路(02-116)参照)。滋賀県時代に村田がなった「道路技手兼土木技手」「土木技師兼道路技師」等は『道路管理職員制』によるものだ。この制度による技師・技手職は「地方技師」「地方技手」と呼び、あくまでも「奏任官(高等官)待遇」「判任官待遇」であって、「待遇」のつかない高等官・判任官とは区別されていた。村田の職歴書@滋賀県でも道路技手・土木技手は判任待遇となっており、最初に任命された滋賀県技手は判任官である。道路技手が主たる職、土木技手が従(兼職)で、前者が六級俸、後者が一円。○級俸というのは給与を号数で区分した呼び方で、具体的な金額は俸給令によって定められていた。大正九年頃の判任官四等の六級俸は75円となっている。

 また『地方待遇職員令』では採用基準が定められ、地方技師への昇格の途が次のように定められている。

第二条 高等官待遇事務職員は右の資格の一を有するものより之を任用す 一、文官任用令第五条第一項の規定に依り高等文官となるの資格を有するもの 二、大学令に依る大学の学部にして各々其従事する事務に属する学科を主たる学科とするものに於て其学科を修め学士と称することを得るもの 三、専門学校にして各々其従事する事務に関する学科を主たる学科とするものに於て其学科を修め卒業し且二年以上判任官待遇以上の職に在りて各其従事する事務と同種の事務に従事したるもの 四、五年以上判任官待遇以上の職に在りて各其従事する事務と同種の事務に従事し月額五十円以上の俸給を受けたるもの 五、各々其従事する事務に関する学識経験あるものにして高等試験委員の銓衡を経たるもの

 昭和6年に奏任官待遇となり道路技師兼土木技師に昇級した時は3〜5があてはまったようだ。必要な資格が緩められ、また銓衡による自由任用の途も設けられているのは当時の政情(政党政治)を色濃く反映しているといえるが、日本で最初の抜本的な道路法令が施行されることに伴って、事務作業が増加し、人員不足になることを想定したものでもあった。

 こうした職の位(官職)に加え、位階(官位)も絡んでくる。「正三位」だとか「従六位」とかいうやつ。その官等に相当する初叙位(高等官一等ならば正五位、高等官七等は従七位等)があって、就任とともに与えられ、官職の昇進(というよりも勤続年数)に連動して進位した。位階には極位と呼ばれる“到達できる最高の官位”があって、これが実質的な定年になっていたようだ(例えば判任官一等は従六位、高等官三等は正四位、等)。また、高等官待遇の者と高等官は別のものであった(給与体系や職種が高等官相当だというだけで、身分としては高等官でない)ので、判任官↓高等官待遇となった者でも極位は判任官と一緒であったらしい。村田も最終的には従六位になった所で退職している。

 これと勲位とは別の関係にある。勲章は功績のあった者に与えられるもので、必ずしも官職や官位とは結びつかない。村田の場合は明治37年〜41年に日露戦争に従軍し、戦功があったとして勲八等白色桐葉章を授与されている。昭和2年には勤続9年を評価され、勲七等瑞宝章を受勲。昭和8年に勲六等瑞宝章。位階では先んじていた中澤(昭和7年時点で従六位)は無勲であった。この勲等の昇級(進勲)も勤続年と結びついていたところがあるようで、進勲に必要な年限というものが決まっていたようだ。

 滋賀県に残された村田の書類に興味深いものが挟まっている。大正14年に県から内務大臣にあてて出された叙勲申請書で、勲七等を与えてほしいというもの(後半の書類に「叙勲定年六年」と記されていて、それを越えたので申請したと見て取れる。村田はこの時勤続6年5カ月だった)。しかしこの申請は「進叙年限ニ達セズ」という理由で却下されている。滋賀県の人事課が何かを勘違いしたのか、叙勲の基準が変更になったのか、あるいはそれ以外の何かだったのかはわからないが…。昭和2年に改めて申請した時には勤続満九年で、申請も通り、勲七等を得ている。余白に「叙勲定限 判任四等 八等ヨリ七等ヘ 満九年以上」と走り書きされているのが意味深だった。

埼玉県政・滋賀県政

 村田らの移籍や活躍の背景には埼玉県・滋賀県の県政が大きく関係しているのは確かで、ちゃんと把握しなければと思うのだが、なかなか果たせないでいる。埼玉県については「埼玉県土木建築輯史 巻2 県議会史にみる土木行政 明治・大正・昭和前期篇」という本があって、県議会の議事から土木行政関連を抜き出し、まとめたものだ。また、どちらの県にも議会史・行政史がある。これらから村田在任中の県政(土木行政)を見ていきたい。

 埼玉県時代(明治42年〜大正7年)の県土木行政は、利根川とその支流の改修に終始していたといっていい。明治33年に河川法が成立し、国が利根川を管轄することになって直轄改修工事が始まった。第一期工事は千葉県佐原から河口まで、第二期は佐原〜取手まで。埼玉県がからむ第三期工事(取手〜群馬県沼之上間)は明治42年度から着手することになった。しかし明治40年8月に利根川・荒川の大水害が発生し、これを受けて第三期工事を前倒し(第二期工事と同時進行)することになったものの、その翌年にもまた大水害が発生してしまう。この明治43年の大水害は未曾有の規模で埼玉県の1/3が水没したというほど酷かった。国の改修工事もこのような大規模災害を想定していなかったため、改修計画の抜本的見直しが必要になり、渡良瀬川、荒川の改修も含む新改修計画が明治44年4月に告示されている。この改修工事は昭和5年までかかった。

 幹線河川が国営で改修されていく一方で、埼玉県は負担しなければならない改修費がかさみ、歳出を圧迫した。例えば利根川改修には247万4000円(明治42年度〜昭和2年度継続)、渡良瀬川改修26万9000円(明治43年度〜大正7年度)、荒川下流部27万6000円(大正4年度〜9年度)、荒川上流部235万6000円(大正7年度〜昭和2年度)といった具合。それに治水は幹線河川の改修だけで済む話ではなく、そこにつながる枝川の改修をなして初めて効果が発揮されるものである。立て続けに災害を被った埼玉県は災害復旧が手一杯で、抜本的な支川改修がなかなかできなかった。明治43年から大正4年までに水害復旧で費やした予算は一千万円近くに達したが、いずれも局所的な改修に留まっていたのだった。

 そういう状況の中、岡田忠彦知事(大正5(1916)年10月13日〜8年6月28日)が県内13カ所の河川を包括的に改修する決断をする。計画は6年末に開かれた通常県会に提出され、さらに規模を拡大したうえで可決、翌7年度から着工された。10カ年ないしは8カ年継続、総工費1124万円余りにもなる大事業で、県民にかかる負担はさらに増したけれども、第一次大戦の好景気が追い風となって無事完工している。岡田知事はこのほかにも高等学校の誘致、武州銀行や埼玉共済会の設立など、幅広い分野に渡って積極的な政策をとった。その積極政策が効を奏して埼玉県は中興を果たしたといえる。岡田知事が今日の埼玉県の礎を築いた、というような言われ方もする。

 村田が埼玉県を辞すのは大正7年4月末のことで、そのまま居続けていれば13河川改修事業に関れていたはずだ(最後に務めていた小山川(小山川改修工営所)は改修対象から外れていた。先に県営改修工事として着手されていた河川である)。それまでの経歴や、辞した直後に大阪でも水利土木に関わっていた(らしい)ことと考え合わせると、水利土木への志向があったように見受けられる村田である。願ったり叶ったりではなかったかと思うのだが、しかしそれを目前にして去っていった。表向きの歴史からは読み取ることのできない隠れた意図があったのか。少なくとも、政情から来るもの、すなわち政党政治(後述)の勃興期であって、政友会と憲政会の対立が過熱していた中、岡田知事の政策(=政友会寄り)に嫌気を感じて離反していった|||他所ではそういう辞職・異動がよく見られた|||という線はないと思われる。滋賀県こそ政友会の独擅場であったのだから。

 そういうわけで、滋賀県の県政を語る前に「政党政治とは何か?」を書いたほうがよいように思われる。さらに脱線し役足らずを露呈するがご了承いただきたい。

 明治維新では薩長土肥が中心となって活躍したため、出来上がった新政府も雄藩出身者で占められた。徴用制度も自国に有利に出来ていたため、政府はしだいに旧藩で埋め尽くされ、勢力争いの様相を示してくる(いわゆる藩閥政治)。これを打破して、真に全国民のための政治を実現させようというのが自由民権運動(明治7年〜明治22年)だった。国民から選ばれた代表(議員)によって議会(帝国議会)を運営し、そこで立法を扱おうというものだ。

 帝国議会の権限はごく限られていたけれども、議会の議決を経なければ立法できないということが政府を牽制することになった。自らの思惑を反映させるには徒党を組んで議会の趨勢を奪えばよい。よって、同じ方向性を持つ者同士が集まり、政党を結成した。

 一方、政府としては自分達の思惑を通したい。当初は政党と無縁の立場で行政を執り行おうとした(超然主義)が、次第に議会との対立が深刻化し、動きがままならなくなって、かえって有力政党を取り込んだほうが安定した政治ができることを発見する。特に伊藤博文は政党勢力によって政治を行なうこと(議会の意志が行政府に入ること・いわゆる政党政治)を近代国家のあるべき姿と考えていたので、衆議院第一党である自由党と連立内閣を組閣したり、憲政党を主体とする内閣(第一次大隈内閣)の成立を後押ししたりと積極的だった。さらには自ら立憲政友会を組織し(明治33(1900)年)、憲政党に対抗する勢力に育て上げたりもした。政府に与する「与党」、対抗勢力の「野党」という言葉が生まれたのもこの頃だ。

 真に本格的な政党政治は大正7(1918年)9月に成立した原敬内閣によって完成したとされる。原は立憲政友会の首領であり、衆議院に身を置く議員であって、内閣閣僚も政友会党員によって占められていた(除く陸・海軍大臣、外務大臣)。これによって民意が行政を動かし、しかも安定して行なわれるようになったわけである。

 ただし、原内閣の成立前後、その後続く政友会系内閣<>憲政党内閣の互選時代(「憲政の常道」)は、その弊害が顕著に現れた時期でもあった。議会で勢力を保つために露骨な勢力争いが繰り広げられ、それが市民をも巻き込んで生活を二分するほどになっていた。支持政党の違いを理由に喧嘩を起こしたり、違う政党を支持していることが婚約を妨げたりするようなことがごく当たり前のこととして起こっていたのだ。都道府県の県議会でも同様の勢力争いが繰り広げられた。露骨さでいえは帝国議会より格段上だった。

 そろそろ滋賀県の話に入る。滋賀県は特に政友会が大きな勢力を持っていたところで、憲政会支持者の多い土地に道路を誘致し、村をそっくり寝返らせたりだとかいう工作がまかり通っていたような土地だ。その中心に滋賀県議会長兼政友会支部長の井上敬之助がいた。滋賀県に派遣されてきた知事は井上に就けば安泰だとか、滋賀には二人の知事がいるなどと揶揄されたりした。

 大正8年、原内閣によって滋賀県知事に任命された堀田義次郎などは徹底して政友会寄りの知事で、井上の操り人形だと形容されるほどだった。確かに彼は着任早々、巨大な道路改良計画や学校増設を伴う予算(総額660万円だったので「六六予算」と呼ばれた)を成立させている。地方の整備や産業振興に積極的|||それによって勢力拡大を図る|||なその手口はまさに政友会系であるのだが、必ずしも操られての行政ではなかったのではないかと思う。堀田は三重県内務部長、滋賀県内務部長、愛知県内務部長を歴任したうえでの滋賀県知事就任であった。国道2号改修などはその必要性を親身になって感じていたはずである。

 村田がやって来た滋賀県はそういう滋賀県だった。堀田が内務部長時代に着手していた朝鮮人街道(佐和山隧道)、黒田道(横山隧道)の建設を引継ぎ、知事として戻ってきた頃に完成させた。それを祝って堀田は凝った四文字の篆額を贈った。その後も六六予算関係の仕事が数多くあった。特に琵琶湖周遊道路は15カ年計画の壮大なものであり、するべき仕事は前途茫洋としてあった。

 しかしながら、政友会帝国は長続きしなかった。大正12年、関東大震災の直後に非政党内閣である第二次山本内閣が成立、堀田は休職を命じられ、辞職する。この頃休職を命じられるということは二度と復帰できないことを意味していた。文官の身分・職分の保障に関する勅令『文官分限令』によれば「官庁事務の都合により必要なとき」休職を命じることができ、また定められた休職期限が来れば退職するものという暗黙の了解があった。それを逆手に取り、意にそぐわないものに休職を命じ、自然退職に追いやるのだ。奇しくもそれは、政党政治の揺籃期に政友会系勢力を拡大するため頻りに使われた手口であった。年季前に辞職したのは堀田の反骨心の現れかも知れない。

 続いて井上敬之助も昭和2年に没してしまい、追い討ちをかけるように世界は不況時代へと突入していった。堀田が残していった道路事業はもちろん、その他の土木工事もひどく停滞し、村田の名前も昭和2年に内務部土木課勤務となったあとは公式記録から消え、昭和6年まで沈黙が続く。

尻切れ蜻蛉なのは観音坂隧道の件(県議会史)を読み込めていない&要追加文献調査なため。このタイミングを逃すと次がない。ついでに佐和山・横山・谷坂の追加情報も加えねばならん。

[独言] く

この時間からこの量はきつい

落ち捲る・・・即効削除や

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_ オッキライ (2010-03-13 14:31)

廃道本は4月発売ですか?


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